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★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日本側が伝えた日英同盟の分析」⑤『機密日露戦史』谷寿夫著より』日露協商か、または日英同盟か』★『桂太郎首相の意見は、ロシアは満州の占領のみで最終とするものではない。満洲が手に入れば韓国にもその手を伸ばす、結局、日本が手を出す余地がなくなるまで、その侵略はやまないであろう』

   

★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」-

「日本側が伝えた日英同盟の分析」⑤

 『日露協商か、または日英同盟か』★『桂太郎首相の意見は、ロシアは満州の

占領のみで最終とするものではない。

満洲が手に入れば韓国にもその手を伸ばす、日本が手を出す

余地がなくなるまで、その侵略はやまない』

(以下は『機密日露戦史』谷寿夫著、原書房、1966年刊、2p-6p )

日露協商か、または日英同盟か

 

日清戦争以前においては、その通商関係はもちろん政治上でも極東では第2位以下に位置していたロシアだが、日本への三国干渉以来の遼東半島還付後はその極東政策は急進展した。

ほどなく、露清密約の締結となり、露清銀行の設定、東清鉄道敷設、放順、大連の租借経営となった。

 

そして北清事変の結果、更に一転して満洲の軍事的占領となり、その鋒先は韓国の上におよび、日本との利害はついには衝突せざるえない情勢となった。

 

当時、日本の軍備は、まだ所期の完成をみていなかった。そのため独力をもってこれに対抗してロシアの勢力を満州から掃蕩するのは至難の業であった。

 

自然、ロシアと協定の道を求めてその侵略的政策を緩和させるか、または欧洲の別国と提携し、その力をかりてロシアに対抗するか、二者択一を迫られ、そうでなければ日本の位置は危機はまねがれない状態であった。

 

しかも後者は、われから望んでも、にわかにこれが成立は期し得ないが故に、第一の方策としてわが当局者に考慮されたのは前者であった。

明治31年頃は、専ら韓国に関することのみに限定され、現在の日露協約の趣旨を脱しない範囲においてロシアの行動を敢えてとがめない態度をとった。

したがって協商の実行など、当時、到底覚束なかった。もちろん当時のロシア政府部内にあっても、日本の軍備は次第に増強しており、日英同盟に向けて親近の度を加えてきたことを察して、進んで日露接近を計ることが有利であるとする者も皆無ではなかった。

 

現に東京駐在公使イズウォルスキー、参事官パクレフスキーの如く、大いに日露提携論を主張し、34年のはじめ、韓国を日露共同保護下に中立させるとの意見を内密にわが政府に通じて、わが意向を探ったこともあった。

しかし、日本政府は、別に考えるところあって、深くこれをとり上げなかった。

 

それは、日英同論が存在したがためであった。

 

そもそも日英同盟論の兆しは、日清戦争後、欧洲の列強合縦の結果が極東に影響を及ぼし、三国干渉となって日本へ圧迫を加えて来たことをことから、日本の孤立が到底不可能なことを感じた林董伯が福澤諭吉と会談し、明治28年「外交の大方針を定むべし」との論説を時事新報に掲載したことで、日英提携説が世論を喚起した。

 

次いで、明治32年、加藤高明(その後首相)が露都より帰朝し、伊藤博文侯を霊南坂の邸宅に訪問したところ井上馨伯が居合せた。井上伯は、加藤に英国行きをすすめた。そこで加藤の渡英となり、加藤はしきりに日英同盟説を外務省に稟議してきた。

 

これと相前後して駐露公使・西徳二郎(男爵)もまた、日英捷携の必要を報告した。あとで駐英公使となった林董(伯爵)は、もちろん熱心な主唱者であった。

 

英国側でも在北京通信員モリソン氏を通じてタイムス紙上に日英提携説を掲げ、英国人の間にも意見を同じくするものが多くなった。そこへ英人プーレの著書が出、また英植民大臣・チェンバレンは、晩餐のおり、加藤高明にも本件を話したということであった。

また、この頃、日露提携談が英国側に伝わり、少なからずその神経を刺戟したものと察せられる。殊に北清事変において、わが陸軍の実力を眼前に目撃した英国の当局者中には、極東においてロシアの兵力に対抗し得べきものは、日本をおいて他になしとの観念が高まってきたので、自然に彼等の間には、日英同盟を真面目に考えるものもでてきた。

当時公使として英国に駐在した林董伯は、英国におけるこの情勢をみ、また在ロンドン・ドイツ代理大使エカルドスタインが英外相および林公使に対し、日英独三国同盟説をもたらし密かに意見を尋ねてきた。

 

このため、林は、明治34年4月9日、はじめて政府に電報し「政府において本問題に関する英国政府の意向を試探しようとの意があれば、累を後日に及ぼさない注意の下に極めて椀曲にこれを試探すべくその許可をなすこと」を稟議したのであった。

 

これに対し、「帝国政府は何分の意見を発表し兼ねるも、政府を覇束せざる限りにいて個人の意見として英政府の意向を探ること差支えなし」と、訓電した。

 

よって翌17日、林は外相ランスダウンに会見し、談たまたま極東問題に及んだのをきっかけに、それとなく「北清事変の処置が終り、列国政府がその軍隊の大部を引揚げるようになったならば、ロシアが再びその爪牙を現わして来るは必然であろうし、また清国は将来ながく紛糾に苦しむべしと懸念される事情もあるので、極東の前途に対しては日英間国共に憂慮するところである。

 

この際、偶然思いつきの愚見をもってするならば、従来、日英両国が相協同して行動しきたった誼みを、今後引続き両国間に恒久的取極をするのが極東平和のめに頼る緊切であろうと思われる。貴見如何」と申入れた。

 

ラ卿は「首相ソールスベリー卿不在(旅行)のため確答し得ない。また英政府はかくの如き重大なる談合をしたこともない。しかし何かしなければならぬと思う」と述べ、なおまた去るに当りラ卿は、この協商は二国のみに限定しなくともよく他国を引入れるのも可なりと語った。

察するに、すでに独大使より、この間題が語られていたのであろうか。

 

程なく首相は、フランス静養地から帰ってきた。

そこで林は、2日間にわたりラ外相を訪ねたところ、本件はすでに独大使に語った事実を知った。なおラ外相は、大体、論をすることは容易だが、細目決定には種々の難題が生起するだろうと述べ、いまだ具体論には到達しなかった。

 

この頃、伊藤内閣は、財政問題で閣内の統一を失なって辞職した。後継たる桂太郎内閣が六月成立するに及んで、この間に英問題は大いに進展するにいたった。

 

明治34年7月15日、林公使は、わが政府に向い「英国有名なる紳士は日英同盟の必要を説く。帰英中のマグドナルド公使が英皇帝と謁見の折、談は支那問題(中国)にあらずして、皇帝は終始、日英の恒久的提携の必要を述べた。首相ソールスべリー侯もまた主唱者の一人にして、彼は『一歩進んで攻守同盟となすべきだ』といった。

しかし、これは英国伝来の政策を離れる新政策なので、その決定には多少時日を要すべし。この間、日本はロシアと相結ぶことはなかろうかと気にしていた。」と報告した。

 

これによって桂首相は、「先ずわが陛下の御決心を第一」として、次いで「元老の意見」を聞くことになった。

 

天皇の命により、個々に右報告の次第を陳べて懇談に及んだが、何れも異議をはさむものなく、そのうち伊藤侯は、「英国がかくの如く申出たのはイギリスは自国の勢力で欠けるところあったためだ」とさえ言った。この間の消息を桂の手記は次のように語っている。

『当時、南アフリカのボーア戦争によって、極東にその勢力を伸張する余地がなくなっており、一方、ロシアがその間隙に乗じ、極東に自己の勢力を伸ばさんと侵攻してきた。英国が日本との同盟にのりだしてきたのはそのためであろう。

日本が対ロシアの戦略を講ずる必要が迫りくれば、日英同盟に応じる必要がある。

日清戦争後、日本においてロシアに親しむ論と、英国に近づくべき論が対立した。親露論者はロシアは北東アジアへの侵攻の決意が堅固なので、日本がこれに敵対すれば非常な困難を生じると同時に、ロシアの勢力に当るにはわが国の国力戦力では、太刀打ちできない。

維新後、数々の困難に当り、その都度、その局に当り困難を受けた歴史をかえりみるとき、一時的平和論に基いて、対立、戦争を避けてきたことはやむを得ない処置であった。

 

しかし、桂自身の見る所では、ロシアの政策は独り満州の占領のみを以って最終とするものではない。満洲が手に入れば韓国にその手を伸すのは必然のことにして、結局、日本が手を出す余地がなくなるまで、その侵略はやまないであろう。

 

そうであるならば、この際、ロシアとの交渉は一時的のものにして、ロシアのいうがままに屈してはならない。これは決して帝国の国是でないばかりか、私は親露論には同調できない。

 

しかし、誰でもロシアに親しもうとすれば、仮にそれが1時的のものといえども敢て親交を我れより捨てる必要はない。唯それは一時的のものであって、衝突の決心は持っていなくてはならない。

 

これに反し英国はその国益の点において日本と親善を計るもので、領土的野心はない。英国の努力は殆んど全世界に広がり、その欲望は実に日本と戦うまで遂行するものでないのは疑いの余地はない。

 

ただ、日本を利してロシアの極東侵入に対抗するのが英国の政策の第一なり。当今、アフリカの乱(ボーア戦争)があり。イギリスに余裕なき時においてて最も自然な同盟であり、英国の請求に応ずるのが得策である。(以上、徳富猪一郎述「公爵桂太郎伝」による。)

 

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