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<クイズ>日本における『言論の自由』の歴史とは・・<1945年までは言論の自由、メディアの報道の自由は制限されていた>

   

日本における『言論の自由』の歴史について<1945年(昭和20)までは言論の自由、メディアの取材、報道の自由は制限されていた>
                       前坂 俊之(ジャーナリスト)
<以下は前坂俊之著「戦争と新聞・兵は凶器なり」〈社会思想社、1989年より〉
 
 
1・・明治から昭和戦前期までの言論統制法
                                 
日本で近代新聞が誕生したのは明治新政府のスタートと同じ1868年(慶応4年、明治元年)のことである。江戸で当時、誕生したばかりの新聞はすべて佐幕派の新聞だったため、新政府は同年六月、新聞発行を許可制とする通達を出して、出ていた全新聞を発行禁止とし、板木もすべて没収した。
 
この結果、逆に流言蜚語に悩まされることになった新政府は幕藩体制を解体し、新制度の建設には情報伝達メディアとしての新聞が不可欠であると痛感し、翌年(明治二)二月、新聞政策を転換して新聞の発行を促すと同時に「新聞紙印行条例」を布告した。この中で、東京での出版物は開成学校(後の東大)、各府県では裁判所が検閲に当たると明文化しており、これが『新聞紙法』の始まりとなる。
 
1870(明治三)年には鉛活字の製造術が完成し、新政府が『新聞の買い上げ』や『新聞縦覧所』を設置するなど積極的に新聞紙の保護育成策をとったため、各地で発行が相次ぎ、いわゆる御用新聞や、政府に批判的な新聞なども続々と誕生した。
 
 ところが、征韓論で西郷隆盛らが野に下り、自由民権運動が活発化して、各地で騒擾事件が起こるようになると、新政府は態度を一変して、1875(明治八)年六月、初めて発行停止の行政処分を盛り込んだ『新聞紙条例』や、不敬罪、官吏侮辱罪、名誉毀損の処罰を設けた『讒謗律』(ざんぼうりつ)を公布して、反政府系の新聞や記者たちを徹底的に取り締まった。5年間で約200人以上が獄につながれるという一大“言論恐怖時代″が到来する。
 
1906年に起きた日露戦争の後には各新聞社、通信社の連合のもとに、全国の記者が初めて団結し、司法処分としの発行禁止処分の削除、予審記事の公判前の記載禁止条項の削除、体刑の全面的な排除を求める新聞紙法改正の運動が全国的に広がった。たまたま待合「菊隅」女将の変死事件について、予審の内容を新聞紙に掲載した東京十四社の新聞が一斉に告発される騒ぎがあり、改正運動は盛り上がった。
 
1908(明治四十一)年に改正案が村松恒一郎(元大阪朝日記者)らの名義で議会に提出された。これは何度も提出されてきたものだが、翌年五月、ズタズタに修正されて『改正新聞紙法』として公布された。
 
大幅に改悪された内容となっており
    明治30年に一旦、廃止された内務大臣の行政処分権の復活(第23条)
    予審内容の掲載禁止、検事の差止命令権
    禁止事項中、特に「朝憲紊乱、安寧秩序の紊乱」という抽象的表現
    発行保証金は倍増(同12条)
⑤編集人の責任規定(第9条)は署名発行人以外に、実際に編集に担当、掲載に署名、正誤表を請求したものにまで拡大、正誤文に関し無条件の掲載義務。
 
――などが盛り込まれていた。この『改正新聞紙法』について美土路昌一は「政府当局をして幾度か、政権擁護の目的のため濫用せしめる結果を招き、事実の報道、真実の国論をできなくした反動政治の遺物であった」(1)と述べているが、これが言論統制の基本的な法規として、1945年まで続いた。(1)
 明治以来、言論の自由はこのように権力からの検閲と抑圧、それに暴力、テロとの絶えざる戦いの歴史であった。明治の新聞は薩摩、長州などの藩閥政府と激しく戦ったが、大正、昭和前期にはいると政府、警察、軍部をバックにしたテロ、暴力が言論を威圧した。1918(大正七)年の米騒動の頃から、国粋運動が新聞をターゲットにして、愛国や尊皇を売りものにして新聞を脅して金をせびる傾向が出始める。弱味をにぎられた新聞側は金で問題を解決し、そんな連中を利用して販売競争のライバル紙を攻撃させるものまで現われた。
 
これと並行して、新聞紙法の粘り強く続けられた改正運動が憲政擁護運動や、大正デモクラシーの高まりの中で実を結び、1926年(大正15)3月、政府側はやっと出版物法案をまとめて上程した。これは明治以来の言論取締りの2大基本法である新聞紙法(明治42年制定)と出版法(明治26年制定)を統合したもので衆議院本会議に上程された。
 
新聞側からは言論の自由を拡大する内容になると期待されたが、いざフタを開けると、「『治安維持上、重大なる影響を及ぼすおそれのある事件』については、内務大臣に新聞紙で、陸軍、海軍、外務大臣にみとめられてきた記事掲載禁止命令権を与えるなど、現行法より逆に後退した内容になっており」(2)内外から強い批判を浴びて、法案は不成立となった。
 
翌年(昭和2)2月に再び提出され、特別委員会で審議された結果、今度は「保証金を全廃する」「行政処分による発売頒布禁止は存置し、行政上の監督方法として出版法院、出版審査会の特別機関を設置すること」「発行禁止制度は全廃すること」など言論統制を大幅に緩和する答申案が政府に提出された。新聞側の期待はいやがうえにも高まった。
 
ところが田中義一内閣はこれを上程するどころか、提出をしなかった。ちょうど、翌28年(昭和三)二月、最初の普通選挙法で行なわれた第十六回総選挙の結果が政府の徹底した選挙干渉、弾圧を行ったにもかかわらず無産政党から計八人が当選し、衝撃を受けたのである。政府は3月15日、治安維持法違反で全国で一斉検挙を行い、社会主義者、共産主義者、労農やそのシンパ約千人以上を検挙した。いわゆる三・一五事件である。

言論、思想取り締まり政策を一層強化して、6月末には治安維持法の改悪を勅令で断行し、七月には全国の警察に特別高等課(特高)を設置、政治思想警察網を拡充した。このような動きの中で『言論の自由拡大案』は棚上げされてしまったのである。(3)
 
普通選挙法(普選)をめぐって各新聞社が賛成に回わり、普選キャンペーンを始めた以後は、政友会を支持する国粋会や右翼団体からの新聞へのテロ、暴力は一段とひどくなった。警視庁は黙認して知らん顔を決めたため、新聞は暴力に無防備となり、再び“新聞恐怖時代”が現出する。特に、昭和二年から四年ごろが一番ひどく、田中内閣での鈴木喜三郎内相、山岡警保局長、宮田警視総監のトリオの時といわれる。これ以後、軍部が勢力を伸ばし始めると、内務省から陸軍の威を借りて憲兵隊と右翼、暴力団体が結託する。
 
「憲兵は警察より単純に、彼等を利用するつもりで利用された。荒木貞夫陸相、柳川平助次官の頃は秦真次憲兵司令官で、傍若無人ぶりは極に達し、憲兵司令部は暴力団の本部となり、部内外に対する怪文書は大体この中で印刷されていた。新聞の自由を守るどころか新聞の自由を奪い、これを圧殺する暴力がここを本拠として暴威を振るった」(4)
 
昭和三年三月八日。天皇の第二皇女久宮祐子内親王が亡くなった際、『大阪朝日』の最終版の記事で誤植が発生した。「久宮様舞去につき天機並に皇后宮の御機嫌奉伺のため宮中に参殿したものは八日正午までに五百名に上った」という記事の「久宮様」のすぐ後に誤って「並に皇后宮」の五字が組まれ、皇后まで一緒に亡くなったという記事になった。
 
 すぐミスに気がついた『大阪朝日』は配達ずみのところは再び配り直し、即刻、宮内省に陳謝するとともに、関係者を処分し、紙面に謹告した。しかし、おさまらなかった。
 納入新聞をみた特高の検閲係は即座に警察部長に連絡、当時の田辺治通・大阪府知事にも情報が入った。田辺は南地の料亭で政友会の代議士と酒宴の最中だった。『朝日』は軍縮問題や普選の論調では政友会と正面から衝突しており、田辺は『朝日』を目のかたきにしていた。
 
「これで朝日をつぶしてやる」と田辺知事は歓声を上げ、暴力団に急使を出し、行動が終わるまで警官、憲兵隊とも出動しないように指示した。一行は「国賊朝日新聞打倒」のタレ幕を作り、車に分乗して『大阪朝日』に乗り込み編集局へ乱入、「逆賊」と叫びながら仕込杖、木剣、ステッキなどふり回して窓ガラスやシャンデリアをメチャメチャにこわす暴力を加えた。(5)
 
 騒動は十九日には『東京朝日』に波及、ピストルを持った暴漢らが乱入、守衛二人を傷っけ、輪転機に砂をふりまいた。村山社長宅の玄関へも爆弾が投げ込まれたが、これは不発に終わった。
 
 四月九日には右翼団体が主催して、芝公園で「祖国擁護国民大会」が開かれ、集まった連中は『東京朝日』を襲撃しようとしたが、警官にストップされた。「朝日新聞膚懲連盟」が組織され、『朝日』の不買、広告不掲載運動が始まった。
 
四月二十九日。東京・本所公会堂で無産党合同の内閣打倒民衆大会が開かれた。酔った警察官数十人が集まった住民を有無を言わさず乱打するなど暴行を加え、取材に来た各社の記者、カメラマンも殴るけるの暴力をふるい、記者十数人が重軽傷を負った。急を聞いて読売の玉虫孝五郎社会部長らもかけつけたが、酔った警官が多く、暴力は続いたが、その場にいた有田宗義原庭署長は全く止めなかった。
 
日比谷記者倶楽部からも代表九人が急を聞いてかけつけたが、よってたかって殴る蹴るの暴行を受けるという一大記者暴行事件が起きた。新聞十九社は連盟で「警官の暴行は計画的に報道の自由を弾圧したるもので法治国において有るべからざる暴挙なり。政府はこの責任を明らかにせよ。なお近時、しきりに記事差し止めを濫用し、言論報道の職能を奪う暴挙に対し厳に政府の反省を促す」との共同宣言を発した。
 
巡査の一人は「有田署長は警戒にいく部下に、思想国難の際だから徹底的に取締れと訓示し、酒店から寄せ酒を飲ませた上、金一封をくれました」(5日、『読売』社会面)との証言をスクープし、警察ぐるみの暴力であることが判明した。以後、新聞社や新聞人への暴力の嵐が吹き荒れてくる。
 
以上のように、昭和に入って、政府は普選と抱き合わせで治安維持法が改悪し、共産主義者、そのシンパ、反体制派から、さらに広く思想、学問、宗教の自由まで年を追って幅広く取締まっていく。同時に新聞紙法の拡大解釈、運用によって新聞は手足を縛られ、国民は目をふさがれ、口封じされ、ものが言えない状態になっていった。
当局は治安維持法と新聞紙法をテコに言論、思想統制行なったが、これまでは治安維持法のみが悪法としてクローズアップされてきた。しかし、新聞紙法こそ明治、大正、昭和前期まで、長年にわたって「言論の自由」に猛威を振るってきたのである。
その新聞紙法についてさらに内容を詳細に見てみよう。
 
新聞紙法による取締規程は次のようになっていた。(6)
 
新聞紙法-出版手続-届出(第4条)、納本(第二条)、保証金納入(第二一条)
      -記事掲載制限ー(法規制)―検事差止命令(第一九条)、陸相・海相・外相の差止命令(第二七条)
                    (処分)―行政処分・―内相による発禁処分(第二三条)
                          司法処分―告発・検挙(第四一・第四二条)
裁判所による発行禁止(第四三条)
 
新聞は発行すると同時に、内務省に2部、と地方庁(警察)、地方裁判所検事局などに各1部の納本が義務づけられていた(第11条)。納本された新聞は、内務省や、警視庁、地方の特別高等課などで検閲の目が通されるが、第二十三条では「内務大臣は新聞紙掲載の事項にして、安寧秩序を紊し、又は風俗を害するものと認めた時はその発売頒布を禁止し、必要な場合はこれを差押えることができる」となっていた。
 
安寧秩序を紊す」「風俗を害する」記事かどうかがポイントであり、この基準によって、検閲されて引っかかった場合には発売頒布禁止という新聞、出版にとって死刑に等しい処分が下った。この第23条の行政処分権が新聞への生殺与奪権となったため、新聞側はこれを避けるために必死となる。ところがこのような抽象的な規定では、個別具体的な記事のどの部分が安寧秩序紊乱や風俗を害するに該当するのか判断に苦しむ場合が少なくない。
 
このために、内務省警保局など関係当局は重大事件が起った場合はあらかじめ禁止される事項を新聞側に通知して、この種の記事を掲載しないように注意した。新聞側はこれによって発売、頒布禁止の損害をまぬがれると同時に、当局も取締まりに徹底を期することができるという双方にメリットがある。
新聞記事差し止め処分は掲載差し止め事項によって、次の三種類となっていた。(7)
 
 (一)示達――当該記事が掲載された時は、多くの場合禁止処分に付すもの。
 (二)警告――当該記事が掲載された時の社会状勢と記事の態様により、禁止処分に付することがあるかも知れないもの。
 (三)懇談――当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。
 
以上の示達、警告、懇談の三種類が使い分けられたが、一方的な示達、警告が圧倒的に多く、懇談はわずかであった。「警告」や「懇談」も、警察と新聞との力関係では実際上「示達」と差はなかった。示達、警告は本来、法的な根拠を持たないが、発禁や差し押さえにつながるため、新聞社や出版社はたまったものではなかった。
 
掲載差止め処分によって記事発表は一定期間おさえられ、中には永久に闇に葬られたものも少なくなかった。この結果、重大事件でも国民には知らされず、国に都合の悪いニュースは隠されてしまったのである。
では、どのような場合に掲載差し止めが出るのか。報道できない内容は多方面にわたっており、戦争へ一歩一歩進むにつれてよりきびしく、広範囲になっていった。掲載禁止事項は次のような多岐にわたっていた(8)。

 ①公判になる前の予審の内容
 ②検事差止めの捜査、予審中の被告事件に関する事項
 ③公開を停めた訴訟の弁論
 ④掲載許可のなき官公庁や議会において公にしていない文書
 ⑤掲載許可なき公開していない会議の議事
 ⑥公にしていない請願書、又は訴願書
 ⑦犯罪を煽動、もしくは曲解する事項
 ⑧犯罪人、被告人を賞讃し、救護する事項
 ⑨被告人を陥害する事項
 ⑩同一趣旨の将来の掲載につき内務大臣の差止めたる事項
 ⑪軍事に関し陸海軍大臣の禁止、又は制限したる事項
 ⑫外交に関し外務大臣の禁止、又は制限したる事項
 ⑬安寧秩序を紊乱する事項
⑭風俗を壊乱する事項
 ⑮皇室の尊厳を冒涜する事項
 ⑯政体を変改し朝憲を紊乱する事項
 
 新聞社や出版社はこうした掲載禁止、差し止めに引っかからないように、あらかじめ「革命」「共産主義」などの言葉は、伏字として○○○や×××に直す自衛手段をとった。この伏字は検閲が厳重になった1928-29年ごろから一挙に増え、社会科学関係書の場合、何行にもわたって削除や××や○○の伏字だらけの本が氾濫する事態となった。これだけではなかった。
 
検閲の基準は広域にわたって網をかぶせられていた。例えば安寧秩序を(みだ)したり、風俗を害するという規定だけで、禁止の基準は極めてあいまい抽象的で、検閲官によってどうにで解釈可能なものであった。
 これは具体的に禁止の基準を示すことは、安寧秩序や風俗社会の変遷や、時代の推移によって変わっていくものだから無理というのが表向きの理由だった。だが、官憲にとっては抽象的な規定で幅をもたせ、自分たちの解釈でどうにでも自由に取締まれる極めて恣意的な内容にもなっていた。当局側もこの点は認めていた。
 
「出版警察報」第六号(昭和四年三月号)の中の『「安寧秩序紊乱」の限界』の中で次のように指摘している。
「仮に取締官庁の認定には誤りがなくとも、見解の相違で、言論圧迫などいう非難の声も聞くこともあるし、又、著作権発行者の側から見れば『安寧秩序紊乱』の範囲が取締官庁の自由認定に委せられているがために、言論自由の保障は実際には確保されていない状態となる。現行制度の不備の結果、出版業者には同情に値する場合がある」
 
言論の自由はクモの巣のように網が張りめぐらされた検閲で封じられていった。

安寧秩序紊乱の一般的な検閲基準は、さらに次のように定められていた。(9)

 
    皇室の尊厳を冒瀆する事項――極めて広義に解し、古今にわたり万世一系の皇室総べてを意味する。歴代天皇、皇族に関する歴史上の事蹟も冒瀆するならば、これに該当する。又、直接皇室自体に関するものでなくとも、これに関連する三種の神器等も皇室に影響を及ぼすので、不穏なものはこれに該当する。
 
    君主制を否認する事項――直接、否認するのではなく、単に歴史的事実として君主制の崩壊を叙述するものでも、その記述方法、筆致より判断し、このような主張、宣伝をなすものと認められる時は、これに該当する。
    共産主義、無政府主義の理論、戦術戦略を宣伝し、その運動の実行を煽動し、又はこの種の革命団体を支持する事項―単に理論の学術的研究を目的とするに止まるものは寛大でもよいが、一般大衆に対し革命常識の培養と主義の宣伝の効果をもたらすと認められるものは、厳重な取扱をしなければならない。
 
      法律、裁判など国内権力作用の階級性を高調し、その他はなはだしくこれを曲説する事項――法律や裁判所はプロレタリアに対する階級的圧迫弾圧の武装機関の拷問などに関する記事で、その程度により国権作用を曲説し、作用を害するものは禁じなければならない。
    テロ、直接行動、大衆暴動を煽動する事項――宣伝ビラなどで処分されるのはこの項が多い。
    植民地の独立運動を煽動する事項――直接記事のみならず、植民地官憲の統治を論難攻撃するものでも、その方法、時期によっては禁止すべきである。
 
      非合法的に議会制度を否認する事項――社会革命を基調とするものや非合法手段により、議会の廃止を論議するもの。
      国軍存立の基礎を動揺させる事項――国軍の存立を呪咀、否認し、又は軍紀の破壊を煽動し、その存立を危くするもの、又は単に反軍国主義的宣伝をなすものでも、その筆致の極端なもの。
      軍事上、外交上、重大なる支障をきたすべき機密事項
      外国の君主、大統領又は、帝国に派遣せられた外国使節の名誉を毀損し、このためめ国交上、重大なる支障をきたす事項
      財界をかく乱し、その他、著しく社会の不安を惹起するような事項
      犯罪を煽動し、もしくは曲解し、又は犯罪人、刑事被告人を賞賛、救護する事項
      重大犯人の捜査上、甚大なる支障を生じ、不検挙により社会の不安を惹起する事項
      戦争挑発のおそれのある事項
      その他、著しく治安を妨害するものと認められる事項―例えば天災地変の予言など。
当局の解釈しだいで自由に取り締ることができるように、一つ一つの事項に最大限、幅を持たせており、この法の無限性、恣意性の中に日本の言論統制の特徴が現れている。
 
風俗壊乱記事の検閲基準も以下のように幅広く決められていた。(10)
一般的標準は春画淫本、性欲又は性愛に関連する記述で、淫猥羞恥の情を起こして、社会の風致を害する事項。陰部を露出した写真絵画、絵葉書の類。陰部を露出しなくても、醜悪挑発的に表現された裸体、写真、絵画、絵葉書の類、男女の抱擁、キスの写真、絵画、絵葉書、堕胎の方法を紹介した事項、残忍なる事項、遊里、魔窟などの紹介で煽動的にわたり、又は好奇心を挑発する事項、その他善良の風俗を害する事項――
 
・満州事変以来、差し止め件数激増

別表(11)によると、1931(昭和六)年9月の満州事変前後から、新聞、出版の発売禁止件数はうなぎのぼりに増え、1932(昭和七)年にはピークに達した。1932年の差し止め件数は64件で内訳は示達44件、警告19件、懇談1件となっている。
 
これは前年のなんと六倍に激増、「安寧秩序紊乱」にふれた新聞紙法違反は昭和七年は2081件で前年の2・5倍、一九二六(昭和元)年の8倍、出版法も含めた全体の件数は4945件で昭和元年の12倍と最高を記録した。翌33年も4008件と減ったものの共産主義運動が壊滅させられたこと、当局のきびしい取締りで新聞、出版が自粛、注意したことなどによって、1934(昭和九)年には、1300件と激減した。
1932年(昭和7)の差し止め処分の内容は次のようになっている(12)。
 
満蒙(ママ)事変に関する事項                 27件
・上海事変に関する事項                   14件
・警視庁前不敬事件に関する事項              1件
・五・一五事件に関する事項                 1件
・財界攪乱に関する事項                   10件
・軍事的機密に関する事項                 7件
・治安維持法違反被疑者検挙に関する事項       4件
 
満州事変では、満州国での「満州国交通政策上の重要事項」「満州国関税制度に関する事項」「満州国の国防問題に関する事項」は三月十三日付で差し止め示達が出た。三月十七日付で「上海付近の戦闘でわが戦闘員中、捕虜となったものがあるかどうかは陸軍省発表以外の一切の事項」は差し止め示達といった具合である。
 
1932(昭和七)年5月15日に起きたいわゆる五・一五事件では、翌日、差し止め示達が出た。本月十五日、犬養首相狙撃そのたの不穏事件に関しての事項―
     犯人の身分、氏名や素性
     事件が軍部に関係あるとし、国軍の基礎に影響あるが如き事項
     本事件発生の原因、今後再び起ることありと予見するが如き事項
 
同年11月12日に発覚した司法官赤化事件では、翌年2月28日に「本年二月以降における司法部内部職員の赤化事件の報道に関してわが司法権の威信を害し、裁判の公正に対する国民の信頼を傷ける(おそれ)のある事項、これを推測させる事項」については差し止め示達が出た。
 
1933(昭和八)年の差し止め事項では、桐生悠々の「関東防空大演習を嗤う」の関東防空演習に関して、七月三十一日付で次のような差し止め事項が出された。(13)
     防空司令部の内部組織、防空部隊の編成指導系統及び配備 
     防空監視哨の総合的配置
     防空に関する通信系統
     八八式七糎高射砲の機能を察知される事項
     八七式及九一式防毒面の内部構造に関する事項
     防衛司令部内諸設備
 
こうした報道統制、検閲の中で、記事差し止め、禁止、掲載不可を恐れながらの報道、論評することは難しいことである。報道の自由が自明のことになっている今日からみれば、想像もつかない。
『朝日』『毎日』などの大新聞の報道姿勢と菊竹六鼓や桐生悠々の言論抵抗も、このような時代的な背景をおさえた上で、検証しないと、見誤ることになる。当時の新聞記事、社説を読む場合にも、書かされた記事か、記事に書かれていない部分を見分ける目、記事の行間を読む力が求められる。
では、実際の検閲はどのように行われていたのだろうか。
 
1932(昭和七)年6月、警視庁では特別高等課が拡張され部となった。検閲係も検閲課となり、係員は警視1、警部4、警部補4、巡査12、書記1と増員され、各警察署に配置された検閲係員82人が出版警察を担当した。
出版警察の方針として、①検挙第一主義に対して執行第一主義、②風俗主義に対して風俗安寧並行主義が新しく打ち出された(14)。
警視庁管内の新聞紙は当時2652種類もあり、全国発行の新聞の24%を占めていた。このうち主要日刊新聞26紙を特別の取締対象としていた。『朝日』『毎日』などの全国紙、一般紙はこの中に含まれていた。
 
この主要日刊紙に対しては検閲課が直轄して事務に当たり、記事掲載差し止めや解除の通達は直接、課員を各方面に派遣していた。差し止め命令が出て正本を印刷して、各社に伝達する時間は約30分であった。
発禁を受けた場合、各販売店(計1,444ヶ所)に差し押さえの執行が行われるが、各警察署に手配され、警察官への連絡に要する時間は約30分であった。
しかし、日刊紙の差し押さえは最も難しく、特に号外は執行不可能といわれた。実際、差し押さえられた部数は1割以下が大半だった。このため、検閲課は行政処分の足りない点は司法外処分の運用によって補なっていた。
 
内務省警保局編『出版警察概観』によると「日支事変(満州事変のこと)に関する記事取締に関する件」では出版警察担当者はこう指摘している(15)。
「昨秋突発したる日支事変(満州事変)は事態極めて重大にして、もし新聞報道により、軍事上の機密が漏洩して、わが外交関係を悪化させれば、国運の消長に至大の影響を及ぼす虞があるので、当局は、この種、新聞記事の取締につき関係当局と密接なる連絡協調を保ち取締上遺憾なきを期した。
満蒙事変と上海事変の差止通牒は41件の多数にのぼり、本年に於ける差止通牒の過半数を占めるのは、一面、日支事変が国際的重要性を帯びているのと、他面、軍事的、外交的機密が許す範囲内で言論の自由を保障すべく抽象的・広汎的差止を差控えためである」
 
また、「五・一五事件の記事取締の件」では「五・一五事件は社会の不安動揺を惹起し、類似犯罪の累発を誘致する虞があったので、事件勃発後直ちに記事は当局、関係当局の発表以外は、一切これを新聞紙上に掲載するのを差止め、流言蜚語により人心を惑乱するのを防止し、当局より進んで大要を発表して人心の安定を期した」と書いている。(16)
こうした言論統制に新聞が全く無抵抗に追従したのではなかった。差し止め禁止をかいくぐって報道し、処分された新聞が数多くあったことは『出版警察概観』に墓銘碑のように出てくる。
 
 例えば、昭和7年の安寧禁止に違反した新聞は、満州事変の記事取締まりに違反は250件、上海事変で437件で、これを外交的機密違反、軍事的機密違反に分類すれば外交が236件、軍事が460件で、また、五・一五事件の差し止めに違反は94件である。
この大部分は地方紙だが、朝日(地方版も含む)は計20件、毎日(同)も計33件ある。これは1932(昭和七)年だけの数字だが、1936(昭和十一)年2月26日の二・二六事件のころまでは差し止めを何とかくぐり抜けて、号外や記事を掲載する一種のゲリラ活動が少なくなかった。
 
 取締当局とそれを何とかうまくかわそうとする新聞社のかけ引きが演じられた。
 しかし、それも急激な軍部の台頭で「非常時」「準戦時体制」に突入していく過程で、新聞、出版への圧力はより強化される。陸軍がコントロールして地方の司令部や在郷軍人会は新聞、雑誌を監視し、憲兵隊は執筆者の身許調査や自宅訪問を行い、圧迫を加へ、何か気にくわぬことを書くと、たちどころに不買同盟が結ばれた。
 
1935(昭和十)年9月の『思想実務家会同議事速記録』をみると、次のような発言がみられる(17)。これは全国から控訴院(今の各高検)思想係検事と地方裁判所次席検事(地検の検事)らが一堂に集まり、社会運動の情勢や問題を協議した会合の議事録である。
ある検事は「近頃新聞雑誌がふえまして過激な記事を掲げているものがありますから、治安維持法などによって、その他の場合には(新聞紙法などの)朝憲紊乱、安寧秩序紊乱などで、どしどし司法処分に付したい」と述べている。
 
 また別の検事は「刑罰が余りに軽い。有資格者を請負人的に編集人発行人にすえて大新聞などが刑罰を覚悟して書く場合もありますから、そういう場合には新聞紙の発行を禁止処分を刑罰として規定するのがと思います。これは如何なる刑罰よりも新聞紙に対して有効なる制裁であります。現行法でも裁判所は発行禁止が出来るけれども、まだその実例を知らない」
 
かつて読売新聞のコラム「編集手帳」の執筆者として、また名文章家として鳴らした高木健夫は当時をふり返り、こう回想している。
「報道差止め、禁止が毎日何通もあり、新聞社の整理部では机の前に針金をはって、差止め通達をそこにつるすことにしていた。このつるされた紙がすぐいっぱいになり、何が禁止なのか覚えるだけでも大変。頭が混乱してきた。禁止、禁止で何も書けない状態になった」
これは太平洋戦争が始まった後のことだが、この状態になるまで時間は余りかからなかった。
 

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