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日本リーダーパワー史(277)『歴代首相でリーダーシップNO1は原敬ー小沢一郎と比べると月とスッポンの大宰相②>

   

日本リーダーパワー史(277
 
『原敬と小沢一郎を比較すると』

『日本の歴代首相でリーダーシップ
NO1は原敬ー
政見、人心収攬術、人格、金銭感覚、国際感覚を
小沢と比べると月とスッポンの大宰相>

 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
大宰相原敬と小沢一郎は同じ岩手県出身である。原敬は平民宰相を謳われた。

外交官としてパリ公使館で3年勤務、その後、大阪毎日新聞社長、その見識を買われて伊藤博文にひきぬかれて立憲政友会のかんじとなり、政党政治家としてスタート、明治の薩長藩閥政治の大ボスで政党嫌いの山県有朋と対決して「山県閥」政治権力を徐々に崩して大正七年(1918)にわが国初の本格的な政党内閣を築いた。
時に62歳。『西にレーニンあり、東に原敬あり』とその政治力がピークにあつた3年後に暗殺された。

大正期の衆議院議員・鈴木 隆(すずき たかし、1882―1978)は、大正9年(1920)の衆院選挙で千葉1区から立候補し初当選。以後5回連続当選を果たし、「政界思い出話百話」(昭和41年刊、千代田書店)なる本を出しており、この中で自ら政友会で謦咳に接した原敬についての思い出話を掲載しており、興味深い部分を紹介する。

 
 
原首相の『願用と考慮』 島田俊雄談
 
原首相は極めて明断な人であった。人から事を頼まれると、あいまいな返答は避けたという。「ノー」と断る場合でも、相手に不快な感じを与えるような、応対ぶりはなかった。「考慮」という言葉をつかった。そしてよく話を聞いてくれた後、「考慮しよう」と言われると、殆んど願件を採用してくれた、とは島田俊雄(政治家)の談であつた。
原首相が考慮という言葉を、重んじたのであろう。「一事一件について充分に考をして決行すれば、過ちもなく後世に伝え聞かれても、良い程のことを、やつたということに
なる。といふ自信を以って考慮という言葉を重んじて、つかったのであろう。(「政界思い出話百話」より)
                                              
 
 
鈴木隆の外遊所感と原首相
 
ある時、鈴木が世界各国の外遊から帰国し原首相を官邸に訪ねたが、珍しく訪問者が一人も居なかったので、時間たっぷりの会談が出来た。
 鈴木が「私の出発前に、全部の人が、欧米の文物から道義心の優秀なことを、説かれたのであった。ところで私の目に映った欧米の天地は先輩の指導とは大分距離があった。私には欧米の文物も、意外につまらなかつた」と次のような話をした。
 
「日本人の頭は勝っているその所感の一つとして、日本人は島国根性で、規模計画が小さい、というのが先輩の一致した意見で、たとえばミシシッピー河に架橋して、世界一の大偉業と米人は誇る。おかしな話だ。
 
ミシシッピー河は米国内の河だ。鉄材その外の資材は有り余っており、それを用いて橋を架ける、鉄道を敷く。どこに苦難と精力を打込んだ点があるか?太閤秀吉が四百年前に大阪城を築いて、あの振袖石と唱える巨石を小豆島から運んできて、積み上げた雄大なる事業とその遂行力の意気はどうだ。
更に八百年遡って奈良の大仏、七百年を遡って鎌倉大仏を鋳造したなどのを比較したら、欧米の大事業などと云うも、たいしたことはない」というと、原首相は黙って聞いていた。
 
 
そして、おもむろに「多方面にわって見て来てくれた。古い日本を調べると、外国に勝ってることを随分やっている。たまたま鎖国主義のために、物質文明が立ち遅れたが、人間の能力は決して欧米人に劣ることはない。もっともな見方です」と賛同したという。(「政界思い出話百話」より)
 
 
 皇太子(昭和天皇)の外遊と原首相のリーダーシップ
 
1912年(大正10)、原敬首相の時代に皇太子(昭和天皇)に欧州観光旅行を勧めて、断行した。前代未聞のこと。周囲は猛反対で、特に枢密院から強く反対が起った。神格化されていた当時の天皇の海外旅行など想定外の時代である。
当時、朝鮮独立運動のテロリストが上海その他の地で、皇太子を待ち伏せしているという情報がヒンピンと伝わっていたので、万一の事を考えて中止すべきだというのだ。
 
しかし、日本は国際連盟で[常任理事国]、新渡戸稲造が事務局次長{実質的な事務総長}をつとめており、将来元首となるべき若き皇太子は是非、ヨーロッパを知っておかねばならぬ原の強い決意のもとでの帝王学の一環であった。皇太子が、世界文化の中心地を視察さられて、「観光」することこそとが、わが国光をいやが上に照らす所以である、皇太子の若年の今こそが好機であるとし、万難を排して断行したのである。
 
原首相は「万一、旅行中に、異変があれば、直ちに自匁して、罪を天下に謝す」の強い決意で密かに遺書を認めていた。幸いに皇太子が半年に及ぶ旅行を無事に帰国し横浜に入港せられた日、原は横浜港阜頭に出迎えて、感極まって、涙でハンカチを濡らしたのであった。
原敬は「観光」の本来の意味を熟知していたのだ。
 
観光の真の語源は「国の光を観る」こと。
 
中国の戦国時代(BC403年-221年)といえば、今から二千数百年前だが、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配していた。南北朝時代の末期に隋は、この陳を滅ぼして天下統一を成し遂げた。その陳国の国王は属公といい、その王子が敬仲といった。ある時、周の都から、占い大臣が来たので、敬仲の将来を占ってもらうと、「国の光を観よ」と説いた。
その意味は、敬仲は他国を旅行して、いろいろな国の制度、文化、生活の光を観るがよい。そして、自国と比較検討して、他国のすぐれた制度、法律、文化、人と交際しそのいい面を採り入れ、自国の改革、政治、生活の向上を図り、善政を実施すれば、人心は敬仲の徳を慕い、国勢の興隆と天下の泰平は間違いない、とその大官が説いた。「国の光を観よ」である。
この言に従い、敬仲はただちに諸国を「観光」の旅にでて、いまでいう海外視察、調査の旅を続けた。そして、国王となり明君として徳政を施したと言われる。
つまり、他国の美点を観察し、研究をすることを、『観光』というのである。本来の「観光」の意味は、決して日本の昔からあった物見遊山、湯治、漫歩、温泉旅行、お伊勢参りなどとは違ったもので、奈良、平安時代の「遣隋使」「遣唐使」と同じく、国外留学、国外研究、海外視察の意味に近いのである。
 
歴代宰相の中ではベスト3には入る名宰相・原敬はこのことをよく理解していた。自らも外交官としてフランス公使館に長期駐在して、昭和天皇の皇太子時代には周囲の猛反対を押し切ってヨーロッパ旅行を実現した。本来の「観光立国」の実現である。
 
 
皇太子は無事、9月3日に帰国したが、それからわずか2ヵ月の大正十年十一月四日、東京駅で駅長室を出て、改札口に行こうとした広場で、十九歳の青年により短刀で胸部を刺殺された。
 
 原の政敵である山県は「ああいう立派な人間をむざむざ殺されては、日本の明日もたまったものではない。心配でならぬ」と語っていた。
 確かに、原敬は明治以来の歴代宰相で、その国際的な見識、政治力、リーダーパワーではベストワンといってよい名宰相であった。藩閥政治、軍閥政治と真正面から戦い、成果を挙げつつあった矢先のこの不慮の死で、軍をシビリアンコントロールできる政治家はいなくなり、以後は昭和の軍国時代の幕開けとなった。
原敬が暗殺されなければ、その後の歴史は大いに変わっていたことは間違いない。
 
 
 彼の遺言状はジャーナリスト出身の平民宰相の名にふさわしいものであった。
 
一 葬儀は盛岡にて営むべし。東京にては何の式もなすに及ばず。
一、墓碑には氏名のみ記し、位階勲等を記すに、及ばず。
一、葬儀は、母や兄の例によりなし、それ以上の事をなすべからず。
一、位階勲等の陸奴は辞退すべし。党葬の儀も辞退すべし。我亡きの後生活は質素を
   旨とすべし。
 
葬儀通知状は、原貢一人の名義にて発し、先輩、知友ら連名にするに及ばず。
 
 死亡広告の文案まであった。すべてが郵便報知や大阪毎日新聞社長までつとめたジャーナリスト原のスタイルで統一されていた。
 
 
自らの「原敬日記」で総理の毎日を情報公開した世界に例のない大宰相

 原は、明治以来の政治家の中で、後世にその政治日記を残すことに最も意を用いた、稀有の政治家であった。明治八年(一八七五)、二十歳のときから、大正十年に暗殺される前日まで記した計八十二冊の日記が残された。
 
「余の日記は数十年後はとにかくなれども当分世間に出すべからず、この日記は長も大切なるものとして永く保存すべし」と遺書の中にも書かれていた。
 
どんなに忙しくても、記憶の新しいうちに日記を休まず書いていた。最高権力者の内幕を情報公開すること、正確な歴史を後世に残そうとした政治家の責任、ジャーナリスト精神が見てとれる。この日記は二十九年後の昭和二十五年(一九五〇) に、全十冊として出版された。
 
 

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