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日本リーダーパワー史(148)『(資料)明治・大正の政治はどのような実態だったかー長州閥を打倒せよ』(永井柳太郎)

   

日本リーダーパワー史(148)
『明治・大正の政治はどのような実態だったのか』(資料)
 
永井柳太郎が糾すー『長州人の日本か、日本人の日本か』
                  
前坂 俊之(ジャーナリスト)

過去を知らずして、現在はわからない。過去を知ることは現在を知ることである。明治、大正史を知ることなくして、昭和史は理解できないし、ましてや現在起きている現象を理解することはできない。
今、『第3の敗戦」となったが、根本原因は日本の政治のメルトダウンである。永井が糾弾している政友会とは昭和戦後の自民党の源流である。幕藩体制、身分制度、貴族制、藩閥、軍閥、官閥、派閥、世襲、専制、独裁、官僚の問題点などが克服できず強固に残っている。GHQによる戦後改革によって、昭和戦前と戦後民主主義は断絶したとする考えは間違いで、昭和という時代も疑似的議会制民主国家の内実は封建徳川時代の精神とあまり変わっていなかったのである。
以下の100年前の永井の文章をよむと、今の政治の混乱とさして異なっていない。いまもかわらぬ政治の貧困と、選挙民の政治意識の貧困ぶりのルーツが示されているので、ここに参考までに紹介する。
 
永井 柳太郎 (1881-1944)とは大正、昭和前期に活躍した民政党の代表的政治家である。
"永井 柳太郎"(ながい りゅうたろう、1881年4月16日 – 1944年12月4日)は昭和時代の日本の政治家。憲政会・立憲民政党に所属していた。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。 [経歴] 石川県金沢の士族の家に生まれる。
石川県尋常中学、同志社中学、関西学院普通学部を経て早稲田大学を卒業。在学中早稲田大学雄弁会に所属し、同会での演説が大隈重信に認められオックスフォード大学に留学。帰国後は母校の早稲田大学で教鞭をとる。 1917年第13回衆議院議員総選挙に立候補するが、立憲政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れる。中橋が大阪9区に回った1920年、第14回衆議院議員総選挙に初.当選。
著作に「植民原論」など。「階級を主張するもの、西にレーニン、東に原敬あり」と原内閣を批判した演説は有名。

 
『吾等は世界の白人閥を打破する前に、先づ日本の長州人閥を打破
せざるべからず」(永井柳太郎著)


<『新日本』1917年(大正六)4月号掲載>
 
 明治維新の大目的は上、皇室と、下万民との間に於ける中間的勢力を破壊し、以て、君民協同の大精神を実現するに存したり。明治元年三月、天皇南殿に卸し、公卿諸侯を率いて、天神地祇を祭り、五事を誓約せらる。日く
 
 一 広く会議を起し、万機公論に決すべし。
 一 上下心を一にして盛に経論を行ふべし。
 一 官武一途庶民に至る迄各志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
 一 旧来の陳習を破り、天地の公道に本くべし。
 一 知識を世界に求め大に皇基を振起すべし。
 
 朕、我国未曾有の変革を為さんと、衆に先んじ天地神明に誓ひ、大にこの国是を定め、万民保全の道を立てむとす、亦此旨趣に基き、協心戟力せよと。
 
此日また臣民をして聖旨を奉体せしめんがため更に御宸翰を下し「窃に考ふるに中葉朝政衰へてより、武家権を専にし、表には朝廷を推尊して、実は敬して是を遠け、億兆の父母として絶えて赤子の情を知ること能はざるやう計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、それがために今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くにて、却て朝威は倍々表へ、上下相離るゝこと宵壌の如し。か~る形勢にて何を以で天下に君臨せんや。」と宜(のため)へり。以て 先帝の抱負を知るべく、以て明治維新の大精神の何処(いずこ)に存したるやを伺ふべし。
 
 けだし封建時代には、天皇ありと錐も、唯名のみ。万機挙げて将軍の独裁に決したるのみならず、其下に又大小名あり、大なる者は二三国、小なる者も尚一郡一巨に捗りて、各々世襲専制の権を振ふ。小大名の下に更に多く士人あり、而して士・人に又幾多の階級あり。
 
其卑しき者及び百姓町人に至っては殆ど人格をも認められず、時には苛察に泣き、時には冤柾(えんあう)に苦しむあるも、親しく其、鬱屈を訴ふるに由なかりき。
 
ここに於てか君民相侍り、相親むの機なく、国家は少数貴族の専制に帰し、一般国民に至っては、唯自己の生存を維持し、其安逸を求むるに汲々たるのみ。如斯きの民を率ゐ何んぞ能く、列強の間に介在して富国強兵を競ふを得んや。
 
此れ先帝が封建制皮を破壊し、武家専制の府を倒して、明治政府を確立せられ
たる所以なり。明治政府が民意の暢達を重じ、万機公論に決するを精神としたるは、中央政府の官制を定むるに当り、総裁には親王家を頂き、議定には公卿及び諸侯中の名門を推しゝも政府の主力となり、政務の実際に脚部すべき参与には勤王有切の士を挙げ、又各藩より徴士貢士を召して君民同治の実を拳ぐるに勉めたるに徴するも明白なり。
 
徴士とは各藩より有為の士を抜擢し、之れに一定の官職を授けたるものにして、今日所謂人材登用なり。貢士は朝政を討議せしむるがため大藩より三名、中藩より二名、小藩より一名、各々輿論を代表するがため選出せられたる者にして、之れを議事官と称し、其性質たる、当に今日の代議士に彷彿たりき。
 
其他諸般の改革も亦、凡て此精神を以て一貫せられ、封建制度の転覆と共に、君民の間を疎隔すべき一切の中間勢力も亦消滅し、麦に初めて王政維新の大精神を顧現したり。
 
 
 然れども如斯き改革は主として薩、長、土、肥四藩の活動に依る事大なりし結果、王政維新後に於ける廟堂の勢力は、自ら此等四藩の掌握する所となれり。殊に明治六年の征韓論分裂後は、土、肥両藩の人物多く野に下り、天下の大勢は殆ど薩、長二藩の意に決するに至りき。
 
もとより木戸及び大久保の如きは、薩、長の藩族を以て政府の権力を籠断(ろうだん)せんとするが如き偏僻なる私心を有せざりしならんも、而かも維新の功業を急ぐの余り、自己に反対する者は、躊躇なく之れを駆逐し、偏(ひと)へに眉己に服従する者を挙げて、之れを任用したる結果、何時しか新政府の要部は、薩長二藩の士を以て充されたり。
 
其後木戸及び大久保死し、其末輩たる伊藤、井上、山県、黒田、松方等が其政権を継承するに至り、薩長専横の弊風は俄かに増大し、明治十四年、大隈が国会開設の必要を唱へ、薩長諸参議と衝突して閣外に放逐せらるしに及び、政府の要部また一人の薩長人にあらざる者を見ざりき。
 
如斯にして一皮徳川幕府より帝室に収めたる権力は、再び薩長両藩に掌握せらるゝに至り、薩長雨藩は、事実に於て、天下の号令権を世襲するの奇観を呈したり。試みに明治十八年、内閣官制改正後に於ける歴代の総理大臣を見よ。
 
長州人の日本か、日本人の日本か
 
(長州人)伊 藤 博 文――(薩摩人)黒 田 清 隆――(長州人)山県有朋―(薩摩人)松 方 正 義―(長州人)伊 藤 博 文―(薩摩人)―松方正義(長州人)―――伊 藤 博 文――(佐賀人)大 隈 重 信―――(長州人)山県有朋――(長州人)・伊 藤 博 文――(長州人)桂 太 郎―――西園寺公望(準長州人)―(長州人)桂太郎――-(準長州人)西園寺公望 ―――(長州人)桂 太郎――(薩摩人)山本権兵衛 ――(佐賀人)大 隈 重 信――(長州人)寺 内正 毅-
 
 即ち明治十八年以後内閣を更迭する事十八回の多きに及ぶといえども、真の民間政治家にして其総理大臣たりしは一大隈重信あるのみ。
其他は凡て長州人にあらざれば、必ず薩摩人なり。西園寺侯は公卿の出なりと錐も、其養子は長州人にして長州出身の元老井上侯とは親戚の間にあり。加ふるに伊藤公と好く、公が第十八議会に於て桂内閣と妥協し、天下の非難を招きて政友会を去るや、自己とは異体同心なりと称し、其後任者として紹介したる程長州に密接なる関係を有する人物なり。
 
従って明治三十九年侯が内閣を組織したる時の如きも其閣員の多くは、之れを正准山県係の人に求め、政友会員にして入閣したるは、僅かに原敬と松田正久との二人に過ぎざりき。
 
故に西園寺侯はこれを目するに民間政治家を以てすべからず、西園寺内閣は事実に於て、長州人内閣なりき。殊に西郷、黒田、川上等の相次いで歿するに及び、薩長交互に内闇を組織する慣例も滅び、明治三十一年以後は、一山本内閣を除き、又薩人内閣を見ず、長州人は殆ど歴代相伝へて政権人が如何に政権を聾断し宛然世襲専制の暴威を振ひたりき。余は尚は長州人にいかに政権を籠断しするに汲々たるかを明瞭ならしむるが為め左に歴代の植民地総督を列挙せんと欲す。
 
① 台 湾 総督
 
 従明治二十八年 重岡二十九年
(薩靡人)樺 山資 紀――(長州人)桂太郎-(長州人)「乃木 希典」
(長州人)児玉源太郎――(長州人)佐久馬佐馬太
 
見るべし占領当時の樺山総督と大隈内閣当時任命せられたる安東総督との他、凡て旧長州藩族なることを。次ぎに此れを
 
② 朝鮮統監及び総督
 
朝鮮統監及び総督に見るも亦然り。
(長州人)伊藤 博文 -(長州人)曽根荒助-別(長州人)―(長州人)長谷川好道
 
③ 関 東 部 督
 
では福島安正をして大島義昌を継がしめたるは、一見奇なりといえども、実は決して奇とするに足らず。何となれば福島は軍人中の外交家にして、信州出身なりと錐も、巧みに長州に迎合し、参謀本部在職中より既に其薬籠中の者なりき。若しそれ中村覚に至っては、彦根出身なるに係らず、長閥のため直言硬骨の士東条英教を蹴りし人なり。
 
東京衛戌総督より一躍して、関東都督の重職に就きしは敦へて怪しむを須ゐざるなりそれ台湾、朝鮮及び関東州は共に国民が数万の生霊を犠牲とし、屍山血河の間に獲得したる所なり。
 
然るに今や其号令権は挙げて正准長州人の掌握する所となり、長州人に迎合する者に非ずんば其土地を拓き、其利益を収むる能はず。之れ陛下の領土を私し、陛下の良民を虐待する者にあらずして何ぞ。
 
 彼等は又陸軍部内に其勢力を扶植し、陸軍の実権を掌握するに努めたり。長州出身の軍人中には一品会及同裳会と称する二団体あり。
 
一品会とは旧藩主毛利公の紋所がロ晶にして漢字の1品に似たる所あるより斯く命名したる由なるが、山県、寺内、大島、長谷川等の先輩諸将を始め少将以上の者悉く之れに属し、陸軍部内の任免熱砂多くは予め此会幹部の秘密協議に由って決するを常とすと云ふ。
 
同裳会も亦全国に於ける連隊長以上の長州出身者の団体にして、二品会の諸将と相応じ、長閥の権勢を張るを目的とす。如斯くにして長州軍人は今や陸軍部内の要所に伸び、いやしくも長州出身の軍人にあらざる者は、如何に俊秀の士と錐も、自ら屈して長閥に迎合せざる限り、大佐若しくは少将以上に昇進する事殆ど不可能なり今歴代の陸軍大臣を見るに当初は多く薩摩人なりと錐も、西郷、黒田、川上等の如き先輩を先ぶと共に、其実権は自ら長州人に移り、明治三十一年以後は殆ど常に正准山県系の人物を以て之れを独占するに至れり。
 
時に外部との関係上止むを得ず長州出身にあらざる武人を以て陸軍大臣たらしむる事ありと錐も、如斯き場合に於ては常に其次官又は軍務局長の重職に長州出身者を置き、之れを監視せしむるを常としたり。左に歴代陸軍大臣表を掲げて之れを明瞭ならしむべし。
 
歴代陸軍大臣表
 
(薩摩人)大山巌――(薩摩人)高島柄之助――(長州人)桂太郎――(長州人)児玉源太郎――(加賀人)木越安綱――(土佐人)桶瀬幸彦、――(長州人)岡市之助、
 
 右の中楠瀬幸彦は、憲政擁護の運動起り、長閑の声望殆ど地に落ちたる時民間の輿論に推されて陸軍大臣たりしが故、しばらく長閥の制肘を避け、長閥以外の出身者を挙げて次官及び軍務局長となすを得たりと錐も、其他の長州出身者に非らざる陸軍大臣は凡て長州出身の次官、或は軍務局長を以て監視せられたるのみならず、石本は士官学校在学時代より寺内に好く、木越も亦石川県出身なりと錐も、一実は桂の子分に過ぎぎりき。
 
若しそれ大島健一に至っては、岐阜人なるも、日清戦争の時山県の副官を勤め、爾来常に山県の門に出入して其歓心を求むるに汲々たり。
 
如斯く陸軍々政は殆ど挙げて長閑の掌握する所となれるのみならず、国防用兵の独立機関たる参謀本部の如きも亦、川上揉六の穀後漸く長閥の圏内に帰し
長州出身者に非らざる軍人の前途は殆ど閉塞し、如何なる俊秀の士と錐も、また其浜足を伸ぶる能はざるに至りぬ。先帝の御製に白く
 
山の奥、島の果てまでたづね見ん 世に知られざる人もありゃと
 
似て虎帝が如何に天下の人材を網羅して、以て国運の発展に資するに御熱心なりしかを知る可きなり。然るに何事ぞ、長州の藩族がほしいままに陛下の陸軍を墜断し、其一族一味を以て要路を擁塞せんとは。これ豊 陛下の陸軍を長州の陸軍となし陛下の軍人を長州の軍人たらしめんとするものにあらずや。
 
 四 かくのごとくにして国家の要路今や殆ど長閥の独占
 
に帰し、文官も、また武官も、長州人にあらずんば人にして人にあらざるなり、賞罰多く愛憎に出で、政刑屡々情実に成る。愛に於てか人心卑屈に流れ、巧みに長閑に迎合し、阿執媚債 (あゆびねい)を恥とせざる者は、其地位を保ち、其禄に就くを得と錐も、直言硬骨の士は、凡て遠ざけられて、其能を天下に致すを得ず。
 
かくのごとくして、いづくんぞ挙国一致を以て敵国外患に当るを得ん。それ一宮武一途庶民に至る迄各々志を遂げしむるは、維新の皇漠なると共に、又実に治国の要訣なり。然るに長餌は、自ら国家の権勢を聾断し、公議輿論の之れを弾劾するに省みず、独り善政を標梯して、強て挙国一致の服従を求めんとす。果して藩新の皇襖に忠に、又治国の要訣に明かなりと云ふを得べき一か。
 
 
長州の先輩吉田松陰の開国進取論に日く。
以て松陰先生が自己を空うして人材を天下に求め、普ねく各藩有為の士と共に、挙国一致の開国進取を策したる精神を見るべし。然るに今日の長閥諸公は、上 帝室を遮り、下人民を抑へ、自ら徳川幕府を継ぐべき中間的勢力たちんとせ
       ただるものにして、膏に維新の大精神を無視するのみならず、又実に日本をして日本人の日本たらしむるが為め死生を賭して奮闘したる各藩志士の赤心を揉璃するものと云ふべし、我等にして今長閥及び長閥の附馬たる政友会を倒し、藩閥政治の弊風を根絶する能はずんば、又何の面目あって地下に吾等の勇敢なる祖先に見えんや。
 
『新日本』1917年(大正六)4月号
 

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