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日本リーダーパワー史(616)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』➉『日中韓はなぜ誤解、対立,衝突を重ねて戦争までエスカレートさせたか」ー日清戦争の遠因となった長崎事件(長崎清国水兵事件)②

      2016/08/16

 

 日本リーダーパワー史(616

日本国難史にみる『戦略思考の欠落』➉

『日中韓はなぜ誤解、対立,衝突を重ねて戦争まで

エスカレートさせたか」ー日清戦争の真実②

日清戦争の遠因となった長崎事件

(長崎清国水兵事件)

 前坂 俊之(ジャーナリスト)

18,19世紀の世界史はヨーロッパのすさまじい拡大と征服の大波に世界中が襲われた歴史である。その征服と支配と植民地化を自力で防ぎ独立を守り通した国は世界中でわずか日本一国だけであったことは忘れてはならない。

18,19、20世紀前半までは帝国主義、植民地主義の戦争の時代であり、現在の平和、人権尊重、国際協調主義の感覚で歴史を振り返ると間違うことになる。アジアでは日本とともに独立を守り通したといわれるタイは英仏勢力の緩衝地帯として取り残された結果にすぎず、自力による独立を保持したものではない。アジア最大の大清帝国も独立を失い、西欧列強に喰いちらされるだけの存在となっていた。

どうして日本だけが独立を守り得たのだろうか。会田雄次は「歴史を変えた決断の瞬間」角川書店、昭和59年)の中で次のように指摘している。

『ヨーロッパの征服支配を見るとき、被征服国のすべてに共通した敗北条件といったものがある。征服の魔手がのびてきたとき、国民が一致団結してそれに当るどころか、お互いがかえって分裂抗争を強め、各派が競って征服者側にとり入ろうと試みるという現象である。』

つまり、国内が分裂して、内乱、内戦に乗じて、英仏ロシアら西欧列強は資金、軍備を提供して、それをかたに領土の割譲、経済的な利権の獲得を迫ってきて、これに反対すれば戦争となって敗北すると言うケースがほとんどである。

日本だけが、なぜ独立を守ったかーそこには国内が一致結束して、西欧列強に乗ずるすきを与えなかったためだ。その点で、幕末の勝海舟ら幕府側、薩長の西郷、大久保以下のリーダーの叡智が明治維新という内乱の際に徹底して、外部に頼らず内政不介入を断固貫らぬいた点が明治維新のリーダーの世界的に傑出していた所以であろう。

明治維新当時の中国、韓国、日本の

3国関係とは・・、

ところで、明治維新になって、当時のトップリーダーは広く世界の国々を征服していった強い西欧列強の軍事力がひたひたと極東アジアの中国、朝鮮、日本に迫ってきていることを痛切に感じ、侵略されるという強い危機感を持った。

侵略から身を守るためには海軍力の増強しかなかったが、徳川時代の鎖国政策で、小さな木造船さえ持つことを自ら禁じ、たった4隻の黒船(鉄甲船)に腰を抜かした幕府のレベルだけに、維新のリーダーにとっても海軍の建設は容易な業ではなかった。

もともと、江戸時代約三百年日本が安全で国際紛争の圏外におかれたのは、中国大陸に清帝国という強大な国があり、朝鮮には李王朝が清朝に臣礼をとり、二国ともあえて外征を欲しなかったからである。
その安定と平和が崩れていったのは西欧列強の武力侵略と、清朝、李王朝ともに弱体化したからである。

もともと朝鮮半島はヨーロッパの歴史的な紛争、混乱、戦火の地のバルカン半島に似ている。李王朝末期の混乱と衰亡の原因を、田保橋潔著『近代日鮮関係の研究』(1940年)は次のように指摘している。

「李氏朝鮮の三大禍として、外寇(がいこう)、朋党、戚族(せきぞく)の三を挙げることに、何人も異存はないであろう。
外寇、朋党が朝鮮の政治・社会・文化に、如何に多くの惨害を及ぼしたか、史家のつぶさに論ずるところで、繰り返す必要を認めない。第三の戚族の専横については、最近の現象でもあり、ややもすれは看過され易いが、その痛弊は前二者にあえて優るとも劣らない」

須山幸雄『天皇と軍隊 (明治編) 』(芙蓉書房昭和60年)はさらにこの点を次のように解説している。

「外寇はいうまでもなく外国の圧迫、干渉で、朋党とは派閥の争い、戚族とは国王の縁者、親族のことである。ここでは国王の生父大院君の一派と、国王妃閔妃一派の激烈な抗争を指すのである。この朝鮮半島の動揺がその後の東洋の禍乱を招き、清国の衰亡を早め、代わって日本の台頭をもたらすのである。」

以下、日中韓の争いはここから発するが、須山幸雄『天皇と軍隊 (明治編) 』(芙蓉書房、昭和60年刊行)によって説明する。

「明治初年から日本のそれまで全くなかった海軍力の軍備増強の必要性を痛感させたのは朝鮮問題を中心とした外交関係の紛争、トラブルである。外交問題を解決するのは海軍力である。日本の独立と安全を護るためには、何をおいても海軍力の整備と拡張が急務であることを政府に悟らせたのは朝鮮半島であった。

しかし、当時の貧乏な日本は科学技術が幼稚な上に軍艦の購入、建造に要する莫大な金などあるはずはなかった。

圧倒的な清国の海軍力、軍事力の前に日本は弱体化、貧乏国家で窮する

海軍力の増強を最初に建議したのは右大臣岩倉具視であった。明治十五年の壬午事変(じんごじへん)<1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害された事件>によって、今後ますます多くなるであろう国際紛争を処理し、国家の狐立と安全を護るために、何をおいても海軍の拡張が急務である。

そのため増税もやむを得ない旨を論じた。これが直ちに政府の方針になったのは、トップの人々がその憂いを共にしていたからである。

こうして第一次海軍拡張計画が作成された。翌16年2月、海軍卿川村純義ほ、向う8カ年間に毎年300万円ずつの建艦費をもって、大小艦艇40隻を建造する計画を立てたが、三年後の18年に建造、あるいは購入できた艦艇は12隻しかなかった。
明治18年にさらに朝鮮情勢が緊迫したので、あらたに92隻の建造を計画したが、財政難を理由に21年までに着手されたのは22隻だけ、強大な清国海軍とは比較にならぬ弱体だった。

この清国の大艦隊が日本に来航したのは明治十九年八月であった。

清国北洋水師提督丁汝昌は旗艦定遠に坐乗し、鎮遠、済遠、威遠の三艦をひきい、長崎港に寄港したのは八月十日。七月中旬本国を発し、朝鮮の仁川に立ち寄り、ロシアのウラジオストックを訪問、その帰路立ち寄った。最初から長崎を目ざしたものでなく、航海の途中、定遠の艦底が破損したため、その修理のため寄港したのである。

実はこの寄港の目的は日本を威圧するためのデモンストレーション(示威行為)であった。

清国は1885年(明治18年)4月、天津条約が成立すると、日本を仮想敵国と決めた。

『この前年には清国駐日公使館は「日本地理兵要」を作成し、対日本戦争の下準備を始めた。江蘇の按察使(注‥司法・治安・監察を管轄する地方官)応宝時も江蘇巡撫(注‥省の長官)張樹声も日本征伐を主張した。

その強気の理由は、近代化著しい北洋艦隊の存在であった。同艦隊の主力艦はドイツ建造の定遠と鎮遠で、七千トンを超える最新鋭戦艦であった。当時の日本海軍の最大級の戦艦でも四千トンであった』渡辺惣樹『朝鮮開国と日清戦争』(草思社、2014年、241P)

『国王高宗にとって、朝鮮は、極東最大の海軍を持つ「宗主国」清国に庇護されることが心地良かった。北洋隊に朝鮮海峡(注一対馬と朝鮮本土の側の海峡)通過を依頼し、日本へ

示威行動まで望んだ (一八八五年十月)。北洋艦隊はその期待に応えて朝鮮沖合での訓練を繰り広げ、ウラジオストックにも寄港していた。

その北洋艦隊が近々に長崎に入るという情報を明治政府は掴んだ。』(『前掲書』242P)

そのことを知らない『改進新聞』」(8月19日付)によると、丁汝昌の談話として日本では神戸港を経て横浜に至る予定だと言っていたが、水兵の暴行事件のため予定を変更して、長崎から本国へ引き返している。

定遠の艦長は英国士官のロング大佐で、英国やドイツの海軍士官多数が乗り組んで清国の士官や水兵の指導に当たっており、いわば航海訓練とデモストレ―ションが目的の巡航だった。定遠、鎮遠共に7200トン余の巨艦で、ドイツから購入したばかりの新鋭艦で、当時このような巨艦は東洋にはなかった。

日本の戦艦扶桑が一番大きくて3700トンというから、日本人の肝を冷やすばかりの堂々たる威容を誇っていた。

航海中は英国やドイツ士官の訓練が厳しく、水兵たちも規律正しく行動せざるを得なかったが、上陸すれは解放気分になる。8月13日、定遠の水兵5名が上陸して酒を呑み、かなり酩酊した様子で、丸山町の花町で娼婦を買おうとしたが、楼主に断られたため立腹した水兵が持っていた刀で、戸障子をメチャメチャに破損したのが騒動の発端である。

急報によってかつけた巡査が取り鎮めようとしたが言葉が通じない。やむなく乱暴した二人を派出所に拘引しょうとしたが、逃走した。間もなく水兵が十五人ばかり、士官らしい者が指揮して何かやろうとする気配が見える。

そのなかに先刻の二人がいたので、巡査が拘引しようとしたが抵抗し、刀で斬りつけてきた。巡査は重傷に屈せず応援の巡査二名と協力して取り押え、長崎警察署に引き渡した。

八月十五日、清国水兵三百名あまり、日本刀やこん棒をもって続々上陸してきた。中には士官も多数混ざっていた。四、五名から七、八名ずつ各所をはい回し、夜に入っても帰船しない。何か暴動を企んでいる様子である。梅ケ崎警察署も長崎警察署も非常警戒体制をとり、3人1組となって市内を巡察していた。

夜に入って間もなく各所で巡査が水兵に包囲されて、殴打されたり、斬りつけられるという暴動となった。はじめは傍観していた市民も、その乱暴にたまりかね、刀剣や棍棒をもって各所で巡査たちを助けようと清国水兵と格闘した。11時頃になって水兵たちほ引き上げ、自然に鎮静化した。

以上は「秘書類纂、兵制関係資料」中の長崎港清艦水兵喧闘事件中にある公文書の概要である。滑国の士官二名、水兵四名死亡、重傷六名、軽傷九名、日本側は巡査の死亡四名、重傷一名、軽傷十八名、居留民の支那人も死亡五、六名、長崎市民も重軽傷者多数を出した。このため丁汝昌は日本巡航を取り止め、早々に本国に帰航してしまった。

この報が新聞で伝えられると世論は清国水兵の暴行に憤慨して、清国に厳重に談判すべしとの声が上かった。

外務大臣井上馨と清国全権公使徐承祖と談判したが、清国側は己が非を認めようとはしない。結局、ドイツ公使が仲にたって斡旋の労をとり、翌二十年2月8日、ようやく協定が成立した。それは事件の犯罪者はそれぞれの自国の法律によって処分し、犠牲者には自国の政府が見舞金や弔慰金を払うというものであった。

事件はもともと清国水兵の暴行から起こったもので、取り鎮めようとした巡査や、水兵によって巡査が殺傷されている。清国の水平や居留民の死亡や、重軽症は乱闘の際におけるもので、恐らく義憤を感じて応援にかけつけた多数の市民の手によるものであろう。それに対して清国は謝罪しようとしないのみならず、日本側の対応非難している。

明らかに大清国の威力を示した言辞である。日本側も清国水兵の非を追及したが、結局、押し切られた形になって決着した。東洋一の老大国に対して弱小の後進国・日本は互角に談判できなかったのである。この報道は日本国民を激昂させた。これが七年後の日清戦争で激烈な敵慌心となって現れたのである。

日清戦争の遠因となった長崎事件(長崎清国水兵事件)ー2資料の『歴史秘話」を紹介

http://www.maesaka-toshiyuki.com/war/4297.html

 

日中韓150年戦争史(80)伊藤博文、井上馨ら歴史当事者が語る日清戦争の遠因の長崎事件(長崎清国水兵事件)について

http://www.maesaka-toshiyuki.com/war/4956.html

 

長崎事件(清国水兵暴行事件)について | 前坂俊之オフィシャルウェブ 

http://book.maesaka-toshiyuki.com/book/detail?book_id=180

 

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