日本経営巨人伝⑦・若尾逸平ーー明治期の甲州財閥の巨頭・若尾逸平
日本経営巨人伝⑦・若尾逸平
明治期の甲州財閥の巨頭・若尾逸平
若尾逸平
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大正3
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内藤文治良
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若尾逸平 1820-1913
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(解)前坂俊之
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00.09
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13,500
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7568-0893-
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前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
若尾逸平は甲州商人を代表する企業家であり、明治期の甲州財閥の巨頭であった。
若尾は文政三年(一八二〇)十二月、甲斐国巨摩郡在家塚村で村役人の右衛門の二男として生まれた。母は逸平が生まれた翌年に亡くなり、家は貧しかった。
天保八年(一八三七)、十七歳の時、逸平は武士になって身を立てようと、江戸に出て旗本の下僕となったが、商人に頭が上がらない武士の姿を見てイヤになり三カ月でやめて、商売を始めた。

天保十二年(一八四一)、父からの資金援助で、自らの庭で栽培した桃やタバコを持って信州に行商に行った。小金がたまると、今度は利益の多い木綿仲買商となり、真綿、繰綿などを近隣各地や江戸までの約一六〇キロの道のりを一睡もせず、四〇キロ近い荷物を背負って、険しい峠を越えて運び、帰りは甲州で売れる商品をもってとんぼ返りで引き返すという体一つの行商を続けた。
二十八歳で近村の質屋の娘と結婚したが、女房が不倫をしたため別れて、三十四歳で再び行商生活にもどった。結局、行商生活を約二十年続け、タバコの行商からスタートして両替商になるまで十四回の商売替えをしたといわれる。
安政元年(一八五四)に若尾は商売の拠点を甲府に移して、呉服や古着店を開いたが、三年後に再婚し、商人2として、本格的に再スタートした。
安政六年(一八五九)五月、横浜が開港となり、二〇〇年を越えた鎖国に幕が降ろされ、横浜を中心とする外国貿易が盛んになってくる。
時代の流れを俊敏に読み取った若尾は生糸の貿易に着目し、イギリス商館の外国商人と体当たりで交渉して売買に成功、生糸は国内の2―8倍の高値で売れ大儲けした。若尾は弟の幾造を横浜に常駐させ、生糸のほかに陶磁器、漆器類にも手を広げて、甲府と横浜間を商品をかついで往復して財産を増やしていった。
外国人が水晶を好むことを知った若尾は、山梨の特産物である水晶の使い残しのクズや水晶の原石を安く買い占め、これを売り込んで巨万の富を得て「水晶大尽」とも呼ばれた。
万延元年(一八六〇)三月、幕府はそれまで自由であった横浜貿易を生糸、呉服など五品目に限って江戸の問屋を通させる「五品目江戸廻し令」を出した。生糸は大暴落し、若尾も大きな損失をこうむった。しかし、長くこの措置が続かないとみた若尾は、密かに値崩れした甲州の生糸を買い占めて、間もなく禁令が解除された段階で一挙に売却して十万両の巨利を得た。
当時、生糸は不良品が多く輸出品としての信用を失っていたが、文久二年(一八六二)、若尾は苦心して製糸機械を開発し、これが普及して明治十二、三年には生糸の製造法が一変し、輸出が出来るようになった。
若尾は生糸以外にも手を広げ、投機が次々に当たり、砂糖、綿糸などの海外製品も輸入して巨利を得たが、それを見聞した甲州商人は続々、貿易業に進出した。
江戸から明治へ、と時代は大転換期を迎えるが、官軍が江戸に向かって甲府を進軍した時、若尾は一、三五〇両を軍費として献納した。
明治元年(一八六八)六月、甲府に明治新政府の鎮撫府がおかれたが、若尾は新政府に多額の献金を重ねた。
これが認められ、生糸蚕種取扱肝煎(理事)、町名主に抜擢され、明治四年には大蔵省から蚕種大総代に、さらに生糸改良会社社長になり、実質上、甲州の蚕糸業界のトップにのし上がった。
明治維新に乗じてそれまで一介の行商人に過ぎなかった若尾は、一躍甲州を代表する富豪にのし上がったが、このため同五年の農民一揆では若尾家は地方の養蚕農民に襲われて、焼き打ちにあう事件に見舞われた。
明治九年に若尾は甲府区長となり、全資産九万円のうち一万二〇〇〇円を郷里の兄隣平やその手代に分けて、残りの半分を弟幾造に与えて横浜支店をやらせ、自らは両替商に転向して土地を買い占めた。
同十年に甲府に第十国立銀行(山梨中央銀行の前身)が設立された際は発起人代表になり、その後、若尾の経営に移った。この年若尾は県会議員にもなった。
以後、生糸売買を通して甲州、横浜をおさえた若尾は「甲州の若尾」から「日本の若尾」へと飛躍して、天下の富豪としてその名を轟かしていった。
若尾は明治二十年(一八八七)ごろから、中央財界に打って出た。
生糸でもうけた資金を今度は「株式は乗り物と明かりに限る」と鉄道と電気事業の将来性を見込んで、これに突っ込み、東京馬車鉄道、東京電燈に集中投資して株式を買い占めて成功をおさめた。
文明開化の花形として新橋-日本橋間を初めて馬車鉄道が走ったが、明治十五年(一八八二)この馬車鉄道の株が暴落していたのに目をつけた若尾は買い占め、経営にも乗り出し、路線を延長、電化して、明治三十六年には東京電車鉄道に名前を変えた。
その後、競合していた東京電気鉄道、東京市街鉄道を合併して、明治三十九年(一九〇六)に東京鉄道(都電の前身で、東京の交通機関の主役)になるが、若尾がその実権を握った。
もう一つ若尾が目をつけたのは電気であった。明拾十六年(一八八三)に東京電燈(現在の東京電力の前身)が設立されたが、明治二十九年に若尾は同郷の連中に声をかけて、経営の落ち込んでいた同社の株を買い占めて、経営の実権を握ってしまった。
これ以来、昭和の初めまで「若尾の東電か、東電の若尾か」といわれるほど、東京電力は甲州財閥の拠点と化してしまった。
さらには東京ガスにも若尾は手をのばして、乗っ取ってしまう。明治四十三年(「九一〇)に千代田ガスを設立し、これを東京ガスと合併して、株を買い占めて、乗っ取ってしまった。
東京の電車、電力、ガスという三つの重要な公益事業を完全に若尾一人で押さえてしまったのである。
これ以外にも、若尾は横浜正金銀行など多数の会社の創立に関係し、特に鉄道の発展には多大な貢献をし、甲州財閥のリーダーとして活躍した。
甲州財閥は、雨宮啓次郎、小野金六、根津嘉一郎、佐竹作太郎、安藤保太郎、小池国三らの経済人が多数輩出し、当時の日本経済を牛耳る存在となったが、その中心には若尾が総帥として君臨していたのである。
私生活では若尾は無頓着な性格で、着物を裏返しに着ていても平気。年をとってからも無邪気なままで、改まった服装をすると「こんな立派なかっこうをすると、金持ちの隠居になったようでいやだな」と子供のように喜んでいた、という。酒もタバコもたしなまず、囲碁が唯一の趣味であった。
大正二年九月、若尾は九十二歳の長寿で亡くなったが、甲州の一介の行商人から甲州財閥の総帥へとのし上がり、日本を代表する実業家として東京の公益事業を完全に掌握した稀有の経済人であった。
本書は内藤文治良著『若尾逸平』(大正三年) の復刻である。
甲州財閥の巨頭・若尾について、この伝記は唯一のものであり、その決定版でもある。
著者の内藤文治良は現代人の知るところは少ないが、新聞記者だったのか、数多くの関係者から取材し、若尾の足跡を平易に読みやすく、小説風に措いている。巻末には「逸斎翁逸事」として、若尾をめぐるエピソードを九十四項目にわたって集めており、若尾の人となり、事業の全体が見事に浮き彫りにされている。
明治経済史の中での甲州財閥の位置づけ、若尾の比重についてはこれまでの研究では十分解明されているとはいい難いが、本書はその手かかりを与えてくれる。
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