前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

[涙なくして読めない人物史』(12)人気記事再録/「昭和史決定的瞬間/名シーン』-『1941年(昭和16)12月3日の山本五十六連合艦隊司令長官の家族との最後の夕餉(ゆうげ、晩ご飯)』★『家族六人一緒の夕食で山本も家族も何もしゃべらず無言のまま』(日本ニュース『元帥国葬」動画付)

   

山本五十六の長男が回想する父との最後の夕餉(ゆうげ)

昭和十六年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃。

連合艦隊司令長官・山本五十六が家族に密かに別れを告げるため、瀬戸内海・柱島の連合艦隊司令部から急きょ上京し、東京・青山南町の自宅に寄って、一夜をすごしたのは12月3日である。

5日後に日米戦争を山本が仕掛けることは家族は知る由もなからたが、これが父との最期の別れになるのでは、と長男義正はうすうすと感じていた。

 その日の夕食は異例であった。

妻・礼子は肋膜炎(ろくまくえん)で床にふせていた。

いつも食事は台所横の六畳の部屋ときまっていたが、山本は女中に命じて、「お膳を運びなさい」と礼子の病室に運ばせた。

礼子は起き上がり「こんなかっこうで、すいません」とわびた。

久しぶりの家族六人一緒の夕食が重くるしい雰囲気の中で始まった。

山本は何もしゃべらず、うつむきがちに黙々と箸を動かす子供たちを時々じっと見つめていた。オカシラつきのタイには誰も手をつけなかった。

家族の会話もなく、無言の食事の後、子供たちはすぐ部屋に引きこもった。

義正は父の部屋で目にした、墨で書かれた日米の現状についての書類と、この食事を重ね合わせて、日米戦争の切迫を強く感じて、その夜は眠れなかった。

翌朝、義正はカバンを持って学校に出がける際に、はじめて父の見送りを受けた。

「行ってまいります!」

「行ってきなさい」

義正は父の熱い視線と心を背中にジリジリと感じながら、「決してふりむくな!」「この時の父の姿は一生忘れないだろう」と心に言い聞かせながら歩いた。

義正にとってこれが生きている父を見た最後になった。

義正が父の思い出や家庭生活について振り返って書いた『父・山本五十六1その愛と死の記録』 (光文社・昭和四十四年刊)に描かれた最後の夕餉と別れの名シーンである。

父の戦死に道端で号泣

山本は晩婚で、大正七年(1918)8月、三十五歳のときに、三橋康守の三女礼子と結婚した。長男義正(大正十一年十月生)、長女澄子(同十四年生)、二女正子(昭和四年生)、二男忠夫(同七年生)と四人の子供をもうけた。

山本は海外勤務や艦上生活が長く、家庭は留守がちだったが、子供たちによく手紙を書き、クリスマスカードは欠かさずよこしていた。

子ぼうのうな山本は子供たちにせがまれると「ホイキタ!」と逆立ちをしたり、豆をボンと空中に放り上げてバクッと口で食べたりする芸を見せて喜ばせていた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

<上の写真は得意の逆立ちをする山本五十六(米国勤務時代)>

太平洋戦争が2年目に突入した昭和十八年四月二十日、「自宅に早く帰れ」という連絡で、義正が早退して高校から急いで戻ると、父の親友・堀悌吉(ていきち、退役中将)が待っていた。

堀は一瞬、口ごもり、「山本が前線で戦死した。軍刀の柄頭を握ったままの姿勢で、立派な壮烈な戦死だった。

「明日正式の発表がある」と義正に告げた。

夫の戦死を知らされた妻礼子も、堀が感嘆するほど冷静であった。

喪主をつとめる義正は、頭をさっぱりしておかねばと思い、散髪屋に行ってバリカンでくりくりの丸坊主に刈りあげた。

表に出て歩きながら、急に父との想い出がよみがえり、涙が噴き出した。義正は道端にしゃがみこんで号泣した。

六月五日の国葬では、二十二歳の義正が喪主をつとめ、父の位牌を胸に葬列の中を歩いた。

義正は東大に進み、在学中に志願して海軍に入隊、予備少尉となり、戦後は東大に再び復学して卒業後は、北越製紙に就職した。

義正も父と同じく三十五歳で結婚、二人の子供ができた。

「父ほど真実が語られなかった人は少ないのでは……」との思いから、子供の日に映じた父の姿を記録して昭和四十四年に出版した。感動の書に仕上がっている。

<以上は別冊歴史読本88号「事典に載らない日本史有名人の子供」(2004年7月刊、新人物往来社、174-175P掲載 前坂俊之執筆)

 - 健康長寿

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
知的巨人たちの百歳学(180)記事再録/「巨人政治家、芸術家たちの長寿・晩晴学③」尾崎行雄、加藤シヅエ、奥むめお、徳富蘇峰、物集高量、大野

 2012/12/31  百歳学入門(64) &n …

『リモートワーク/鎌倉カヤック釣りバカ動画日記』★『かって鎌倉海は豊穣の海だった』★『鎌倉沖海上でカヤックフィッシング<ナブラの山をシイラ爆食>★『 厳冬の鎌倉海のカヤックフィッシングでヒラメをゲット!と思いきや大カサゴ!』

鎌倉沖海上でカヤックフィッシング<ナブラの山をシイラ爆食>(20011/8/10 …

『60,70歳のための<笑う女性百寿者>の健康長寿名言集②』★『 よく笑う人間は長生きする』『一笑一若』「一怒一老」クヨクヨしない,死ぬまで勉強』★『老いて輝く。60代までは修業、70代でデビュー、百歳現役』★『1日に10回は感謝するの。感謝は感動、健康、幸せの源なのよ』

  ジャンヌ・カルマン(1875年2月21日ー1997年8月4日、12 …

『オンライン講座/60,70歳から先人に学ぶ百歳実践学①』★『高齢化率は日本 26.6%で世界一、百寿者は6万7824人、90歳以上は約200万人』★『「六十、七十 はなたれ小僧、八十,九十男盛り、女ざかり、百歳わしもこれから、これから』<彫刻家・平櫛田中(107歳)>の烈語!

    2018/04/18 /記事再録 『60, …

『Youtube鎌倉絶景チャンネル・10周年記念』★『鎌倉紅葉の名所・天園ハイキングコースの「獅子舞」へ向かう』(2022年12月10日午後3時-4時)』★『奇跡の森もあと1週間の命』①

  観光ガイドー最高の『モミジの名所」獅子舞が「紅葉谷」になるの­は1 …

no image
百歳学入門(174 )-『生死一如』★『百歳天女からの心に響くメッセージ』―60,70/洟垂れ娘への応援歌」②『105歳小倉遊亀(おぐらゆうき)女流日本画家)『老いて輝く。60代までは修業、70代でデビュー、100歳現役』』●『105歳、最後の長岡瞽女(ごぜ)の②)『すべて神様、仏様のお導き、すべてを受け入れ許すことで自分も救われる』

 百歳学入門(174 )-『生死一如』★ 『百歳天女からの心に響くメッセージ』― …

no image
知的巨人の百歳学(145 )-声楽家・中川牧三(105 歳)-『生涯涯現役/健康長寿法、「好きなことを好きなようにやってきたら、いつの間にか100歳を迎えていました」

    2015/10/13 / 知的巨人たちの百 …

no image
[ オンライン/新型コロナパンデミック研究』★『新型コロナと世界の沈没①―コロナ共存社会は数十年続く』★『コロナ感染者、世界で2000万人突破(8月15日)』★『日本の死亡率は欧米よりなぜ大幅に低いのはなぜか』★『ワクチン開発の国際的な大競争と囲い込み』

  『新型コロナと世界の沈没―コロナ共存社会は数十年続く』  前坂 俊 …

no image
近現代史の重要復習問題/知的巨人の百歳学(158)-『渋沢栄一(91歳)の国民平和外交を潰した関東軍の満州事変の独断暴走が、日本を破滅(戦争)の道へ陥れた。この4ヵ月後に渋沢は亡くなった』

近現代史の重要復習問題/知的巨人の百歳学(158) 明治、大正、昭和で最高のトッ …

鎌倉材木座ウインドーサーフィンチャンネル(2023年3月29日am10)-光明寺裏山からみた鎌倉海で蝶が舞う

鎌倉材木座ウインドーサーフィンチャンネル