日本リーダーパワー史(116) 中国革命のルーツは・・犬養木堂が仕掛けた宮崎滔天、孫文の出会い
2018/01/22
辛亥革命百年(18)犬養毅の仕掛けた中国革命・滔天と孫文との出会い
前坂俊之(ジャーナリスト)
宮崎滔天は、二〇人の農民をつれてシャムに渡った。
ところが、時期がおくれて現地の日本移民会社は解散していた。シャム農務相や現地日本人の援助はあったが、移民の大部分は適当な職をえられず、大半風土病におかされるという惨憺たる有様であった。
それでも、彼はシャム移民事業の有利なことを説くために帰国し、広島移民会社を訪ねたりしている。しかし、一緒にシャムに行ったのは、末永節(筑前)・平山周(福岡)・前田九二四郎である。
そのとき妻の槌に送った手紙には、次のようにある。
「貧乏の事に至っては元是身に付いたる病気にて仲々一寸には直り不申、御苦心の程を察すれば腹裂くるはかりに候へども、しばらく辛抱仕りおり候。実際貧苦に身を没し居るものゝ苦しみは云ふまでなき処に候へども、最愛の妻子をこの貧困にゆだねて出て行く夫の心も又大分苦しきものにて候。昨日維新豪傑談なる書を読みて梅田源次郎の物語りに至って我同情を寄せ大いに慰め申候……」。
しかし、移民事業は惨憺たるものだった。彼もコレラに罷って九死に一生をえている。しかし、彼はシャム(タイ)の山林事業を有望とみて、それを説くために翌年ふたたび帰国する。ところが、もっとも信頼していた兄弥蔵が死亡した。
弥蔵は商館の番頭に身をやつしながら孫文の輩下と連絡をとっていた。二兄の死で悲観しながら、しかし彼はシャム殖民事業をといてまわる。妻への手紙(一八九六年10月19日付)に、こういっている。ここに犬養との出会いがはじまる。
「殖民の事は犬養毅が中心となって成立に力を尽し居申候。今朝は同人の紹介にて小村外務次官に面会してシャムの形勢を話し、殖民政策の必要を説きたり。
小村次官も大に同感を表せられ、賛成の事を明言せり。彼等もシャムの東方政策上重要の争点なることは知り居るものゝ如し。犬養の外楠本正隆・尾崎行雄等大に尽力することトなり、四、五日内進歩党本部に於て代議士六、七名集り
シャムの事情を聞くとの事也。談話が下手で極困り居候……」。
宮崎が犬養に会ったのはこの時がはじめてであった。これが辛亥革命のスタートになる。
『三十三年の夢』にはこう書いている。
「兎に角、余は改進党嫌なりき。而して木翁(犬養毅)は現に其党の一人なるが故に、余は進んで之と会見するを欲せずして、屡々友人(可児長鋏)の勧告を拒めり。然れども彼はロを極めて其人物を賞説し、心を尽して余を勧誘せり。是に於て余が心終に動けり。乃ち南万里と相携へて木翁を其寓に訪ふ。天縁なる哉。余が方針の一転機は此時に在」。
一転機というのは、シャムの山林事業のために会いながら、犬養から叱られた。「其顔ではちっとも金儲けは出来ぬよ。さッぱり中止したが好い」といわれ、「金儲けも一生の事業だ。金儲けして而して後に天下の事をやる。
成程正当の順序の様だが、さう甘くゆくもんじゃない。がらにないこたァ中止が好い。中止して直に本職に掛かるが好い。ナニ、天下の事は分業法でやるさ。儲かってゐる奴の分から使って行くさと。鳴呼、彼は余が志望を知るや知らずや。可児君は切りに余が膝をつつけり。余は遂に志支那にあることを告げ、且つ援助を与へられんことを乞へり。彼曰く、諾、暫く昼寝でもして待って居たまへと。一語泰山よりも重し。乃ち二兄の死により消耗せる余が志願うは頓に復活せり。余は失望の谷を出でて再び希望の天地に入ることを得たり。木翁は余が心的再生の母なる哉」。
つまり、宮崎を支那(中国)への志を正面から受け止めて、師父となったのは犬養木堂だったのである。
一八九七年(明治30)、木堂の斡旋で、宮崎と南万里と可児長鋏の三人は外務省から支那実情視察に派遣されることになった。彼は、内幸町の下宿で「昼寝」をしているうちに商品北芳の因叢面に報い、頭山満に四〇円借りて上野桜木病院に入院したり、大森で静養したりして、一人出発がおくれたが、とにかく香港で落合った。
香港・広東などでは革命派(一八九二年孫文が結成した興中会の会員)の人びとに会っている。そして、孫文がやがて日本に来ることを聞いて、旅行を中止して帰国する。横浜について陳白を訪れると、そこにすでに孫文が着いていた。孫文は彼のことも弥蔵のこともよく知っていた。
「余の喜びや知るべきな。但其挙止動作の漂忽にして重みなき処、人をして
にわか失望の心を生ぜしめぬ。……以為らくモット貫目なくてはと。鳴呼余や東洋的観相学の旧弊に陥りて自ら覚らざるものなり」。
しかし、すぐさま彼は孫に魅せられる。
そこで、「東都に入りて先づ木翁に謁し、告ぐるに孫君のことを以てすれば、彼は好い土産ものだ、兎に角逢って見ようぢゃないかといふ。更に外務省に至り、小村次官に謁して事情を告ぐれは、兎にかく、報告書を作れと云ふ。乃ち革命結社の現物(孫文のこと)を捉へ来りたれは、直接逢ふて話しをして呉れと答ふるに、彼は吃驚七そんな事して貰ってはと云ふ。然れども官員様は官員様なり。余等は余等なり。如何に官員様が驚きたまふとて、余等は余等の為す所をなさざる可からず。終に木翁(犬養毅)・平翁〔平岡浩太郎〕の高義によりて東京に一軒を構へ、南万里のお雇語学教師の名義を以て、孫・陳二君と同居することとなれり」。(『三十三年の夢』)
小村次官は反対であったが、犬養が大隈外相(第二次松方内閣)を説き、外務省勅任参事官尾崎が府知事と談判して、東京府の「開市場外僑居証」(滞在ビザ)(一八九七年一〇月三日付)をえた。こうして、犬養の庇護のもと、宮崎滔天
と孫文の交友がはじまり、中国革命の拠点が東京にスタートすることになった。
関連記事
-
-
日本リーダーパワー史(434)安倍首相は小泉諌言を聞き「原発ゼロ」へ向け「誤りを正すことをはばかることなかれ」
日本リーダーパワー史(434) 小泉元首相こそ真の日本救国のリーダー …
-
-
●<東京ビッグサイト>ー『経済活性化の切り札の見本市ビジネス』★『日本の最先端技術「見える化」YouTube前坂俊之チャンネルで放送中』★『コンテンツ500本を突破』
東京ビッグサイトー経済活性化の切り札・見本市ビジネス https:/ …
-
-
『難民・移民問題を考える』 ウィリアム・レイシー・スウィング国際移住機関(IOM)事務局長の日本記者クラブ会見動画(60分)(2016.2.25)
『難民・移民問題を考える』 ウィリアム・レイシー・スウィング国際移住機関(IOM …
-
-
日本リーダーパワー史(856)「国難突破解散」総選挙の結果は23日未明には確定する。」★『朝鮮半島有事と今回の3度目の冒頭国会解散の意味と歴史類似性を検証する』
日本リーダーパワー史(856) 安倍首相が「国難突破 …
-
-
片野勧の衝撃レポート㉔ 太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災 ー第4の震災県青森・八戸空襲と津波<中>
片野勧の衝撃レポート 太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災  …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(103)記事再録/『日露戦争の勝利に驚愕したヨーロッパ各国』★『ナポレオンも負けた強国ロシアに勝った日本とはいったい何者か、パリで最高にモテた日本人』★『「あの強い日本人か」「記念にワイフにキスしください」と金髪の美女を客席まできてキスを求めたかと思うと、店内の全女性から次々にキスの総攻撃にあい、最後には胴上げされて、「ビーブ・ル・ジャポン」(日本バンザイ)の大合唱となった、これ本当の話だよ』
2017/06/16 /日本リーダーパワー史(826)『明 …
-
-
日本リーダーパワー史(833)(人気記事再録)『明治維新150年』★『日露戦争勝利の秘密、ルーズベルト米大統領をいかに説得したかー 金子堅太郎の最強のインテジェンス(intelligence )⑤』★『ルーズベルト大統領は「旅順陥落」に大喜びー 黙っていると”Silence is Consent”(同意した) とみる。どしどし反論せよ』★『 日本は半面はサムライ、半面は文明の国民だから強い』●『黄禍論と戦う、旅順の戦闘、日本海海戦の大勝利』★『旅順陥落―ル大統領は大喜び 』
<日本最強の外交官・金子堅太郎⑤> ―「坂の上の雲の真実」ー 『ルーズベルト大統 …
-
-
1949(昭和24)年とはどんな時代だったのか-<朝鮮戦争勃発と特需による経済復興へ>
1949(昭和24)年とはどんな時代だったのか <朝鮮戦争勃発と特需による経済 …
-
-
日本リーダーパワー史(849)-『安倍首相の「国難突破解散」は吉と出るか、凶と出るか、いずれにしても「備えあれば憂いなし」③ 』★『戦後の日本人は「最悪に備える」態度を全く失ってしまった。』★『「ガラパゴスジャパン」(鎖国的、伝統的、非科学的、非合理的な日本思考)から脱さなければ、未来(希望)の扉は開けない』★『明治維新、倒幕の原因の1つとなった宝暦治水事件』
日本リーダーパワー史(849) 安倍首相の「国難突破解散」の判断は吉と出るか、 …
-
-
世界が尊敬した日本人★★<1億人のインド不可触民を救う仏教最高指導者・佐々井秀嶺 >★
世界が尊敬した日本人 1億人のインド不可 …
