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『オンライン講座/野口恒の先駆的なインターネット江戸学講義⑯』★『諸国を遍歴、大仕事をした“歩くノマド”たち(下)』ー90歳まで描き続けた葛飾北斎』★『全国を歩いて学問を修め、数々の発明を成した破天荒の「平賀源内」』★『紀州藩御庭番として各地を遍歴、膨大な著作を残した「畔田翠山」』

   

 

   /日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義(16)>

野口恒(経済評論家)

 

 浮世絵は江戸で生まれ、江戸で繁栄した町人文化である。江戸時代には菱川師宣、鈴木春信、鳥居清長、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川豊国、歌川国芳など多くの優れた浮世絵師が活躍した。

それらの中でも、葛飾北斎(1760~1849年)ほど人一倍好奇心が旺盛で、圧倒的に多くの作品を描き、晩年まで絵の題材を求めて全国を歩き続けた漂白の浮世絵師はいない。彼は人間的にも型破りなところがあって、転居すること90回を超え、改号すること30回以上、数々の奇行や逸話も多かった。彼もまた、“歩くノマド”として諸国を遍歴し、生涯の大仕事の成し遂げた人物である。

 

北斎は好奇心の塊のような人物である。風景、人物(美人画や役者絵など)、動物、植物、道具、お化けや怪談まで、あるゆる事に興味を抱き、それらを題材にして大量の浮世絵を描いてきた。

同時代の浮世絵師・歌川広重が初期に美人画を中心に、途中から北斎に刺激されて風景画に転向し、有名な「東海道五十三次」などで人気を得て、風景画の浮世絵師として名声を確立したのに対して、北斎は風景画や美人画に拘らない、興味のあるあらゆる事柄を浮世絵に描いた自由奔放で、破天荒な浮世絵師であった。

 

90年の生涯のうち、北斎が描いた浮世絵の数は3万点を超え、他の浮世絵師に比べて圧倒的に多い量の浮世絵を描きまくった。彼が描いたのは浮世絵だけでない。黄表紙、洒落本、読本などの戯作に多くの挿絵も描いていた。

とくに曲亭馬琴とコンビを組んで「新編水滸伝」「椿説弓張月」などの人気作品に挿絵を描き続け、挿絵画家としても名声を博した。

 

北斎の興味や好奇心がいかに多種多様に富んでいたかを示す好例が、「北斎漫画」といわれたスケッチ(絵手本のための下絵)集である。文化9年(1812年)彼が52歳ごろ、後援者で門人である牧墨僊(1775~1824年)宅に半年ほど逗留して300あまりの下絵を集中して描いた。

そして、文化11年(1814年)北斎54歳の時に、名古屋の版元永楽堂から北斎漫画の初編が発行され、大変な好評を博したのでその後もずっと描き続けた。北斎漫画は、彼が亡くなった後の明治11年(1878年)になって全15編が発行されている。

 

スケッチ集に描かれている題材は、それこそ森羅万象といって良いほど多種多様に富んでいる。

たとえば、人物、風俗、各種職人や農民の仕事振りや道具類、相撲の決まり手集、動物や植物、昆虫や魚、魚貝図鑑、妖怪・お化け・百面相、剣道・弓道・槍など武道のさまざまな型、遠近法など、それこそ興味のあるあらゆる物が絵の題材とされ、その数は約4000図に上っている。その溢れんばかりの旺盛な好奇心に圧倒される。

 

北斎はこれだけ多岐にわたる題材を絵に描くために全国を遍歴し、また新たな絵の題材を求めてひたすら歩き続けた。北斎は、新しい絵の題材を見つけて興味を抱くと、その近くに住まないと気がすまないたちである。

だから、生涯にわたり絵の題材を求めて90回以上も転居し、全国を歩き続けた。彼はひたすら絵を描くことのみに神経を集中していたため、部屋は汚れて荒れ放題で、食生活もたいそう乱れていたらしい。それでも、90歳まで長生きできたのはもともと身体が頑強であり、また慈姑(くわい)を毎日欠かさず食べていたからだともいわれる。

 

伊能忠敬でも松尾芭蕉でも、江戸の“歩くノマド”たちは誰もが非常に健脚である。全国を歩き回り、毎日歩き続けるには足腰が丈夫で健脚であらねばならない。北斎もまた、大変な健脚でしかも速足であった。

漂白の浮世絵師である北斎の真骨頂は、①旺盛な好奇心、②足腰丈夫な健脚、③本質を見抜き表現する鋭い感性にある。

 

 北斎の代表的な浮世絵といえば、霊峰富士山を題材に描いた大判錦絵による最高傑作「富嶽三十六景」がある。この作品は主板36図、好評により追加された10図を加えた計46図より成っている。初版は文政36年(1823年)に制作を開始し、天保2年(1831年)に開版され、同4年(1833年)に完結した。

 

なかでも巷間よく知られた代表作は通称「赤富士」と呼ばれる「富嶽三十六景 凱風快晴」と、ゴッホを始めフランスの後期印象派の画家たちに大きな影響を与えたといわれる「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」である。北斎がこれらの絵を描いたのは70歳を過ぎてからのことであった。

 

北斎は霊峰富士を描く時、最適の見晴らし(viewpoint)を求めて富士山のまわりを速足で歩き回り、気に入った場所(viewpoint)を見つけたらその場に立ち尽くし、富士を飽きるほどじっと眺め尽す。そして、また他の場所に移り、ただひたすら歩き続けた。そうしてあらゆる方向・方角の富士山を描いたのである。

 

とくに、快晴の空に真っ赤に燃えている富士山を見たときは、その神々しさとあまりの素晴らしさに感動し、浮世絵師としての魂が強烈に震えた。何度も富士山を見慣れた北斎にとっても、これだけ感動的な赤富士を見たのは初めての体験であった。

 

北斎が富士を描くときは、他人がちょっと真似のできない独特のやり方である。感動的な赤富士を見たときも、普通の浮世絵絵師ならばその印象が脳裏に残っているうちにその場で写生して後で記憶を辿りながら本絵を描くだろう。

しかし、北斎はそのようなやり方をしなかった。彼は絵筆も写生帳も捨てて、時の経過と共に刻々と変化する富士の姿や肌の美しさを、まるで脳裏に焼き付けるかのように頭に刻み込むことに精神のすべてを集中した。

写生することで強烈な感動や精神の集中が損なわれることを北斎は恐れたのである。彼は、ただ一心に富士を見つめ続けることに没頭した。

 

北斎独特の「精神の写実主義」ともいうべきものが、「富嶽三十六景 凱風快晴」には表現されている。それはもう一つの代表作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」にもはっきりと見られる。富士山を遠景に手前の海の圧倒的な波頭がいまにも崩れかかる、その瞬間を描いた風景は、一見すると大げさにデフォルメした抽象表現のようにしか見えない。

 

しかし、これこそが、精神の写実主義とも言うべき北斎独特の富士の描き方である。精神を集中して感動的な風景を見続けることにより、その風景の本質を掴み取り、それをダイナミックに表現する北斎の「精神の写実主義」は他の浮世絵師には決して見られない天才的なものが感じられる。

 

 北斎は終生これで満足するということがなかった。晩年になってからも、彼は「90歳を越えたらさらに画風を改めて、100歳を越えたら、画業を改革することだけを願う」と語ったと伝えられる。90歳で亡くなるまで絵の題材を求めて全国を歩き続け、文字通り生涯現役を貫いた天才的な浮世絵師、“歩くノマド”であった。

全国を歩いて学問を修め、数々の発明を成した破天荒の「平賀源内」

 

 江戸時代の“歩くノマド”には多彩な才能をもった素晴らしい人物が数多い。測量技師の伊能忠敬、俳諧師の松尾芭蕉、戯作者の山東京伝、浮世絵師の葛飾北斎などユニ-クで魅力的な人物が数多く上げられる。

彼らはあり余る才能と行動力の持ち主である。それ故に、通常の常識では計り知れない、封建社会の枠内に収まりきれない人物たちである。それらの中で、江戸一番の破天荒な人物を上げよといわれれば、「平賀源内」(1728~1779年)はその筆頭に上げられるだろう。

 

源内は、若い頃に遊学・留学のために長崎・京都・大坂・江戸など全国を歩き続け、本草学・儒学・国学・医学・蘭学・物産学・博物学・鉱山学など様々な学問を学び、また量程器(歩いた距離を測る器械)・磁針器(方角を図る器械)・寒熱昇降器(温度計)・エレキテル(静電気発生装置)・寒暖計・火浣布(かかんふ、石綿布)などユニ-クなものを数多く発明して人々を驚かせ、さらに学問や発明のかたわら戯作・談義本・浄瑠璃・油絵などを創作して文芸活動でも活躍した

 

。まさに彼は「日本のレオナルド・ダ・ビンチ」と呼ばれたように、あらゆる学問分野に精通し、それらを横に渡り歩いた「学問ノマド」「知識ノマド」というべき存在で、独創的な才能と自由奔放な行動力を発揮して多彩に活躍した。

 

源内は「古今の大山師」と呼ばれたように、秩父山中の鉱山開発や秋田藩内の銀山・銅山の開発を始め、江戸を留守にして諸国の鉱山を実地検分のために歩き回り、東奔西走の大活躍をした。とくに鉱山開発に熱心な秋田藩では、領内を隈なく歩き回って銀・銅・亜鉛などの鉱山開発に従事しただけでなく、秋田洋画の先駆者・小田野直武(秋田藩士、1749~1780年)の非凡な画才を鋭く見抜き、江戸に呼び寄せて洋風画法を学ばせ、有名な「解体新書」の刊行に際しては付図を描くチャンスを与えたのである。人物や才能を見抜く独特の眼力を持った伯楽として、その才能を遺憾なく発揮している。

 

源内は、単に常人を超えた才能や行動力に恵まれていただけではない。彼の生き方そのものが社会の常識に収まりきらない破天荒なものであった。男色家であったために生涯にわたって妻帯せず、夏バテ防止のために土用の丑の日にウナギを食べる習慣を広めるキャッチコピ-を考えたり、大名や富豪から莫大な資金を提供してもらった金山の開発に失敗して多額の借金を作ったり、「非常の人」「絶倫の奇才」であるがゆえに数多くの逸話やエピソ-ドが残っているが、何よりもかれは世間体や常識に縛られない破天荒の自由人であった。

 

「浪人の心易さは、一箪のぶっかけ、一瓢の小半酒、恒の産なき代りには、主人という贅(むだ)もなく、知行という飯粒が足の裏にひっ付かず、行きたき所を駆けめぐり、否(いや)な所を茶にして仕舞ふ。せめては一生我が体を自由にするがもうけなり」(平賀源内著「放屁論後編」)

 

 源内は、これだけ多彩な才能を持ちながら世の中には必ずしも受け入れられなかったこともあって、その晩年は生活が荒れ、他人との口論や諍いもしばしばで、ついに安政8年(1779年)11月12日に、居合わせた男二人との口論の末に乱心して殺傷してしまい投獄された。

 

そして、それから1週間足らず後の12月18日に獄死した。享年52歳であった。

友人の杉田玄白(解体新書を翻訳した蘭学者)らの手によって葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑も遺体もないままの寂しい葬儀となった。玄白は、早くから源内の非常な才能を見抜き理解した友人だが、その無念な最期を惜しんで彼の墓碑に次のような文を記した。

 

杉田玄白曰く「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常な人よ、非常な事を好み、行いもこれ非常であったが、何んで死まで非常なりや)

 

せめて最期の時だけは畳の上で普通に死んで欲しかったという玄白の痛切な気持ちが吐露されている。

 有り余る才能を発揮して様々な分野で活躍し、波瀾万丈の人生を送った源内だが、彼が生涯にわたり一貫してこだわり続けたのは「本草学」(ほんぞうがく)であった。本草学はもともと中国に由来する薬物に関する学問で、日本には古く奈良時代に伝えられたが、江戸時代においてもっとも盛んであった。貝原益軒の「大和本草」、稲生若水の「庶物類纂」、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」などの啓蒙書が現われ、西洋の博物学の影響もあって江戸時代に本草学は大いに発展した。

 

源内の家はもともと高松藩の足軽身分の出身といわれる。源内は、少年時代にすでに藩医の元で本草学を学んでいたが、宝暦2年(1752年)に1年間長崎に留学して本草学や蘭学・医学・オランダ語などを学んだ。

蘭学・医学・オランダ語は完全に修得するまでに至らなかったが、本草学だけはその後も京都や大坂に出て研鑽を積み、宝暦6年(1756年)に江戸に出て朝鮮人参の研究で知られ、人参博士と呼ばれた本草学者・田村藍水の元に弟子入りして、彼から直接指導を受けて本草学を本格的に学んだ。やがて源内はめきめきと頭角を表し、師匠の藍水と共に人参の研究を行い、朝鮮人参に対抗して国産人参の開発に取り組み、人参の効用をいろいろ研究した。

 

 源内は、田村藍水の塾でもアイデアマンの本領を発揮し、斬新な発想から次々とユニ-クなアイデアを提案した。その一つが薬物・物産会の開催である。それまでにも、一門の枠内での小規模な物産会は行われていた。しかし、源内のアイデアはそれまでのとは大きく違っていた。一門の枠にこだわらず全国からさまざまな薬物・物品を求めて、誰もが自由に参加できる全国規模の物産会を開催することであった。

 

源内が物産会を開催する目的は、外国から輸入される高価な、珍しい物産を国産化できないか。また国内でも地方に行けば、結構珍しい薬物や物産が発見できるのではないか。全国からさまざまな薬物や物産を集めて物産会を開けば、新しい薬物の発見やそれらの国産化に大きなきっかけとなり、それは国益に適うのではないかという点であった。この国益という考え方は、意外にも源内の一貫した重要な行動原理であった。

賀茂真淵の国学思想の影響もあったといわれるが、源内は諸国を遍歴し、鉱山開発に従事しているうちに資源ナショナリズムのような考えを抱いていたのかもしれない。

 

源内は、宝暦12年(1762年)に第5回物産会「東都薬品会」を自ら取り仕切り、江戸・湯島で開催した。これは日本最初の博覧会ともいうべきもので、江戸で大評判となり、本草学者・物産学者「平賀源内」の評価を一挙に高める結果になった。江戸での評判を聞き及んだ高松藩は、源内を家臣に再度召し抱え、待遇も引き上げた。

 

しかし、もともと宮仕えに向かない源内は、学問に専心したいとの理由からやがて辞職を申し出た。この申し出は聞き入れられたが、ただし藩から「仕官御講」(他藩への仕官はまかりならぬ)という厳しい条件が付けられた。もともと宮仕えする気のない自由人・源内は、むしろこれで自由になったと喜んだほどだ。

 

ところで、源内が主宰した第5回物産会・東都薬品会では、さまざまなユニ-クなアイデアが採用された。全国からできる限り多くの珍しい薬物・物品を集めるために、引札というチラシを全国に配り、また18国25カ所に取次所を開設して物品の取次ぎを行い、さらに出品する物品が出来る限り早く、無事に江戸に届けられるよう飛脚の配送制度をフルに活用した。まさに至れり尽くせりで、現在行われている展示場運営のノウハウと宅配便等を利用した物品輸送システムを先取りしたような斬新なアイデアと言ってよいだろう。

 

物産会を終えてから、源内は物産会の研究成果を収めた「物類品隲」全6巻を宝暦13年(1763年)に刊行した。これは本草学者・物産学者平賀源内の本格的な業績となるもので、これにより彼の名声はさらに高まった。

多彩な才能を発揮して活躍した天才的なマルチタレント・マルチプロデュ-サ-であった源内だが、その思想的・学問的な原点は若き頃からこだわり続けた本草学・物産学者にあった。そして、彼が成し遂げた多くの仕事のうちで、もっとも評価が高いのは“歩くノマド”としての本草学者・物産学者の業績である。

 

紀州藩御庭番として各地を遍歴、膨大な著作を残した「畔田翠山」

 
  8代将軍徳川吉宗の治世末期に、「御庭番」という職制が新設された。普段は江戸城大奥御広敷(おおおくおひろしき)に詰めて文字通り奥庭の番をするのだが、しかし時には将軍から直接命令を受けて、諸大名の動静、諸藩の事情、老中以下幕府役人の風聞や評判、世相の動向などの情報収集を行って報告する隠密御用を務めた。吉宗が御庭番を置いた理由は、家康以来仕えてきた伊賀者・甲賀者が忍者としての機能を失って隠密として役に立たなくなったからである。
 
そもそも御庭番の前身は吉宗が将軍に就く前に藩主を務めた紀州藩お抱えの薬込役と呼ばれた役人たちである。彼らは紀州藩で表向きは城内警備の仕事に就いていたが、時には藩主の命令を受けて藩内はもちろん諸藩の動静を探って情報収集する任務に当たっていた。
 
吉宗が江戸に移って8代将軍になると、御庭番は正式に若年寄支配下の幕臣に編入された。御庭番になる家筋は下級武士の出身者が多く、中には実績を上げて上級の幕臣に出世する者もいたが、家系は代々世襲であった。隠密としての御庭番に求められる3つの条件とは、①どんな困難にも負けない強い気力、②峻険な山々を何日でも踏査できる強靭な体力、③1日何十キロメ-トルを速足で歩ける強い脚力である。
 
 江戸後期の本草学者・博物学者でもあった畔田翠山(くろだすいざん、本名源伴存、1792~1859年)は紀州藩の下級藩士の出身であり、藩主徳川治寶から直々に命を受けた御庭番(御広敷添番)でもあった。治寶は文化を愛し学問を大切にした藩主として知られていた。翠山はこの藩主治寶に非常に可愛がられたという。同藩の御庭番は、紀州藩別邸の西山御殿や養翠園の庭仕事や番人を務めると共に、各地を踏査して諸藩の事情を調査・報告する隠密の仕事も兼ねていた。
 
翠山は、若い時から国学・歌学に長じていただけでなく、高名な本草学者として知られる小野蘭山(1729~1810年 「本草綱目啓蒙」の著書)の高弟・小原桃洞(紀州藩士、同藩の本草方、紀州本草学の功労者)に本草学を本格的に学んだ。本草学の基本は、植物採集・自然観察のため深山幽谷でも自分の足で歩き回り実地踏査する、いわゆるフィ-ルドワ-クにある。そのためには頑強な体力と強靭な健脚が求められた。
 
若い頃から紀州藩御庭番を務め、日頃から訓練していた翠山は体力や健脚には自信があったのであろう。彼は、紀伊半島はいうに及ばす畿内全域を歩き回っただけでなく、東は北越・甲信さらには江戸まで足を伸ばし、西は長崎・九州まで広範囲にわたって全国を歩き回り、実施調査している。その目的は、本草学者としての薬物・植物採集・標本収集・自然観察だけでなく、御庭番として諸藩の動向を探る任務もあったであろう。
 
本草学者としての翠山の業績は、やはり地元紀州・熊野・高野・吉野の薬物・植物採集と自然地誌を綿密に実施調査した「紀南六郷志」「熊野物産初志」「野山草木通志・高野山」「和州吉野郡群山紀」などにある。さらに彼は植物研究に留まらず、紀州の水産・動物の生態を広範に調査研究し、それらを水産動物誌「水族志」や魚介図鑑「三千介図」にまとめている。その研究はもはや本草学を超えて博物学にまで及んでいる。
 
翠山は自らの足で歩いて調査するフィ-ルドワ-クを好んだだけでなく、本草学や博物学に関する膨大な書誌・文献資料を収集・精読し、その調査研究の学問的な成果を膨大な著作にまとめている。現在確認されているだけでも、翠山の著作は71部357巻にも上っている。それらの内容は薬物・植物関係だけでなく、昆虫・水産物・鳥獣など動物関係、さらには自然観察・生活風習・年中行事まで、図表や絵図を含めて広範囲に渡っており、もはや本草学を超えて博物学・民俗学の領域にまで広がっている。
 
それらは自ら収集した古今の文献資料を駆使して綿密に考証すると共に、自らの足で歩いて実地踏査した成果を踏まえて調査研究したものだ。翠山の博覧強記ぶりは、同じ紀州出身で在野の博物学者の巨人・南方熊楠を彷彿させるものだ。
 
「翠山は、本草学者一般と同じく、よく採集に出向いて、常に現実を師として、自然や民俗(たみのなりわい)に関心と注意を払っている。その上、『古名録』にみられるように、和漢古今の諸文献を駆使して厳密細心な考証をとげ、文字通り、<名物、多識ノ学>を展開し、古今独歩といってよかろう。
 
質量ともに小野蘭山に優るとも劣らず、むしろ、<名物学>のあるべき方法と態度において、翠山が優るといっても過言ではあるまい。おそらく、幕末における国学や漢字の考証学・文字学、さらに京都・紀州における本草学の伝統を受けついで、日本における<名物学>を集大成した幕末の偉大な学者が、畔田翠山であるといってよかろう。また、日本に産出する自然の産物とその名跡、それらがのせられている文献・考証において、翠山ほど広く深く史的に究めた学者は古今まれであろう。
 
本草学の一分野ともいっていい<名物学>として、日本における最高の水準を示す労作と評することができる。伊藤篤太郎博士が絶賛し、白井光太郎博士がその研究を慕い、南方熊楠翁が、偉大な人物と賞賛しているのも、まことにむべなるかなである」(杉本つとむ編著「畔田翠山『古名録』」)
 
興味深いのは、とりわけ本草学者は仲間同士が互いに緊密に連絡し合い、その絆や連帯も強く、「学問のネットワ-ク」を形成して情報を交換し、盛んに交流していることだ。翠山は師匠にあたる小原桃洞を通じて江戸本草学の中心人物・小野蘭山につながり、蘭山の周りには飯沼慾斎、木村蒹葭堂など当時の本草学者が多数集っていた。
ある意味では、紀州本草学は小野蘭山から派生した系統といってよい。同じ学問の志を共有する仲間同士は、地方に実施調査に行く場合でも、情報交換し合い、行く先々で仲間を紹介したり、助け合ったりしている。
江戸のノマドたちは、権力や組織に守られていない分、仲間同士の連帯や絆は人一倍強く、仲間内のネットワ-クを形成して支えあっていたのである。

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