前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(389) 「ニコポン、幇間」ではない、真の「人間学の 大家」「胆力のあった」桂太郎の実像

   

  日本リーダーパワー史(389 

「ニコポン、幇間」ではない、真の「人間学の

大家」「胆力のあった」桂太郎の実像 

 

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

人物論を書く場合に私が座右において最も重宝いるのは森銑三の「近世、明治、大正人物逸話」である。コピー機がない時代に、森銑三の長年、図書館通いをしながら古典を書き写してきた膨大な人物研究のデータを駆使しての精緻な人物百科エピソード集こそ、研究者のお手本のような仕事であり、人物エピソードの決定版であろう。

40年以上愛読しているが、これも若い時に感心したエピソードと、年寄って読み直して感心するエピソードは当然違ってくる。古希となった筆者にとって、自分の体験と照らし合わせて、困難な時代に遭遇した中でその重責を一身に担い、泣き言も言わず、逃げ出しもせず、必死に生き、責任を果たし、亡くなった人物の生きざまが若い時以上によくわかってくる。同じ年を超えて自分なら果たしてうまくできるかどうか、とてもできないと思う。。

そんな感じで、いまの日本の政治家、リーダー、インテリゲンチャーを斜めにみていて、「明治の人物のすごさ」をひしひしと痛感するこの頃、この齢である。森銑三の年取ってなるほどと思った人物エピードと引きながら「日本リーダーパワー史」の桂太郎のエピソードと胆力、人間通を紹介したい。

 

 

歴代、最長の総理大臣である桂太郎についての、戦後歴史学界での評価は「ニコポン」「政界の太鼓持ち」「サーベルをさげた幇間(ほうかん)」と芳しくない、というか最低である。戦後長く続く軍人否定、戦争否定の風潮の中で生まれた評価だが、日本史最大といっていい国家プロジェクトを大成功させた日露戦争の時の首相、陸軍のトップだった最高リーダーという点を比較、考慮すればこの、最低評価は間違っていると思う。

 

桂の首相在任期間は断トツの第1位(2,886日)」第2位  佐藤 榮作、第3位  2,720日 伊藤 博文第4位 (2,716日  吉田 茂)第5位 ( 1,980日 小泉 純一郎)である。

小泉首相以降の半年、1年交代の回転ずしならぬ回転首相による政治の停滞混乱、混迷沈滞、日本沈没を経験したわれわれにとっては、日露戦争という<世紀の大勝負>の監督の手腕が、なぜかくも低評価なのか、学者、研究者の判断基準が理解できないと、年取って実感したので、このような拙文を書いているのである。

 

森銑三の「明治人物逸話辞典」(1965年、東京堂書店)から、桂のリーダーシップの所以と胆力、リーダーパワーの秘訣を探った。

 

 

 

「桂公は、思想や傾向や個人的の立場などが単純でない五人の元老(伊藤博文、山形有朋、松方正義、井上馨、大山厳)- 随分やかまし屋もあれば、気むつかし屋もある五人の舅姑をまとめて、画期的な大経綸を現実化し、大体有終の美までに漕ぎつけた。その働きというものは、

して、伊藤公(博文) 1山県公(有朋)のような人が、首相となって事を行なう場合とは、難易同日の談ではない。「外交よりも内交がむつかしいのだ」と、

小村寿太郎もいわれ、陸奥宗光も嘆かれたが、桂公はその内交に、周到・錬達の手腕と、人一倍の忍耐や粘りをもって向かわれ、いざという時には捨て身の覚悟をもって当られたのであるから、小村侯もその外交手腕を、十分に発揮せられたのである。

桂内閣の全盛時代には、≪サーベルをさげた幇間(ほうかん)>だなどという悪評をした政治家があったが、これは一片の悪口に過ぎぬ。日露開戦の数ゕ月前に帝国大学の七博士が公を訪間して、開戦論を説き、「軍事上より見ても、今日をおいて開戦の機はない」と論じたら、公は微笑を浮べて、「太郎も軍人です。軍事上より見ての開戦の時機云々にいたっては、諸君の教を受ける必要がありません」と応酬された。これなどはいわゆる幇間的軍人にして出来る芸当ではない。(本多熊太郎「先人を語る」1939年)

 

「 日露戦争で日本軍の困ったのは、弾薬の欠乏したことだった」山県元帥(有朋)も、その実情を見て、たとえ首は斬られても、講和しなくてはならぬと決心した。

そうした状態だっためだから、講和会読によって償金が取れるなどとは、桂首相も思っていなかった。それを取れるかのように虚勢を張ったのは、一流の計略で、これには新聞記者達も、すっかりだまされた。

東京朝日新聞(池辺三山)などは、その虚言を怒って、強く講和条約に反対したので、桂もこれには困却した。明治四十二年(一九〇九)の頃、桂首相の講によって、池辺氏は記者(土屋大夢)を同伴して桂太郎を訪問したことがあるが、池辺氏は口を開くなり、「先年は」といい出した。

 

ところが機敏な桂は、すぐにそれと察して、「全く僕が悪かった。君をだまして相済まぬ」と、折れて出た。多年、国家を担うて立っていた人だけに、さすがに度量が大きいなと感心したた。(土屋大夢薯『夢中語』)

   

 「桂公は、徹頭徹尾、実際政治の舞台劇における千両役者であった。私人中島久万吉)等の公に最も感服するところは、頭脳が弾力性に富んでいて、いかなる不如意な、不愉快な場面に臨もうと、我慢して事態の推移に身を任かせて、最後の段階を守るところにある。この辛抱強さは、第一次桂内閣において、最もよく現われた。

それ以前の内閣といえば、いわゆる維新の元勲が首班だったので、公にいたって初めて第二流内閣を組織したわけであり、伊藤(博文)・山県(有朋〉・松方正義)・井上(馨)等、顔役連の環視の中で大芝居を打つのに、これらの顔役連は、ただだまっては見ていてくれず、何のかのと世話を焼く。その世話が、人々によって皆違い、時には内閣の方針とも、政府当局者の立場とも相容れぬのに、その人々を巧みにあやなして、行き違いの起こらぬようにする。そうした人事の錯雑している間にあって、公は実に前後の処置を誤らぬ、人間学の大家であった。(中島久万吉著「政界財界五十年」1936年)

 

日本リーダーパワー史(121)日露戦争勝因の秘話=
怪傑・秋山定輔のインテリジェンス

http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=578

  

●「日本リーダーパワー史(187)『世界史上空前の宰相とし
ての桂太郎
「日英同盟』破棄と「日独・日中同盟」を孫文と密約!?―

http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=894

 

 - 人物研究 , , , , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『Z世代のための日中韓外交史講座』 ㉔ 」★『英国タイムズ報道の「日清戦争4ヵ月後―『日本と朝鮮―日清戦争の真実』(上)』1894(明治27)年11月26日付)

2014/10/21 2015/01/01/記事再編集 英国タイムズ報道の「日清 …

no image
<日本風狂伝②昭和文壇の奇人ベストワンは永井荷風だよ>

                   2009,6,10 日本風狂人伝②昭和文壇 …

日本リーダーパワー史(671) 日本国難史の『戦略思考の欠落』(53) 「インテリジェンスの父・川上操六参謀総長(50) の急死とその影響➁ー田村 怡与造が後継するが、日露戦開戦4ヵ月前にこれまた過労死する。

 日本リーダーパワー史(671) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(53)   …

no image
児玉源太郎伝(1)●死亡記事ー『知謀の参謀総長、脳溢血で急死』●『児玉大将の死を痛惜す』〔時事新報〕

 児玉源太郎伝(1)  日露戦争で自ら地位を2階級(大臣→参謀次長)に …

日本リーダーパワー史(557)日本近代史上最大の英雄・西郷隆盛―死後も「西郷伝説」でよみがえる。

  日本リーダーパワー史(557)  日本近代史上最大の英雄・西郷隆盛 …

 日本リーダーパワー史(793)ー 「日清、日露戦争に勝利」 した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、 インテリジェンス』⑪『ロシアのクロパトキン陸相が敵前視察に来日』『ク大将は陸軍士官学校視察で障害物突破競争の優勝者に自分の時計を褒美であげた』●『パーティーでは黒鳩金大将と日本の将軍の視線がぶつかり火花が散り、日本の将軍はさらに恐ろしい目つきでにらみ返して一触速発に』

   日本リーダーパワー史(793)ー 「日清、日露戦争に勝利」 した明治人のリ …

『私が取材した世界が尊敬した日本人⑱ 1億の『インド・カースト』(不可触民)を救う仏教最高指導者・佐々井秀嶺師』★『インドに立つ碑・佐々井秀嶺師と山際素男先生」(増田政巳氏(編集者)』

2009/09/25  日本リーダーパワー史⑱再録 『現代の聖者』『奇 …

『Z世代への<日本史難問クイズ?>『リンカーン米大統領が奴隷の解放宣言をしたのは1862年(文久2年)ですが、日本で中国人奴隷(苦力)を解放したのは一体誰でしょうか⑲』★『西郷隆盛(参議・実質総理大臣)です。横浜港に入港した『マリア・ルース号事件』(清国人苦力=奴隷230人をペルーに運ぶ途中)で人権尊重の観点から外務卿・副島種臣に命じて停船を指示・船長を告発させ、裁判後に清国に送り替えした』★『「国の本来の政治は軍備の不備を恐れず、一国の運命をかけても、正論を以てこれを貫くべし」』

2019/07/27  日本リーダーパワー史(858)/記事再録 &n …

『Z世代のための<日本安全保障史>講座③」★『明治の富国強兵/軍国主義はなぜ起きたのか』★『明治政府が最初に直面した「日本の安全保障問題」は対外軍備を増強であり、ロシアの東方政策に対する侵略防止、朝鮮、 中国問題が緊急課題になった』★『現在の対中国・韓国・北朝鮮問題の地政学的ルーツである」

  2015/11/25/日本リーダーパワー史(612)日本 …

no image
藤田嗣治とパリの女たちー「最初の結婚は美術教師・鴇田登美子と、「モンパルナスの大姉御」といわれたフェルナンド・バレーと二度目の結婚、3度目は「ユキ」と名づけた美しく繊細な21歳のリュシー・バドゥと』★『夜は『エ・コールド・パリ』の仲間たちと乱ちきパーティーで「フーフー(お調子者)」といわれたほど奇行乱行をしながら、昼間は、毎日十四時間以上もキャンバスと格闘していた』いた。

      &nbs …