『F国際ビジネスマンのニュース・ウオッチ⑤』『薄煕来氏の栄光と挫折における冷酷(無慈悲)の軌跡』(ニューヨークタイムズ5/6)
『F国際ビジネスマンのワールドニュース・ウオッチ⑤』
★『In Rise and Fall of China’s Bo Xilai, an Arc of Ruthlessnes ー中国のBo Xilai(薄煕来)氏の栄光と挫折における冷酷(無慈悲)の軌跡』
ニューヨーク・タイムズ5/6
ニューヨーク・タイムズ5/6
(F氏のコメント)
1. 今年の3/14、中国全人代閉幕後、温家宝首相が記者会見で
重慶市長、市委書記の薄煕来の「唱紅 打黒」運動を文革運動の
再来と強く非難し、翌3/15日 薄は書記職を解任された。直
接的には、部下の王立軍公安局長の成都米国総領事館への駆け込
み事件、管理不行き届きが理由である。
2. 今秋の政治局常務委員(チャイナナイン)の交代に伴い、昇格
が有力視されていた薄煕来の失脚は大変な関心を呼んだが、この
報道は、その直接、間接の理由と背景を余す所無く伝えている。
3. 訳者の個人的意見であるが、あくまでも失脚は薄氏個人にその
責任がある。過度な古い急進的強権的手法と過度な独裁主義であ
る。
能吏との評価も高く、もっと早い時期にその政治手法に対話路線
のウエイトを増やしていれば今回の事態は避けられたと考える。
父親の薄一波の鄧小平、江沢民人脈に頼りすぎて、現 胡錦濤、
温家宝政権幹部との対話が不足し、彼等からも全く支援が得られ
ていない。温家宝は薄煕来がナイン入りする事は共産党中央の団
結を壊すとかなり以前から憂慮しており、最後の決断に出ている。
4. 米欧の様な三権分立が確立せず、共産党一党独裁の中国社会で
は透明度が低く暴君振りが目立つ人材に権力を与えると、人民
は救われない悲惨な事態に遭遇することをこの報道は明瞭に物
語っている。
5. NYT得意の調査報道が難しい中国と云うお国柄の中で、社会の
実体がデモクラシーとは程遠い所にある事を実に良く伝えている。
常に公安、検閲から目を付けられているので、大変だが、問題の本質に
しっかり食らい付いている。
NYTの中国駐在記者は今の所7、8人の名前が分かっております。
薄煕来の親父が薄一波で鄧小平の懐刀とは知りませんでした、而も
趙紫陽の後継に江沢民がなるように応援したとは !
薄も太子党ですが、やはり創業者ではありませんから、人間性の事
が分かっていませんね。何処も、二世は問題があります。
2012/5/6 NYT by MICHAEL WINES
『In Rise and Fall of China’s Bo Xilai(薄煕来), an Arc of Ruthlessnes 中国のBo Xilai(薄煕来)氏の栄光と挫折における冷酷(無慈悲)の軌跡』ニューヨーク・タイムズ5/6
北京 ― “ニュース1+1”は中国の一種の “60分”、中国国営テレビのニュースマガジン(時事解説)であるが、ここで、検閲官が許す限り、中国社会で遥かに物議を醸す話題を探索、提供している。
2009年12月、この番組は、重慶市の広く一般に知られた反腐敗運動に狙いを定めた、この腐敗撲滅運動はその一掃振りで国民の注目を集めたが,その遣り方の残忍さと法律の軽視に関し、強い関心を巻き起こした。
これから述べる事は、Bo Xilai, この運動の起案者であり、当時重慶市の書記であったが、その彼が自分の行く手を塞いで邪魔をする者をどう処理したか、に関する実録である。
Bo氏は昔からの友人であり同僚で当時中国中央テレビ、CCTVの社長をしていたJiao Li氏を呼んだ。直ちに“News1+1”のプロデユーサーは別の番組に移動させられた。この番組の著名な司会者は放送業界からあっさり追放された。
“ 哀れなCCTV ” と弁護士のLi Zhuangは言う、彼はBo氏が気にしていた標的の一人の弁護を敢えて買っていたが、この事件で多分嘘の証拠をでっちあげたとして、30ヶ月の投獄の判決を受けた。“彼等は自分自身の子供達を守る事すら出来ない”、と言う。
今年の1月、この秋には中国共産党の指導体制が世代交代を始める予定になっているが、Bo氏は、中国の政治権力の頂点、9名の政治局常務委員の椅子を狙っていた。彼はニュースメディアや外国の指導者達を異常に気にする質であり、中国共産党の指導階級の石灰で固められた様な体質を壊す格好良い因習破壊者であった。
今日、Bo氏の失脚は世界の目を釘付けにしている。彼は、共産党規則の重大な違反の疑いで取調中であり、何処か知らない場所で外部との連絡を絶たれ、政治局委員の資格も停止中である。彼の妻、Gu
Kailai氏、昔から熱烈な野心家として知られているが、金品をめぐる争いで、家族の友人、イギリス人のNeil Heywood氏を殺害したという嫌疑で党の取り調べ当局に告発されている。Bo氏もGu氏も公に自らを守る機会を与えられていない。
彼のその成功にも拘らず、Bo氏の破滅の種は、彼を知る大勢の人々にとって以前から明白であった。彼は驚くべきカリスマ性と深い知性の持ち主であった、そして中国の政治力に決定的な影響を及ぼす家系や血縁のネットワークを持っているだけでなく、イメージ操作に長け、全ての西欧の政治家の出世の燃料となる公的資金の戦略的な活用にも通じていた。
しかしBo氏の疑う余地のないこれらの才能は、友人や批評家達が異口同音に語っている様に、その飽くなき野心と、権力への道を産み出した落ちぶれた生活に対する意図的な無関心によって相殺された。中国の隔離されたエリート指導層の中のキャリア形成の考え方についてはほとんど知られていない、しかしこの話題を知る者達は言う、Bo氏の冷酷さ(無慈悲さ)は際立っていた、公式のルール欠如が最も強い進歩を確実にするシステムの中に於いてさえ。
誰も本当は彼の事を信頼していない:彼の権力の源になると思われる数名の小公子達を含めて、大勢の人が彼を怖がっている、とCheng Li氏、ワシントンのブルッキングズ研究所の研究者はいう。いわゆる小公子達(いわゆる太子党のメンバー)は ― Bo氏の様に革命中国第一世代達の子孫 ―バラバラだが、中国の国内政治では強力な勢力であり続けている。
“それがまさに彼の性格である、”共産党のある長老の息子、彼はBo氏を良く知っているが、その彼が2月に言う。“地方から共産党政治局員に登り詰める迄、彼は自分の思い通りにやらなければ気が済まない人だった”。
雇い人達によれば、Bo氏は要求ばかりして容赦のないボスだと言われている、下っ端を真夜中の会議に呼び出したり、彼の要求に応えられない者達に陶器を投げ付けたり、打擲したりしたと言う。ある下っ端の部下が大連の会議の後直ぐに、Bo氏の仲間に近付いて、その仲間に仕事をくれる様に頼んだ。彼女が言うには、“彼は怒って口汚く罵った、彼は嫌な奴で私は仕事を変わりたい”、とその時の事を思い出していた。
権力と栄光への強い執着は、彼が支配的な立場を実際に獲得する度に強力な敵を増やしていった。彼が10年以上に亘り卓越した官吏を勤めた遼寧省出身の同僚達は、1997年の第15回共産党大会への代表団から彼をあからさまに外した、彼が、当時遼寧省の第2の都市、大連市の市長と党の副書記を兼務して多忙であったとしても。
Bo氏が2004年、北京市の商務長官として赴任する為に遼寧省の役職を去った時、これは誰もが知っている事だが、省の党書記であるWen Shizhen氏は彼の転出を祝ってパーティを開いたと云う。
『 過度なやりすぎが見逃されていた 』
まだ引き続き彼は、なんとか出世の上昇は続けていた、彼に対する内部の敵意は、外見上まとまりに悩みつつも共産党の力で表面を取り繕われていた、彼の過度なやりすぎは、彼と共にその政治的力を増していた家族や政治的な仲間によって見過ごされていた。
Bo氏の他人への強硬な態度は若いときから既に身に付いていた。
彼は由緒ある家柄に生まれている ― 彼の父、Bo Yibo(薄一波)氏は革命の最中、毛沢東軍の英雄であった、― そして他のエリートの子供達と一緒に、中国でベストと云われた北京の第4高等学校で学んだ。しかし1966年、毛沢東が文化大革命を始めた時、父親は追放の最初の標的の一人となり、修正主義者の売国奴とレッテルを貼り直されて、見せしめと鞭打ちの罰をうけるため、競技場から政府事務所まで引きずり回された。
17才の時、Bo氏は父親の追放を受け入れた様に思われる、彼は他のエリートの子弟と共に、後にその野蛮さで中国当局から非難された急進的な紅衛兵組織を作った。若いBo氏は自分の父親を公然と批判し、打擲さえした。父親は12年間監獄で過ごした。別の紅衛兵達は、Bo氏の母親を誘拐し、彼女は1969年に殺害されたか、病気で死亡した。
真実は、はっきりしていない。歴史家達は、Bo氏のグループは実際には暴力に反対し、毛沢東の乱暴な行動に対抗し、グループメンバー達のエリートの両親を守ろうとした、と言う。毛沢東の軍隊はBo氏のグループに対し素早く突然攻撃して来た、1967年早々にBo Xilai氏は北京の強制収容所に送られ、そこで5年間過ごした。屢々深い泥濘の中、裸足で労働し、彼の足はやせ衰え、がっしりした肉付きもすっかり削げてしまった、と彼は後に友人に語っている。
しかし、毛沢東の死後、この父親と息子は以前よりも強い力を持って登場した。名誉を回復したBo Yibo氏は、1979年に戦友の鄧小平の下で、副首相に就任した。これに続く10年、Bo Yibo氏は鄧小平氏の先兵となって働いた、この間、1980年代の中国の荒れ狂い失敗に終わった自由化運動があり、二人の共産党総書記後継者、胡耀邦と趙紫陽の追放があった。
その事は、Bo Yibo氏に、中国共産党の指導者としての趙紫陽の後継者となった江沢民が謝意を表す事となった。Bo Yibo氏は、2007年に死んだが、江沢民の側に控えるライバル達が早く引退する様に手助けをした。江沢民氏は、今でも中国政治に隠然たる影響力を行使し続けているが、その彼がBo Xilai氏の政治的なキャリアの後押しを、決定的な局面ではしてやっていたと広く言われている。
北京の共産党本部で最初に党役員の職に着いてから10年近く、Bo氏は、1992年に、北太平洋沿岸にある人口約600万人の都市大連の市長に任命された。その時迄には、彼はGu女史と結婚していた、彼女の家系には、1930年代、1940年代の共産党の抗日運動を率先して支援した父親が含まれる。Gu女史は法律事務所の経営を始め、米国でやり遂げた訴訟における彼女の功績など業績全体を含めて一般からの評判は高くなり始めた。
その間、Bo氏は、彼のキャリアを定義する事となるその政治的なスキルと権力への渇望を研ぎ澄まし始めた。
市長の仕事は割の良い仕事であった ― 中央政府はこの国の沿岸都市の再生に大量の資金をつぎ込んでいた ― Bo氏はこの優雅だが壊れかけた港湾を香港のイメージに作り直す為に、惜しみない努力を傾注し監督した。建設ブームが空き家の工場をオフィスや高層アパート群に変えて行った;直ぐ近くの日本から進出した会社は、大連を中国投資の上陸地点とした。Bo氏は大量の人民元を、人目を引く事業計画につぎ込んだ、それは毎年行われる国際的なファッションショーやビール祭り、市民の彫刻大会そして大連の町を新鮮な草木の海で覆い尽くすプログラム等である。
Bo氏は、再選モード全開の米国人市長のスタイルで1日に7つとか
8つのイベントに参加した。彼は市民のプライドの偶像として大連市のサッカーチームを、中国で一番などと、執拗に誇大宣伝をしたりしていた。
これらの試みのいずれも、民衆の幸福と福祉の基礎となるものは何一つ無い、と主張出来るが、それがアピールするものが何かは感じた”、“それは派手でケバケバしいものだ”とStephen Mackinnon氏、1980年代、1990年代の始めにBo氏と知り合い、作家で長期に亘る中国の研究者の彼が言う。
Bo氏の自己宣伝も同様に人目をひくものであった;1990年代半ば迄には、有名人の年代記作者はBo氏の大連市での業績を褒めそやした経歴を書いていた、そしてBo氏べったりの記事が全国的な主要紙に掲載されていた。大連は国際的な話題に上る様になり、Bo氏は大連市を囲む遼寧省の省長と党中央委員会、ここには約370名の共産党の最も力のある人材がいるが、このメンバーへと一気に出世を遂げた。
“彼は、その行く所何処にでも、マドンナ風のヘッドフォンと元気で可愛いセーラー服を身に着けた素晴らしく若い娘達を大勢引き連れていた”、と南中国モーニングポスト紙は2004年、大連港の停泊した船上でのBo省長との夕食の様子を勢い良く語っていた。“彼は気軽にテーブルの間をぐるぐる回り、乗船している全ての紳士淑女、子供達と握手をし、優雅な身のこなしで多くの人々の求めに応じて、一緒に写真を撮ったり、彼の名士としての地位を表すサインをしたりした。会の終わり近く、彼がステージで喋り出した頃には聴衆は彼にもう抵抗する余力が無いほど魅了されていた。
『他人の神経を擦り減らす様な性格で知られる 』
然し乍ら、どこか他の所では別人のBo氏が見られた。
Jiang Weiping氏は2000年、12月のある朝、自分のアパートの外側にある駐車場に進入していた、その時5、6名の男が彼の車のドアをサッと開け、後部座席に彼を押し込み、彼のジャケットを頭に被せた。
ジャーナリストのJiang氏は大連政府の腐敗を繰り返し書いていた。
彼が言うには、軍の短期収容所に連れて行かれ、そこには市の公安部の共産党書記、Che Keming氏が彼を待っていた。Che氏は、大連市の階級序列を流星のスピードで駆け上がる前は、Bo氏のコック兼運転手であった。“貴方は大胆すぎる”とChe氏がJiang氏に言った事を思い出してそのままJiang氏は語った、“Bo氏はまもなく遼寧省の共産党トップになる予定だ、そしてその後省長になるのでは?”。
Jiang氏はまもなく、拘留され、国家転覆と国家機密の不正入手の嫌疑で告訴された。彼は刑務所で6年間過ごした後、自由の身となりカナダへ逃げて、今はそこで暮らしている。
Jiang氏の説明を立証するのは容易ではないが、この様な話は稀ではない。Yang Rong氏、彼の会社Brilliance China Automotive Holdingsは中国最大の自動車メーカーであったが、新工場の建設を遼寧省の代わりに上海で実施する様計画したところ、2002年、会社への出資金約7億ドルがBo氏によって差し押さえられている事が分かった。Yang氏、今は米国に住んでいるが、彼はその後Bo氏と政府を事実無根で訴えた。
その頃迄に、Bo氏は数名の強力な敵を作っていた。2007年、重慶市の党書記としての任官は、実際には彼を北京から異動させて、権力の椅子から遠ざけようと画策されたものである。中国貿易省と通商省のトップ二人は副首相、これはBo氏が渇望していた椅子であるが、このポストに就任する予定であった。しかしその一人Wu Yi(呉儀)女史はBo氏の「他人の神経をすり減らす様な性格」と自己宣伝を予てから嫌っていた。彼女は、温家宝首相や他の人達にも味方して、Bo氏を本線から外して内陸の職務に追いやった。
Wu女史を知る二人の人が言う、彼女は2005年の、戦略的、経済的対話のワシントンセッション、彼女はそこで上級指導者達の代表団を率いていたが、そこでBo氏のスタンドプレイにカッとなった事がある。更に彼が、商務省の国際関係事務所に警察の調査を受け入れた後、緊張を強いられて酷く待たされた、と。そして友人との会話の中で、彼女は、取り分け嫌な思い出として残っている過激な紅衛兵への彼の熱狂の姿を引用した。
“Wu Yiは彼を困らせた”、とある昔からのBoの仲間が言う。“諺にある様に、彼女は手段として役に立つ、私は三月には辞するが、あいつは私より前に居なくなる。”
『道具として恐怖を使う事』
しかし乍ら、遠隔地への異動の好影響期待や政治局で待望の椅子に付けなかった残念賞も、Bo氏の野心を正す方向には向かわなかった。その代わりに彼は大連時代の実行計画を繰り返した、大金を投下して重慶市を銀杏の木で埋め尽くし、外国からの投資をおびき寄せ、自分の業績を宣伝した、そして彼の父親を罰した文化大革命のパージの様相を帯びた反腐敗運動の先頭に立った。
その摘発の標的の中に、重慶市の公安部長代理、Wen Qiangが居た、2010年の腐敗の嫌疑による彼の処刑を、重慶エコノミック タイムズ紙は急いで一面に、“Wen Qiangが死亡、人民は喜んでいる、重慶は平穏である、”と公表した。
Wen氏は明らかに腐敗していたけれども、多くの人は死刑は厳しすぎる刑罰と看做した、部外者達はいつも野心的なBo氏からの、ベールに覆われたメッセージをそこに見ていた。Wen氏は、Bo氏の重慶の前任者であるWang Yang ( おう洋)氏とHe Guoqiang ( 賀国強)氏二人に仕えた。Wang氏はBo氏の政治局常務委員会メンバーのポストを争うライバルであった。He氏は既にそのメンバーにおり― 腐敗と、党規則のその他の侵害を調査する党組織も又彼の指揮下にある。
Bo氏個人にとっては、Wen氏の処刑は、重慶市に対する前任二人の職責が果たされていない事への暗黙の非難であった。“主人が見ている間に犬を叩く”という事とある人は言った。
公的には、宣伝活動の一環という口実であった。当時の公安局長、Wang Lijun(王立軍)氏は記者達を招集して腐敗撲滅運動の歴史を4冊に纏めさせ、これに映画やTVシリーズも付け加えた。
それから2年も経たないうちに、― 恐らくWen氏の運命を思い出したのかも知れない ― Wang氏は成都のアメリカ総領事館に駆け込み、Bo氏からの身柄の保護を懇願し、自分の失墜の元となった出来事を強調した、当時、その対話の間中 彼は理由無く恐怖に苛まれ、精神的にも安定しなかった、と言われる。
今でも、彼の恐怖は決して見当違いには見えない。
大連市長、Bo氏は嘗て、北京のビジネスマンSu Xinmin氏が大連に来て、取調中の大連のビジネスマンの為に陳情活動をした後で、激怒した事がある。共産党長老の息子であるSu氏が、Bo氏を電話で呼び出し会話した所、怒ったBo氏は、Su氏を逮捕すると宣言した。その後間もなくして、大連の警察官達の一団が北京に行き、Su氏を逮捕して約2ヶ月間、彼を大連に拘留した。
それがBo氏の遣り口の特徴であった、Su氏が知らない人間ではなかった事を除いて。Su氏とBo氏は、同じ文革労働キャンプで5年間を過ごし、党指導者の二人の息子は贖罪の為に必死になって点数を稼いだ。
“彼は一緒に収監されていた高級官僚の息子としての仲間同士にも、この様な遣り口を実行していた”と党のある人間は言う、“だから、彼にとってWang Lijun氏は何なのか?(どうにでもなる存在だ)”
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