「昭和史決定的瞬間/名シーン』-『1941年(昭和16)12月3日の山本五十六連合艦隊司令長官の家族との最後の夕餉(ゆうげ、晩ご飯)』★『家族六人一緒の夕食で山本も家族も何もしゃべらず無言のまま』(日本ニュース『元帥国葬」動画付)
2018/06/17
山本五十六の長男が回想する父との最後の夕餉(ゆうげ)
昭和十六年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃。
連合艦隊司令長官・山本五十六が家族に密かに別れを告げるため、瀬戸内海・柱島の連合艦隊司令部から急きょ上京し、東京・青山南町の自宅に寄って、一夜をすごしたのは12月3日である。
5日後に日米戦争を山本が仕掛けることは家族は知る由もなからたが、これが父との最期の別れになるのでは、と長男義正はうすうすと感じていた。
その日の夕食は異例であった。
妻・礼子は肋膜炎(ろくまくえん)で床にふせていた。
いつも食事は台所横の六畳の部屋ときまっていたが、山本は女中に命じて、「お膳を運びなさい」と礼子の病室に運ばせた。
礼子は起き上がり「こんなかっこうで、すいません」とわびた。
久しぶりの家族六人一緒の夕食が重くるしい雰囲気の中で始まった。
山本は何もしゃべらず、うつむきがちに黙々と箸を動かす子供たちを時々じっと見つめていた。オカシラつきのタイには誰も手をつけなかった。
家族の会話もなく、無言の食事の後、子供たちはすぐ部屋に引きこもった。
義正は父の部屋で目にした、墨で書かれた日米の現状についての書類と、この食事を重ね合わせて、日米戦争の切迫を強く感じて、その夜は眠れなかった。
翌朝、義正はカバンを持って学校に出がける際に、はじめて父の見送りを受けた。
「行ってまいります!」
「行ってきなさい」
義正は父の熱い視線と心を背中にジリジリと感じながら、「決してふりむくな!」「この時の父の姿は一生忘れないだろう」と心に言い聞かせながら歩いた。
義正にとってこれが生きている父を見た最後になった。
義正が父の思い出や家庭生活について振り返って書いた『父・山本五十六1その愛と死の記録』 (光文社・昭和四十四年刊)に描かれた最後の夕餉と別れの名シーンである。
父の戦死に道端で号泣
山本は晩婚で、大正七年(1918)8月、三十五歳のときに、三橋康守の三女礼子と結婚した。長男義正(大正十一年十月生)、長女澄子(同十四年生)、二女正子(昭和四年生)、二男忠夫(同七年生)と四人の子供をもうけた。
山本は海外勤務や艦上生活が長く、家庭は留守がちだったが、子供たちによく手紙を書き、クリスマスカードは欠かさずよこしていた。
子ぼうのうな山本は子供たちにせがまれると「ホイキタ!」と逆立ちをしたり、豆をボンと空中に放り上げてバクッと口で食べたりする芸を見せて喜ばせていた。
<上の写真は得意の逆立ちをする山本五十六(米国勤務時代)>
太平洋戦争が2年目に突入した昭和十八年四月二十日、「自宅に早く帰れ」という連絡で、義正が早退して高校から急いで戻ると、父の親友・堀悌吉(ていきち、退役中将)が待っていた。
堀は一瞬、口ごもり、「山本が前線で戦死した。軍刀の柄頭を握ったままの姿勢で、立派な壮烈な戦死だった。
「明日正式の発表がある」と義正に告げた。
夫の戦死を知らされた妻礼子も、堀が感嘆するほど冷静であった。
喪主をつとめる義正は、頭をさっぱりしておかねばと思い、散髪屋に行ってバリカンでくりくりの丸坊主に刈りあげた。
表に出て歩きながら、急に父との想い出がよみがえり、涙が噴き出した。義正は道端にしゃがみこんで号泣した。
六月五日の国葬では、二十二歳の義正が喪主をつとめ、父の位牌を胸に葬列の中を歩いた。
義正は東大に進み、在学中に志願して海軍に入隊、予備少尉となり、戦後は東大に再び復学して卒業後は、北越製紙に就職した。
義正も父と同じく三十五歳で結婚、二人の子供ができた。
「父ほど真実が語られなかった人は少ないのでは……」との思いから、子供の日に映じた父の姿を記録して昭和四十四年に出版した。感動の書に仕上がっている。
<以上は別冊歴史読本88号「事典に載らない日本史有名人の子供」(2004年7月刊、新人物往来社、174-175P掲載 前坂俊之執筆)
関連記事
-
-
裁判員研修ノート⑦ 冤罪、誤判と死刑を考える①-明治、大正、昭和の死刑誤判事件の全調査
裁判員研修ノート⑥ 冤罪、誤判と死刑を考え …
-
-
日本リーダーパワー史(555)「日露戦争での戦略情報の開祖」福島安正中佐⑤『清国は共に手を取り合ってやって行ける国ではない』と結論
日本リーダーパワー史(555) 「日露戦争での情報戦略の開祖」福島安正中佐⑤ …
-
-
速報(192)『日本のメルトダウン』世界軽蔑劇場―<オリンパス、大王製紙、巨人内紛、50年福島原発騒動>日本沈没上演中!
速報(192)『日本のメルトダウン』 世界軽蔑劇場―<オリンパス、大王製紙、巨人 …
-
-
速報(468)『日本のメルトダウン』●『米軍史上、最も不人気な戦争が始まる」『世界で最も危険な韓国人、潘基文』
速報(468)『日本のメルトダウン』 ●『 …
-
-
今一番求められるのは<社会の木鐸>である―反骨のフリージャーナリスト・松浦総三論(片野勧)
今一番求められるのは<社会の木鐸>である ―反骨のフリージャーナリスト・松浦総三 …
-
-
<F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(207)> 『7年ぶりに、懐かしのアメリカを再訪,ニューヨーク めぐり(5月GW)⑤』 『2階建バスツアーでマンハッタンを一周』ブルックリンブリッジを通過、 イーストリバーを右手に、国連ビルを見上げ、 トランプタワーを見て、セントラルパークに向かう➀
<F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(207)> 『7年ぶりに、懐 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(125)/記事再録★ 『超高齢社会日本』のシンボル・世界最長寿の彫刻家/平櫛田中翁(107歳)に学ぶ」<その気魄と禅語>『2019/10月27/日、NHKの「日曜日美術館ーわしがやらねばたれがやる~彫刻家・平櫛田中」で紹介』★『百歳になった時、わしも、これから、これから、130歳までやるぞ!』と圧倒的な気魄!
2010/07/31   …
-
-
『オンライン講座・日本政治はなぜダメなのか、真の民主主義国家になれないのかの研究』★『議会政治の父・尾崎行雄が語る明治、大正、昭和史での敗戦の理由』★『① 政治の貧困、立憲政治の運用失敗 ② 日清・日露戦争に勝って、急に世界の1等国の仲間入り果たしたとおごり昂った。 ③ 日本人の心の底にある封建思想と奴隷根性」
2010/08/ …
-
-
『中国近代史講座』★『『辛亥革命100年で孫文を助け、辛亥革命を成功させた最大の日本人は宮崎滔天で、宮崎家は稀有な「自由民権一家」であった。(上)
2011/10/21 日本リーダーパワー史(201)記事再 …
-
-
日本リーダーパワー史(323)「坂の上の雲」の真の主人公「日本を救った男」-空前絶後の参謀総長・川上操六(41)
日本リーダーパワー史(323) 「坂の上の雲」の真の主人公「日本を救った男」&# …

