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『坂の上の雲』の陸軍名参謀>百年に一人の大戦略家、日露戦争勝利の名参謀・児玉源太郎のインテリジェンス

      2015/01/01

<『坂の上の雲』の陸軍名参謀>
 
(メッケルいわく)百年に一人の大戦略家、
日露戦争勝利の名参謀・児玉源太郎
 
             
                                                                前坂俊之(ジャーナリスト)

『児玉源太郎伝』
http://book.maesaka-toshiyuki.com/book/detail?book_id=30

 
 台湾総督、陸軍大臣、内務大臣などを歴任した児玉源太郎は「百年に一人の戦略家」「名参謀長」といわれた。
 
その児玉は下士官からスタートし、異例のスピードで昇進を重ね、陸軍大将にまで出世した。日露戦争では乃木希典大将が
攻めあぐねていた二〇三高地を巨大な山砲を持ち込んで攻撃し、わずかの日数で攻略した知謀の人でもある。
 
 児玉は周防国徳山藩(現山口県徳山市)の中級武士の児玉半九郎の長男で生まれた。徳山市にはこの郷土の生んだ英雄を
讃えて将軍を祀る児玉神社、児玉公園、地名として児玉町が残されている。児玉の生家には「児玉家屋敷跡」との石柱があり、
その奥には「児玉大将産湯之井戸」の碑が建っている。
 
 児玉が軍人政治のトップリーダーの力量を最大限に発揮するのは、陸軍次官として軍政の実権を握ったときから。

日清戦争では、川上操六参謀次長の功績が高く評価されているが、「児玉の後方、兵站勤務がなければ、百の川上あり
といえども、名誉ある戦勝を見ることはできなかった」といわれるほど、児玉の功労が評価されている。

 
 
●『児玉源太郎は外出するのに、軍服のほかに、ようかん色の羽織一枚という時代があった。借金も大分あって、後に志賀重が住んでいた霊南坂の家などもその借金を整理する際に売り飛ばした。
 
日清戦争当時は陸軍大臣代理で繁忙をきわめ、ほとんど陸軍省に寝泊りして、三度が三度、弁当飯ばかり食べていたが、
さすがに平壌(ピョンヤン)のおちた電報の来た晩だけは嬉しくて堪らず、ちょっと副官の山内大佐にあとを頼み、烏森の湖月
まで一人でやって来た。
 
湖月の方にはかねて児玉から申し込みがあったと見えて、業者が十幾人も待たせてあり、児玉が来る、坐る、飲む、歌う、
踊る、騒ぐ、帰るというわけで、三十分の間、一分一秒のスキもなくやったところは、全く軍略的であった。
(読売新聞社編「茶語」)
 
 
ドイツ陸軍のメッケル少佐だけは「児玉がいる限り日本が必ず勝つ」と予言
 
 「日露戦争はロシアが必ず勝利する」「日本はひとたまりもないだろう」と世界の大方の軍事専門家が予想するなかで、
ただ一人、日本の陸軍を指導したドイツ陸軍のメッケル少佐だけは「児玉がいる限り日本が必ず勝つ!」と予言した。
 
 日露戦争が迫りくると、田村怡与造(たむらいよぞう)参謀本部次長の急逝を受けて児玉は自ら希望して内務大臣から
二階級降格して参謀次長となり、その日露戦争の全戦略を立案し、戦端が開かれると、現地軍総司令官の大山巌の下で
総参謀長となり、日露戦争を指揮した。
 
●『児玉大将は、名利に淡白であった。眼中には、ただ国家あるのみ。私心のいささかもない人だった。日露間の国交
が険悪となった明治三十六年(一九〇三)十月、大将は台湾総督兼内務大臣の栄職を去って参謀本部次長となった。

この報が一たび、外国に伝わるや、各国の軍事専門家は「日露の戦争が開始される」と評判した。智謀の人としての
大将の名は、外人の間も鳴り響いていたのである。

 
 当時の参謀総長大山巌大将は、宏量・大度、人を容れること海の如き大人物だった。大将はその信任を得て、自由に
その手腕をふるい、しかもことあるごとに成功したのであるが、一面から見れば、この日露戦争が、大将の寿命を縮ま
たものであった。それほど、大将は精励、恪勤(かくきん)さられたのである。
武藤清義談「児玉大将を憶ふ」-「日本及日本人」昭和三年七月十五日付)
 
 
屍の山を築いても落とせなかった「二〇三高地」の総攻撃の指揮を乃木希典にかわって児玉がとった。その際、兵士の士気
を鼓舞するのは、敵前で腹を立たせるにかぎると、わざと〝馬鹿者〃‥としかり飛ばしたという。日露戦争における「二〇三高地」 の勝利は、まさに児玉の作戦と気迫による勝利だった。
 
 
 
児玉は「来るべき日露戦争は情報戦争になる」と確信していた。

このため、自ら責任者となって国際通信網の確保に取り組み、海底ケーブル敷設船「沖縄丸」を英国に発注、九州南端
の大隅半島-沖縄-石垣島―台湾と総延長千八百キロにわたる長距離海底ケーブルを明治三十年(一八九七)五月まで
に突貫工事で完成した。
 
明治三十六年には佐世保-東京間に、当時、世界で二番目に長い直通電信線をこれまた特急で開通させ、
「沖縄丸」は児玉が秘かに準備させていた海底ケーブル五百カイリ分を佐世保から朝鮮半島まで敷設した。
 
こうして台湾、朝鮮から北方領土まで無線装置と電話、電信の情報システムを完成した。先進国の支援をまったく受けず
に海底ケーブルを敷設し、マルコーニの実験からわずか二年後に電信機の製造、開発をしたのには世界がアッと驚いた。
 
「バルチック艦隊来たる?」「いよいよ日本海決戦か」という直前にやっと対馬、日本海周辺に海底ケーブルがすべて
はり巡らされ、幾重にも無線望楼が完成した。
一方、日英同盟による軍事協力もひそかに進んでいた。明治三十六年五月、地中海のマルタ島に巡洋艦「浅間」など
二隻が、エドワード七世の戴冠式に出席する小松宮をのせて到着した。
 
ここで英海軍から性能の優れた新型無線機の提供をうけて、日本側は何度も実験をくりかえし、改良型の「三六式無線電信機」を完成し、これを海軍すべての軍艦に配備して準備万端整えた。「日本海海戦」は世界で初めての海での情報戦争とった。
 
 
五月二十七日午前2時45分、「信濃丸」がバルチック艦隊を発見、「敵艦見ユ」と無線で打電した。旗艦「三笠」
、軍令部にはわずか約二十分後に着電し、日本海海戦の大勝利につながった。
 的確な情報網と、スピーディーな情報伝達は、不世出の戦略家・児玉のインテリジェンスによって生み出されたものであった。
 

児玉のリーダーシップとそのサッパリとした人柄
 
 
児玉は、先輩にも同僚にも、また大衆にも善く、万人をひきつける魅力を持っていたといわれている。それは、児玉の
いや味のない、さっぱりとした人柄のためである。
 
●『児玉君は、何事にも公明正大な心事で当った。自分がどのような地位にいても、光風・雲月ともいうべき態度で、人によって
態度を二三にすることをしなかった。大概の人が、大臣とか何とかいうものになると大臣の職務以外の家居・交際までに、
とかく大臣風を吹かせたり、生まれついての大臣かのように、格式ぶることをしたがるが、君に限って、少しもそんな風がない。
大臣は大臣、児玉は児玉であり、私交には一個の児玉源太郎で押し通した。
 
いつか利休のような変な帽子をかぶって,被風かなにかを着込んで、ふらりとりと余(石黒忠悳・いしぐろただのり)の宅へ来られた。
取次の者に、「御主人は御在宅か」という。取次は変な客が来たと思って、「御紹介状をお持ちでなくては会いませんが」というと、
「それは困ったなあ」といっている。取次も、ともかくもと、「お名前は」と聞くと、「児玉源太郎という者だが」という。取次はひどく面喰って、「それならこちらへ」と案内した。
 
 児玉君は人がらが快活で、おおざっぱなように見えていて、それで緻密であったし、よく勉強もしていられた。日露戦争の途中で、戦況を奏上するために帰って来られた時などには、やれ招待だの、歓迎だのといって、よそ目にはのんきそうであったが、帰宅すれば床の中で、必ず書物を読んでいられた。その頃は、普仏(プロシア・フランス)戦後における種々の書物を翻訳したのを読
んでおられた。もう戦後経営に思いを潜めていられたらしいのである。
石黒忠悳「児玉大将」-「太陽」増刊「龍飛25年」所収)
 
後藤新平を大抜擢、人材を使いこなした
 
 
日清戦争後に陸軍次官とむらた児玉は臨時陸軍検疫部長も兼ねて凱旋将兵の消毒検疫をすることになった。この時、
浪人中の後藤新平を抜擢して臨時陸軍検疫部事務長官に任命した。
 
後藤は当初、「軍服を着ていないものがこの仕事は無理。自分は一介の浪人なので、ほかの者にしてください」と固辞したが、
児玉は「お前しかできない」と熱心にすすめて後藤も承諾した。
後藤は、就任わずか二カ月で、一切の設備を完全にし、字品、似島間の海底電線から、電燈、電話の設備に至るまで完成して、
ドイツ皇帝を驚嘆させた。
あまりのスゴ腕には必ず反動があるものだが、後藤にたいする非難中傷が児玉の元に山のごとくよせられた。
 
「後藤をやめさせてしまえ」との声が強かったが、児玉は後藤には一切文句を言わず、握りつぶした。そして検疫事務が
終了した後、初めて投書の山を後藤にボンと投げ出し、「これは君の冠だ」と言って大笑いした。児玉と後藤の水魚の交わりは、
これ以来である。
 
明治三十一年二月、児玉は台湾総督となったが、後藤を総督府民政長官に任命してその手腕を思い切りふるわせた。
日清、日露戦争までは、トップリーダーたちは、引き際のタイミングついても十二分に研究し、少しでも早く戦争を切り上げることを考えていた。
 
日露戦争では、中島久万吉(のち斎藤実内閣での商工大臣)は桂太首相秘書官をしていたが、ある日、児玉がきて、「桂は忙しくて、桂と打ち合わせをしておったのでは事務が遅れて困るから、君と直接、電報で打ち合わせよう」と言った。桂、中島の間に暗号電報を作り、その写しを三人が持つことにした。
児玉は桂太郎、杉山茂丸と3人で日露戦争の「秘密結社」を結んで、情報の秘密交換をやっていたのである。
 
児玉は満州に出発した後、その暗号電報を使って、軍を止める何か具体的な情報はないか問い合わせてきた。
「戦争終結の機会をつかんだら、軍の方は自分が全責任をもってまとめるから、すぐにも講和に入ってくれ」と言っていた。
戦争終結の機会を取り逃がさないように万全の手をうっていたのである。杉山がこの情報の端緒をつかんで、
児玉にいち早く連絡し、日露停戦へとつながった。
 
●『児玉源太郎は、実に非凡な人でした。日露戦争が起こりますと、内務大臣をやめて、直ちに参謀次長となられたのですが、
これなどは伯にして初めて出来たことです。人は地位が上るにつれて、才能が滅する。それはよほど注意しなくてはならねことですが。私(石黒忠悳)の知っている限句で、大臣になっても才能のにぶらなかったのは、陸奥宗光と、児玉源太郎との二人です。
事あるごとに、この難局にもし生きていられたならばと思うのは、この2人です(石黒忠悳『懐旧九十年』)
 
 
 児玉は明治三九年七月、陸軍参謀総長の時、脳溢血で倒れこの世を去った。日露戦争に国難を切り抜けるためにその心血を注いだ結果の過労死で55才だった。

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