日本リーダーパワー史((313)「坂の上の雲」の真の主人公「日本を救った男」空前絶後の参謀総長・川上操六(40)
2015/02/22
日本リーダーパワー史((313)
名将・川上操六伝(40)
「坂の上の雲」の真の主人公「日本を救った男」-
空前絶後の参謀総長・川上操六(40)
前坂俊之(ジャーナリスト)
① 明治のリーダーの大多数は、清国、ロシア、西欧列強の超大国を前にしてその圧倒的な軍事力、国力、外圧に怖れおののき、日本全体が敗戦ムードに入りつつあった。
② その時、陸軍参謀総長川上操六は日本が侵略される「最悪のシナリオ」を想定し、軍事力の増強につとめて「あらゆる危機から目をそむけず」清国、満州、シベリア、ヨーロッパ、ロシアに情報網を張り巡らせ、的確な情報収集と諜報に基づいて、断固たる行動をとり、先手必勝で日清、日露戦争での勝利の礎を築いた。
③ 「最悪を怖れず、準備した」稀有のインテリジェンス・リーダー・川上操六のおかげである。
④ 第3の敗戦、原発事故で国敗れて初めて理解できる「真のリーダー」とは誰かーその日清・日露戦争裏話
川上操六(1847-1899)のエピソードいろいろ
陸軍大将・子爵。鹿児島の人、その一生は陸軍軍人をもって一貫し、参謀本部総長をもって終った。その間、日清戦役に殊勲のあったことは人の知るところ、人となり性格は俊敏にして思慮あり、公平無私をもって称せられた。明治32年5月11日に52才で急死した。日露戦争の5年前のことである。
矢野龍渓の知っている薩州人の中で、将来、総理大臣たるに堪えるだろうと思われたのは、川上操六である。識見、遠謀深慮もあり、用意周到を兼ね備えていた。あるとき、内閣の会議に中国の事について、龍渓が出席すると、その事が幾分軍事に関するところから、川上も列席していた。
会が終了した後、川上は龍渓に耳打ちして、「君の策には自分も同意である。是非あれを書類にして承認を得て置いてもらいたい。どうも自分のこれまでの経験によると、口頭で相談した事が後に行なわれないで困ることが多い。君も用心のため、是非書面にして承諾を得て置きたまえ」といった。
その他、中国の事についていろいろ打ち合わせたが、全体によく考えの行き届く性質であった。
川上は絵画が好きで、橋本雅邦などにもよく画かせた。そのために上等の支那紙の注文を頼まれたが、何でも乾隆以前のもので、絹地に数十倍する価であるのには驚いた。支那の紙商はそういう古い良紙を貯えていたものである。
(矢野龍渓著『龍渓閑話』)
川上の大雅豊が、われわれを驚かした話がある。それは大学校学生候補者の下試験についてであって、候補者は、東条英教(東条英機の父)と五、六人あったと記憶している。
その頃は年々検閲使が来て、われわれ将校の学術の試験をして、昇進の順序を定めた時代で、試験場内の取り締りは、厳格を極めた。それでわれわれは、試験といえばこのようなものとばかり心得ていた。
ところが大学校学生候補者等は、下試験があるというので、連隊本部へ呼び出され、試験場に入って待っていると、そこへ連隊長たる将軍が、紙に大書した問題を持って来て貼りつけ、「三時間ばかりの内に、これに対する答案を書いて、「わが輩の部屋へ持って来給え」と申し渡されたきりで、監視も置かずに出て行った。
こういう主義で、すべての科目の試験が、皆済んでしまったのである。監視者はないにもせよ、別に不正行為などがあるはずはなく、そうして試験は済んだのであるが、連隊長の大度量の行為は、われわれの精神上に、非常に大きな感動を与えた。第一に、連隊長がこのように部下将校を信じられておられるかと思うと、愉快で堪らなかった。
第2には、この連隊長の取り扱い方に恥じぬように思想を高尚に持ち、いやしくも卑劣な行動があってはならぬと自覚した。川上将軍は、われわれに非常に大なる精神修養の機会を与えたのである。将軍自身は策略として、かかる態度に出られたのではなくて、将軍の自然の性質がそこにいたらしめたのであった。わが輩は後年また将軍の部下に属している間に、しばしばこれに類する場合に遭遇している。(東条英教「川上将軍」太陽増刊「雄飛廿五年」所収)
小山正太郎が、川上操六大将に会った時の話を聞いた。それは日清戦争の当初で、大将は参謀次長であった。小山の用件は、今後の大戦に、軍当局が従軍記者を参加させるのは結構だが、それならば敏腕の従軍画家をも加えられたいとの要望であった。
前もって訪問の意を通じたら、早朝、私邸へ来てくれるなら、出勤前の短時間に会うとのことだったので、そのつもりで番町の邸へ上った。そうしたら応接室には、既に先着の訪問者が大勢詰めかけている。
これでは「面会はむつかしい」と思ったが、次々と呼び込まれる面会の人々は、桂めて短時間に用件が済んで、それほど待たないで、小山の番が来た。
それで別室に行くと、大将はもう軍服で、椅子にも座らずに、起立のままで応対する。客の方も立ち話で、その用件は初めから結論だけを聴いて、イエスかノーか、即座に言明する。受け取り方も早いが、決定も早い。裁決が流れる如くであった。
小山の従軍画家参加の件は、即座に賛成が得られて、委細は参謀本部の係員に打ち合せるということになったが、この初対面よりして、やはり川上というはえらい人だという印象を受けたと話った。
(加賀幸三「小山車太郎画伯とその座救」—「小山正太郎先生」)
「川上は人間が潔白じゃった。自分の天職を尽し、臣子の分を全うすることより外は考えなかった。荒尾精が上海に日清貿易研究所を設立して、金に窮していた時に、川上は、自分の番町の邸宅を担保として、四千円の金を都合してくれた。
今時の軍人どもには、薬にしたくても出来ないことだ。武人が銭に執着するようになったら、それでおしまいじゃ。
(藤本尚則編「巨人頭山満」所収、頭山満談話)
〇三宅雪嶺薯『人物論所収「半百年生死論」
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