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『知的巨人の長寿学』・富岡鉄斎(87)に学ぶーー「万巻の書を読み 万里の路を行く」の超人的な画業

      2015/01/02

 
『知的巨人の長寿学』・富岡鉄斎(87)に学ぶ
 
『創造脳は長生き脳である
 
「万巻の書を読み 万里の路を行く」の超人的な画業―壮にして学べば、老いて衰えず。 老いて学べば 、死して朽ちず

 
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
 
万巻の書にかこまれて、悠々自適の晩年
 
 
富岡鉄斎(18361924(天保7大正13)日本の文人画の最後の代表的作家)は日本が誇りうる数少ない世界的画家の一人である。「ゴヤ、セザソヌとともに十九世紀における世界の三大画家の一人にあげられるべき存在である。近代美術史の1ぺージを書き直さねばならぬ」とまでいう外国人研究者もいるほどだ。鉄斎は、「万巻の書を読み万里の路を行く」を信条としていた。偉大なる画人・鉄斎は生涯一万点を越える南画とその書体は、楷・草・・隷・仮名などいずれもよく、自由自在に書きまくった。いやそれ以上の膨大な作品を残した。まさに、空前絶後ともいうべき超人的な画業である。
 
鉄斎は普通の画家ではない。自らを規定して「私は儒生(儒学を学ぶこと)であって画師ではない。」「南画は本来士大夫が清娯して性情を淘汰するの遊戯であり、その根本は学問にあって、人格をみがかなければその絵には三文の値打ちもない。」「弘法大師が存命ならば、書についてわしとよく話が合うだろう。」とまで、語っている。自信満々で絵よりも書について大きな自信をもっていた。
 
私は30代で鉄斎が気にいって長い間、その創造の源泉を探ってきた。まさしく、彼の創造の秘密は創造脳であり、創造は長寿を作る、創作に熱中していると年など忘れるということだ。
しかも、普通なら晩年も晩年とっくの昔に引退すべき80歳過ぎで、長男に先立たれる不幸にあった。これを克服するために、ますます創造の世界に没頭する。
 
この点が同じく晩年を迎えてわしにも大いに気にいった。
多くの『生涯現役』つらぬいた芸術家、人物を調べてみると、こうしたケースが多い。長生きしようとおもっても長生きできるものではない。命は自分のものであり、自然から与えられたものである。時間を忘れて熱中していると、いつの間にか時間がすぎ、白髪3千丈ならぬ高齢となるが、創造する魂、精神はいつまでも若々しい、老いないのである。その鉄斎流の長寿脳、創造長寿脳をみてみるとー。
 
 とにかく、一万点を越える作品、創造の泉がこんこんと沸いてくるのである。
いったい鉄斉の作品は現在どのくらいあるのだろうか。なにしろ、十九歳のころから九十歳になんなんとする長い間の仕事であり、これに加えて彼の速筆は超人的であっただけに、普通の画家と同等には推測することができない。
その猛烈な書きぷりは・・・
 
以下は「近代の美術」第4号富岡鉄斎(昭和46年(1971)5月号)からの引用だが、「明治二十七年六月、五十九歳の鉄斎で明け方からから翌御前二時ごろまでに大小の絹紙七〇点余りの書画を描いたという記録が残っていも。これは一時間に三枚ぐらいの割である。
 
また明治三十一年八月、六十三歳で、栗谷の金戒光明寺の方丈書院襖絵四枚をはじめ、合計襖一四枚を午前八時からはじめて、午後六時に描き終わったといわれている。
七十歳をこえた鉄斎が明治四十年五月から翌年六月までの一年間に描いた書画は、大は屏風から小は短冊にいたるまで、あわせ313枚であった」
 
鉄斎が生涯に残した作品の数は、1万をはるかに越えたであろう。震災や戦災で半減したと仮定しても、なお数えきれない作品が残されている。、数多くの作品推測される鉄斎作品の実在数の一割にも満たない数しか公開されていないことになる。
 
 鉄斎は専門の職業画家とは数多くの点で異なっている。
①、    決して描き損じや反古をつくらなかったという。
②、    鉄斎は作品のできばえや、体裁などほさして問題ではなかった。
③、    画賛の詩文が曲ったもの、誤字を訂正したり脱字を行間に書き加えたもの、印章を横向きゃさかさまに押しているものさえある。
 
この創作方法は大いに中国的である。あふれんばかりの創作欲からみれば小さなミスや、間違いはどうでもよいともいえる。日本の山水画は揚子江と天竜川との違がある。国土面積、人口とも10分の1という日本のミニサイズ、風土の決定的な違いが、画家のセンスにストレートに反映され、とかく日本の繊細さ、細かさが、神経質さ美徳とされ、おおまかな中国流、中国的と排除される傾向もあるが、これは両国の文化的背景の違いそのものである。
 
鉄斉は作品の出来、不出来については平気なところがあって、出来のよい作品ばかりを世に送り出したわけではなかったのである。独創的、型破り、自由奔放、臨機褒貶が創造の秘訣である。アップルのジョブスも京都で禅を体験してあの自由奔放なアップルをつくったが、どこか鉄斎と通底している。
 
たしかに鉄斎の書は絵と同様、型にはまったうまさではなく、格にはいって格を出、機に臨んでどのようにも自由に変化する鉄斎流である。その書体は、楷・草・転篆刻・隷・仮名などいずれもよく、ときに書画一致の妙趣をみせ、あるときは独立して堂々たる風格を示しているのだ。
 
 儒家としての鉄斎 
 
鉄斎は成人以後について前掲書によると、慶応三年(一八六七)、三十二歳の鉄斎は、蓮月のすすめもあって、画家中島華陽の娘、たつ達と結婚し御幸町姉小路に居を構えた。
 やがて明治二年、東京遷都が行なわれ、鉄斎は天皇の東行に従って東京に至ったが、この留守に妻、達が死亡したので急いで帰洛した。この年『先哲遣事』を出版して学者として名をなしつつあった鉄斎は、「万巻の書を読み万里の路を行く」を信条としていたので、このころからあちこちに旅行をはじめた。
 
明治五年春、大洲藩士佐々木禎三の三女ハルと再婚したが、一か月もたたぬうちに、新妻ひとりを残して、鹿児島への旅に出た。旅行は二か月ほどであったが、各地の風光や産業を視察して、七月帰洛した。この年頼山陽の旧居「山紫水明処」を借りて移り、三年間住んだ。
神官時代
 
明治六年、北海道旅行の目的で東京に滞在中、湊川神社奉職の官命があったので直ちに帰洛、この前後がもっとも頻繁に旅をした時期であった。
明治八年、鉄斎も四十歳となり、学者としての中堅的な存在にまで成長していた。大和の石上神社少宮司として奉職中は家族を京都に残して赴任し、余暇をつくっては歴代の天皇の御陵の実地踏査をした。
 
 明治十四年十月京都の兄が病死し、老母を扶養せねばならなくなったため、鉄斉は辞表を提出、足かけ六年の神官生活をやめて、京都にひきあげた。翌年三月はじめて自分の持家に移った。この住居で八十九歳の天寿を全うするまで四十三年間もくらし、数々の名作を描きつづけた。
 
天子知名
 
明治十九年、鉄斎は京都青年絵画研究会展覧会の学士審査員に。これから七十歳までの二〇年間は、各種団 体や展覧会とも関係をもち、生活はな多忙であった。またこの間、京都市美術学校の教師となり歴史人物の考証学を講義、文筆活動でもいろんな小論文を発表。
 明治三十二年からは公的活動から身を退いた。鉄斎も古稀をすぎ、あまり旅行もせず、もっぱら読書と気のむくままに書画を描く制作三昧の毎日を送った。
 
明治四十年、明治天皇の御下命により、翌年四月双幅を完成して献納した。鉄斎は非常に感激して、「天子知名」の印を刻した。このころになると、鉄斎に揮竜を依頼するものが急増し、これを断わるのが一仕事となった。
 
晩年の栄光 
 
大正四年、鉄斎は八十歳になり養老の木杯を賜わり、同六年帝室技芸員、同八年帝国美術院に任命された。
 
このころが鉄斎にとって最も幸福な時期であった。鉄斎八十三歳の冬、四十六歳の働き盛りである一子謙蔵に先立たれた。鉄斎の落胆は想像にあまりある。それでも気丈な彼は「わしはまだモウロクするわけにはいかんわい。」ともらしていっそう元気に充実した毎日を送り、老夫人をはじめ、寡婦となった寿子と四人の孫たちを扶養するため、精を出した。
 このころ長寿の鉄斎から縁起のよい絵でも描いてもらおうと地方からも申し込みが増えた。画料も高くなっていたが、周囲がそっとしておいてくれない。絹本の密画やあまり大作は手がけず、もっぱら紙本半折などに自由奔放な筆をふるった。鉄斎は大正十一年から大阪高島屋呉服店で毎年展覧会を開き、いよいよ画名を高め、人々を驚かせたでが、大正十三年の大晦日の午後、九十歳の新年をまたずに永眠したのである。
 
万巻の書を読み万里の路を行くー鉄斎芸術の源泉とは
 
万巻の書 鉄斎の芸術は、彼が修めた国学・儒学をはじめとする諸学の中から生みだされたもので、その根源は万巻の書によるところが多い。彼は目にとまる珍籍奇書はもちろん、少しでも興味をひく書籍は、なんでも手に入れた。稀代の書痴である。経済的に恵まれなかった若いころでも、書物や参考になりそうなものの収集には異常な情熱を傾てている。
 
この点も古本マニアのわしと似ていて何とも親近感が沸いてくる。
 
世評を気にかけやりくりをしながらも、欲しい書物を集めることに腐心していたのである。「また毎月開かれる古本市には、早朝から出かけてゆき、並べられたたくさんの本の上をはうようにして見てまわり、少しでも関心のある事項がのせられてある本はポンポンはうり出して、これをまとめて購入するのが常であった」(前掲書)
 
こんなぐあいだから蔵書はどんどんふえて、いつのまにか座右にうず高くつみあげられていた。そうした古書珍籍や由緒あるいろいろの骨董品がところ狭と並ぶ画室の中に、彼は泰然とすわりこんで読書にふけり、かきたい画題を発見しては画筆を運び書画三昧の毎日にあけくれた。
 
鉄斎は「わしは意味のない絵はかかない」といっているが、その「意味」というのは、その画因が古来の書物に明らかにされているとか、世の人の教訓になることなどをさしている。絵を描くためには読書が大変重要な仕事となったわけで、一日のうちに幾回も書庫から画室へ本を抱えこんでくるのであった。
南方熊楠と同じである。
この時代の書庫というのは、木造二階建のべ二四坪ほどもあり、和漢古今にわたり国学書・儒学書、仏典から画学、本草学が、数万点以上も収集されていたという。 
 
大正十一年七月、当時としては珍しい鉄筋三階建の書庫を母屋から離して新築した。ここの屋敷は、以前二軒分だったので間口が二〇間、奥行は一三間もあった。貴重な書籍を保護する目的と書籍に対する深い愛着を物語っている。この書庫は魁星閣(かいせんかく)と命名された。
 
 世の中の古書収集家には骨董趣味の人が多く、貴重なる書物を独占し、いたずらに死蔵しているが、鉄斎はそうした愛蔵家とはまったく異なっていた。彼の古書収集は研究上の必要からなされたもので、古書を相当な速さで読破していた。本の中に、感想や関連のある事項を書きこんだり、ときには表紙に見出しのようなものを書いたりはりつけていた。
 
 彼の筆録は山ほどあったが、その大半は古書からの抜粋で、平素からの心がけで、これらの抜粋の中から先賢の詩文を作品中に引用し、前人の図柄や画因を自分の作品として再現していた。
 
 万里の路
 
 鉄斎が旅行家であったことは年譜の中に明らかで、その回数などとても数えきれないほどである。彼の最初の旅は、安政六年(天完)越前方面への旅行のようで、これは一説には大獄の後難をさけての旅だったともいわれている。
 
晩年の画風の境地
 
鉄斎は「わしの絵は盗みがき」といっている。そ特定の師をもたない彼の絵が、みょう見まねで、全くの独学によって習得した。唐・宋・元の名画、明・清の文人たちの筆意にならい、狩野派・大和絵・琳派から浮世絵・大津絵にいたる流派に研究をした。前人の筆の跡こそわが師である。模写・臨写は鉄斎の有力な画学法だった。
 
鉄斎はおもしろいもの、すぐれたものはなんでも摂取する、こうした心がけで日常鑑定に持ちこまれてくる作品や訪問先で見る所蔵品はもちろん、旅行中、町の骨董屋の店頭にあるものでさえ、参考になるものは直ちに模写、筆写しアレンジされて、完全にものにした。
 
「心筆一如の境地――わしは今では眼を閉じていてもなんでも描ける。」
 
六十歳から七十代になると、作品は描線はいっそう太く、個性の表出をみせはじめた。彼はこのころに至ってなんでも描けるという自信をつけ、心筆一如の境地に到達しかけたのであった。
晩年の鉄斎は「わしは今では眼を閉じていてもなんでも描ける。」と語っているが、七十歳をすぎてからである。
七十歳になっての心境は「晩成の大器」であった。彼はこまめになんでも手がけて作ったりしたが、無器用な部類に属していた。小器用でなかったところに大きく成長する資質が秘められていた。
 
晩期の画風
 
八十代も半ばを過ぎ最晩期になると、さすがに体力的な衰えを食いとめることはできなかったが、美感覚はと磨ぎすまされ、筆力は冴えを増していった。

「画境は一段と進み、紙本に青墨や赫墨を真黒くなるほど重ね、強烈な墨色のうちに限りなき豊潤さを表現し、ことに墨を基調としながら、その中に朱や緑青、代楯などを点じた作品は美しい。世間一般、年をとれば枯淡な境地にはいるものだが、八十の坂を越えて老境にはいり、かえって艶やかな画境を示し、その描き出す線や点や奴は晩年にいたるほどたくましく、光輝を増し自由奔放になっていった。これは老いてますます学んだ不断の精進の賜物で、その成果は驚異といわねばなるまい』(前掲書)。

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