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ジョーク日本史(4)宮武外骨こそ日本最高のジョークの天才、パロディトだよ、 『 宮武外骨は奇人変人・奇想天外人の最高傑作(下)

      2016/04/07

 ジョーク日本史(4)

宮武外骨こそ日本最高のジョークの天才、パロディトだよ、

 『 宮武外骨は奇人変人・奇想天外人の最高傑作(下) 

        前坂俊之(ジャーナリスト)

 

「滑稽新聞」(明治三十六年一月号)では、外骨が前代未聞の妙案とうぬぼれる新年付録を思いついた。ほかの新聞、雑誌が大部な別冊付録をつけているなかで、「滑稽新聞」は平常通りの20ページだけだったが、今回、大奮発して付録をつけたと正月号に宣言した。その付録とは読み捨てた古新聞や反古紙の裏側に、「紙屑買の大馬鹿者」と大きく印刷したものであった。これは面白いと大好評を博した。

 

一九〇四年(明治三十七)二月、日露戦争が勃発する。出版物へのきびしい検閲制度が一層厳重になり、特に日露戦争では報道禁止、発禁、発行されても伏字だらけで国民は何が書かれているのかサッパリわけのわからない状態となった。これを逆手にとって外骨は次のような伏字だらけの記事でからかった。

「●秘密外の○○」

 

「今の○○軍○○事○当○○局○○○者は○○○○つ○ま○ら○ぬ○○事までも秘密○○秘密○○○と○○○いう○○て○○○新聞に○○○書○か○さぬ○○事に○して○○おるから○○○○新聞屋○○は○○○○聴いた○○○事を○○○載せ○○○○られ○○得ず○○して○○丸々○○○づくし○の記事なども○○○○多い○○○

是は○○つまり○○○当局者の○○○○○尻の○○穴の○○狭い○はなしで度胸

が○○○無さ○○○過ぎる○○○○様○○○○だ

我輩○○が○○○思う○○○には○○○○○軍○は○○元来○○○野蛮○○○○な○○○○○事で○○○○○○あるから○○その○○○軍備○○○を○○○秘密○○にし○○○○て○○○敵○○○○の○○○○不意○○を○○○うつ○○○○の○○も○○○あな○○○○がち○○とがむ○○○べき○○○事○○では○・」

(同新聞第69号、明治37年3月23日付)
開戦後の約一ヵ月後に掲載されたが、○○を飛ばして読めばいいだけの簡単なことだが、何やら秘密めいている。

 

「滑稽新聞」の創刊は明治三十四年だが、ヨーロッパではアール・ヌーヴォーの運動が定着しはじめた頃である。外骨はアール・ヌーヴォーを知っておりで「アール・ヌーヴォーはハイカラ絵にあらず日本古代模様の化物」(第二十四号)では「このアール・ヌーヴォ一式は元は日本固有の美術の変化したもの。日本原産で、目下の新流行は一種の逆輸入にすぎない」と断じ、下手な美術家でない外骨はこれから二十年ほど後に登場するダダ、シュルレアリスムや果ては六〇年代のポップアートさえ先取りしているのである。
江戸の浮世絵に精通していた外骨はコラージュも江戸の浮世絵師が裸の女や力士を寄せ集めて男の顔を合成し、「人集まりて人と成る」の国芳の浮世絵や北斎漫画、暁斎の戯画に精通しており、エディター能力を発揮した外骨は「滑稽新聞」や次々に出版する雑誌の中で、記号での表現を駆使、記号の曲芸を演じたのである。

 

八年にわたり発行された『滑稽新聞』で、外骨は二回入獄し、関係者の人獄が三回、罰金刑は十三回、発行停止は四回、発売禁止は三回、警察による営業妨害が一回を記録した。

その『滑稽新聞』の最盛期に突然、外骨は廃刊してしまう。長年なめてきた警察、裁判の不正やいいかげんさに堪忍袋の緒を切らし、明治四十一年(一九〇八)六月、「法律廃止論」(百六十五号、同月二十日)を書いた。
「今日の社会は巧に悪事をする者が勝利を得るのであつて、いわゆる法律は強者の利器、悪い奴が法網を潜って、逆まに善人を迫害するのである。法律はあれども無きに等しい」
この批判が秩序壊乱、風俗壊乱罪で罰金二百円の判決を受け、大阪控訴院でも控訴棄却となり、ついに切れてしまった外骨は「滑稽新聞」を「自殺号」(百七十三号、十月二十四日付)と銘打って出し廃刊した。判決文と検事を攻撃した内容を掲載し、同新聞の八年間にわたる「本誌受罰史」などを満載しての自爆であった。

 

外骨の常識破りは正月にも向けられた。「新年はなぜめでたいのか」。その虚礼を皮肉って正月の新聞に「弔辞―謹んで諸君が死期に近づくを弔す」との広告をだしたり、新年の玄関の名刺受に、外骨に代って本もの髑髏に輪を飾ったものを出したり。
松飾りを廃して、門に「忌中」の札をはって、「忌年始客」として、「忌」をわざわざ大きくかいて、その下に小さい字で「年始客」、その左に「ただし、お年玉を持参するはよし」と書いて出したこともあった。「忌」を見て、「ご不幸がありましたか」と早トチリして弔問にくる人もあった。

 

選挙の不正にも眼が向けられ、外骨は衆議院選挙に東京、大阪の両選挙区から「面白半分」「風刺半分」の気持ちで立候補したこともあった。その立候補宣言がまたマンガである。

「われは天の使命として、選挙界を騒がさんがために起つものなり。故に勝敗はもと眼中になし。われは大天狗の荒神様(あらがみさま)金毘羅(こんぴら)大権現の再来なり。もし、刃向かうものあらば、引っつかんで八つ裂きにして、杉の小枝にぶらさげて、天下にさらさん。

 

われに政見なし、選挙界の廓清をもって政見となす。運動方法は演説と印刷物で自己の意見を発表し、選挙違反を告発するのみ」

自分が発行していた雑誌「スコブル」をちゃっかり値上げして、選挙資金に当てと、縷堂々と広告を出した。「当選は眼中にない。いや、落選はみんなが認めるところである」とも。
選挙運動は戸別訪問を拒否する張り紙を送呈する運動や、「投票乞食禁政策」を社説として掲げただけ。その結果は外骨の期待通りに見事に落選した。清き得票は東京、大阪とも3票の合計たった6票であった。

 

落選報告会を神田青年会館で開催した。1人の運動員も使わず、戸別訪問もせず理想的な選挙を行なう候補者は当選の見込みがない。このため、落選報告会を開いて選挙民を罵倒する会であったが、約六百人の聴衆が集まった、という。

外骨は五十九歳になった時、老い先短いと感じて、朝日新聞の「探し物」という欄に「自分の死体買収を求む」という珍文を出した。

全く人を食った内容で、自分は墓を立てない、子供もないため、宮武という姓も家も廃すると断った上で「自分の肉体を片づけることを心配している。灰にして捨てられるのも惜しい。そこで死体を買ってくれる人を募集する」と宣言した。

ただし、次のような抜け目のない条件をつけた。

 

「かりに千円(死馬の骨と同額)で買い取るとすれば、契約時に半分は保証金として前払いする。あとの半分は死体と引き換え(友人たちの飲み代)。前払いの半分で死体の解剖料と保存料を東大医学部精神科に前納しておく。オイサキ短い者です。至急申し込み求む」

反響は全くなく、申し込みはもちろんゼロ。

 

外骨は生涯五人の妻を持ち、その間に十六人のメカケをとりかえたという。人並み以上の外骨は70歳までその方が衰えないという精力絶倫であった。

 

最初は十八歳の時に房子(十七歳)と同棲、二十七歳で後の妻八節(やよ)を知る。二十八歳の時、長男が生まれて天民と名づけたが、一歳で夭折した。

三十二歳で八節を入籍したが、大正四年、外骨が四十九歳の時、八節が四十五歳でなくなった。外骨が一番愛していたのはこの女性である。

大正十一年、五十六歳の時に吉原出身の遊女上がりの小清水マチを入籍した。このミチは金も使いたい放題で、家出をしたり不倫するなど身勝手な女だったが、外骨は人のはばかるセックスだけの関係で一緒になり、ミチの好きなようにやらせていた。

外骨六十二歳の時、ミチが住み込みの書生と不倫をしている現場を外骨が押さえた。すぐ、離縁を言い渡したが、妻は「死んでおわびする」とネコイラズを飲んで服毒自殺してしまった。

この一件を隠すどころか外骨はその一部始終を直ちに知人、友人へ知らせ「妻は病院に運ばれて死んでしまったそうですが、小生は更に近日、新家庭を作りますからご安心下さい」とのハガキを出した。

 

それから約一ヵ月後に「不貞の前妻の毒死後、三日にして八年来の知り合いの水野和子(39歳)と結婚しました。ついてはノロケ披露宴で粗酒を献上いたします御来会ください」とのハガキを出している。4度目の妻を迎える早業だった。

さらに和子が病死した一九四〇年(昭和十五)、外骨はすでに七十四歳になっていたが、四十歳も離れた能子(当時三十五歳)と再婚した。

 

この時のエピソードがまた傑作。外骨の友人が妻を亡くし困っているため、かわいそうにと思った外骨は知り合いだった能子を紹介した。見合いさせるため能子をタクシーに乗せ、見合いの場所まで連れていった。

「アイツは華族の出身だから、少々カタイところもあるが・・・」と説明すると、能子は突然「そんなかた苦しい男と一緒になると、苦労する。いっそのこと先生のような話のわかる人の方が・・・」と話した。

 

見合いをすませた後で、能子は「やっぱり先生の方がいいわ。先生はどう・・・」と迫ってきた。外骨は「年令が四十歳も離れており、私はいいが、あなたが気の毒だ」と遠慮したが、「でも、先生はお元気ですから・・」と逆に言い寄られて、ついに2人は一緒になったというから恐れいっちゃうね。これが最後の妻の能子であった。

 

外骨ほど生涯のすべてをジャーナリズム精神で貫き通した人物はいない。明治、大正、昭和と組織やスポンサーつきのジャーナリストではなく、他の出版社、雑誌などによって文筆を立てるのでもなく、独立独歩で、みずから出版媒体を持って、その編集発行人として自由自在に表現してきた作家はいないといってよい。

 

真の自由人であり、すべてが個人プレーであるのも他の日本の知識人とはまったく違っている。
文章、時事評論、語呂合わせ、ダジャレ、俳句、川柳、都都逸、イロハかるた、かくし絵、浮世絵、まんが、イラスト、塗りえ、貼り絵、パローディ、シュールリアリズムの前進のような表現スタイル、おもしろ、奇妙奇天烈な付録の数々などなど、これでもかというほど自由自在な創造力を発揮した。
まるで『レオナルドダビンチ』『天才平賀源内』をはるかに凌駕した表現、パロディの大天才、大奇人、大変人と私は思うのですがね。だまされたと思って読んでごらん、どの1冊を手にとっても奇想天外なイメージ、発想、批判精神がピリピリつたわってきて、頭の体操、大笑いしてお腹のジョギングには最高、世の中を笑い飛ばして、長生きすること間違いなしの逸品だよ。

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