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日本リーダーパワー史(666)昭和の大宰相・吉田茂(89歳)の晩年悠々、政治・長寿健康法は『マッカーサーと昭和天皇の会談が13回、 吉田は合計75回も面会』●『「長生きの秘けつ」は「そりゃカスミを食うこと、いや人を食うことだな」

      2016/02/12

日本リーダーパワー史(666)

昭和の大宰相・吉田茂(89歳)の晩年悠々、政治・健康法は・・・

<『別刷歴史読本』「晩年長寿の達人たち」2007年11月号より>

★『マッカーサーと昭和天皇の会談が13回なのに、

吉田は合計75回も面会しており、2人がいかに

強い信頼関係で結ばれていたかわかる。

●「長生きの秘けつ」を聞かれて、「そりゃカスミを

食うことだよ、いや人を食うことだな」

前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)

・・65歳で総理大臣に

65歳で総理大臣になった吉田茂は遅咲きである。日本が太平洋戦争で負けなければ、吉田は一介のへそ曲がりの外交官として生涯を終えていたかもしれない。敗戦という未曾有の国難に一時、囚われの身だった吉田は一挙に歴史の表舞台に返り咲き、65歳で宰相になった。普通ならばとっくに引退し、第二の人生に入っている年齢である。

もともと政治への野心はなかった。公職追放された鳩山一郎から自由党党首の後事を託された際、吉田は「人事に口をはさむな」「やめたいときはいつでも辞める」など虫のいい条件を出していやいや引き受けた。

昭和21年(1946)5月、第一次吉田内閣が発足したが、吉田の心境は正にマナ板にのった鯉であった。鈴木貫太郎前首相からの忠言「いさざよく、負けつぶりをよくすること」を心に刻み「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」と外交に全力をあげた。

新たに支配者となったマッカーサーとさしで5分の外交を展開、そのユーモアとジョークで、マッカーサーの厚い信頼を勝ち獲った。マッカーサーと昭和天皇の会談が13回なのに対して、吉田は合計75回も面会しており、いかに強い信頼関係で2人が結ばれていたかがわかる。

強力なリーダーシップと戦略で吉田政権は七年余の長期におよび、この大混乱期をみごとに乗り切り、廃墟と飢餓の中から経済、社会を奇跡的に再建し、高度経済成長へスタートする基礎を築いた。当時、「全面講和か」「単独講和か」で国論は真っ二つになった。今、振り返ってみると、吉田の「早期単独講和」、日米安保条約締結の決断がなければ、日本の独立はもっと遅れ、こんなにも早く経済大国になれなかったことは自明である。

当時の進歩的文化人は「全面講和論」であった。ソ連、中国、社会主義国は、サンフランシスコ講和条約に反対し、それに同調した国内世論、新聞、雑誌の論調も『全面講和論」ほぼ一色であった。吉田ワンマン政治と単独講和、日米安保条約締結は売国奴として非難ごうごうであった。

筆者は昭和18年生まれなので、講和会議はしらないし、12歳の中学生の時の60年安保闘争を白黒テレビで見て、このと是非はわからなかったが「そのすさまじい反対エネルギー」「革命前夜か」という雰囲気に圧倒された。

その後、物事の分別がつく年齢になり東京の『坊っちゃん大学」にすすんだが、大学の講義内容はマルクス主義経済学、社会、歴史学が中心であった。世界の社会・経済は資本主義から社会主義へ進化していくものであり、資本主義は悪であり、社会主義は善であるとする単一的な考え方(これを進歩的という)が横溢していた。マスコミの論調もほぼこの「進歩組」に同調しており、当然、学生も同じ行動に走るものが多かった。

世界は米ソ冷戦の激化で、キューバ危機(1962年)を頂点とする『全面核戦争一歩手前」まで行った。米が主導する資本主義体制(自由主義陣営)対ソ連主導の社会主義体制(社会主義独裁体制)との戦いである。鉄のカーテン、ベルリンの壁、ハンガリー動乱、スターリンの粛清、ベトナム戦争その他数々の米ソ超大国の反対派への弾圧、虐殺、暴走、悪の戦争、矛盾、失敗が相次いだ。

半世紀以上経過した今、米ソ超大国の行動の軌跡をみてみると、どちらの陣営に属したほうがより個人の自由と人権が保障され、経済的に発展することができたかは、すでに結果によって証明されている。『早期単独講和』の吉田の全面勝利である。

なぜ、進歩的文化人、進歩的マスコミはあくまで、あの時点では不可能な「全面講和論」にこだわったのか。そこにはアンチ帝国主義、資本主義としての共産主義ソ連、中国へのへの過度な幻想、期待があった。冷徹な政治的リアリズムの眼、思考力を欠いており、過度の社会主義的な幻想を抱いていたのだ。

ソ連、中国の共産党一党独裁、階級闘争の名のもとの大粛清、弾圧k、極刑、人権無視の『牢獄国家の』実態(いまもこれは続いており、その点では共産主義独裁旧弊害国家なのである)については目をつぶり、または、知ろうとせず、自由主義的、帝国主義的ではあっても、議会制民主主義、資本主義国がよりましな政治体制であることが理解できなかったのである。

吉田ワンマンの判断が間違ってなかったことは、その後の歴史が証明している。その点について、吉田は「終戦後の大混乱を上手く乗り越えられたのは、天皇陛下と、日本をよく理解してくれたマ元帥のおかげである」と常々語っていた。

・悠々自適の生活

昭和29年12月、「造船疑獄」で吉田は政権を投げ出した。すでに76歳。神奈川県大磯の三万六千坪という広大な邸宅「海千山千楼」に引っ込んで、悠々の晩年を送った。その名の由来は「訪問者が海千山千の連中ばかりなので……」と彼一流のユーモアで煙に巻いた。

退陣しても、政権運営している吉田学校の教え子たちから、〝元老″に祭り上げられて、大磯詣で政治家、要人は引きも切らず、その〝リモート.コントロール″が話題となった。

この大邸宅の効用について「このごろは外国からのお客さんを接待するものがいなくなったからね。以前は三井や住友がやっていた。それをこちらでやっているのだ」と風刺漫画家・清水崑に話している。

二階の居間兼書斎からは、吉田の大好きな富士山と相模湾がパノラマのように一望できた。当時珍しかった曲面ガラスを使用したサンルームもあり、どの部屋からも富士山が見えるように設計してあった。この広大な邸宅で、政治の行く末を見守りながら、後添えの『こりん』と住み込みの執事、コック、看護婦ら六人の使用人と悠々自適の生活を送っていた。

トレードマークの和服、白足袋、葉巻は相変わらずで、新聞は毎日『ロンドン・タイムズ』に目を通し、愛読書は英国のユーモア小説や捕物小説『銭形平次』、食事ではウイスキーとビーフステーキなどを欠かさなかった。

吉田は長い外交官生活から美食家と思われがちだが、そうでもない。ただ、食には彼一流のこだわりがあった。アルコールは日本酒、ウイスキー、コニャック、ワイン、シェリー酒など何でもござれ。ただし、ウイスキーはジョニーウオーカーの黒、シェリー酒はスペインもの、ワインにもうるさかった。

昔は日本酒一点ばりだったが、酒の肴はウニ、カラスミのたぐいはだめ、サシミも厚いものより薄手を好んだ。八十歳を過ぎてからは、その日本酒もプツツリやめて洋酒一編とうになった。好物は目玉焼き、豆腐、湯豆腐、はんぺん、いもの煮っころがしなど。

吉田の長寿は、ひとえにその気概にある。大久保利通、岳父の牧野伸顕(宮内大臣)の家系からくる国士、臣茂と揮ごうした愛国者としての強烈な国への思いである。

「長生きの秘けつ」を聞かれて、「そりゃカスミを食うことだよ、いや人を食うことだな」

西ドイツのアデナウアー首相の「常に何かひとつ、しゃくの種をもっていることこそが、長寿の秘訣だ」との言葉も愛し、「長生きの秘けつ」を聞かれて、「そりゃカスミを食うことだよ、いや人を食うことだな」と冗談を飛ばしては大笑いしていた。

1963年(昭和38)年10月、85歳となった吉田は政界から完全に引退した。

しかし、〝大磯参り″が政界の流行語になり、静かな楽隠居というわけにはいかなかった。依然、吉田は日本での最高実力者であった。難しい外交問題が最後には持ち込まれ、吉田も老体に鞭打って奔走した。

昭和39年2月には、日中貿易、政治懸案を処理するため、首相の特使として台湾に飛び、蒋介石とさしで会談して解決した。その二ヵ月後の四月五日、マッカーサーが亡くなった。周囲が海外旅行での健康を心配する中で、直ちに娘の麻生和子を介添えとして米国に飛び立って葬儀に列席した。何が何でも、「マ元帥の恩義に日本を代表して感謝しなければならぬ」との一念だった。

 吉田のジョークは終生変わらなかった。

昭和39年11月、赤坂離宮での観菊会に出席。昭和天皇から「大磯は、暖かいだろうね」とのお言葉を賜った。「はい。大磯は暖こうございますが、私の懐(ふところ)は寒うございます」と答えると、天皇はキョトンとしたまま。従者の説明に天皇もやっと意味を了解し、二人は大笑いになった。

最晩年の一日のスケジュールは

朝十時に朝食、ひと休みして庭を散歩、付き人と江ノ島などをドライブし、午後一、二時の昼食は来客との会食、昼寝一時間、夕方散歩、夕日を楽し楽しむ。七時ごろ夕食、九時頃までテレビを見る、午後十時前に就寝となっていた。

吉田はフロ好きだったが、晩年は看護婦たちが心臓の悪化をおそれて入れさせなかった。主治医が、腰をかけたまま両方から持ちあげられるイスに吉田をすわらせ、そのままフロの中に入れたこともあった。

同じ年、人に支えられて歩くのをきらった吉田は階段の上り降りもできなくなった。そのため、邸内にエレベーターを作ることになった。しかし、「来客がうるさくて失礼だ」と吉田がしばしば工事を中断させ、ついに完成しないまま亡くなった。

同じ年の1966年(昭和41)、吉田は心筋梗塞で入院したが、娘の和子が見舞いに行って、冗談交じりに、「ヤーィ、とうとう腰が抜けちまったじゃないの」と、からかった。すると、吉田はベッドに臥せたまま「なアに、腰が抜けたんじゃない。やっと、腰がすわったんだ」と言い返して、二人して大笑いになった。

ついに最晩年が訪れた。気分のいい朝は太平洋を望む別邸の高台まで「こりん」と散歩し、ベンチに腰かけて、しばらく相模湾や富士山を眺めながら時間を過ごした。岳父の牧野伸顕(大久保利通の次男)は昭和20年に88歳で亡くなっており、「やっと親父の齢に追いついたな」ともらした吉田は1967年(昭和42)年十月二十日に亡くなった。

享年89歳。戦後初の国葬で送られた。

 

(参考文献)

麻生太郎『吉田茂の流儀』(PHP研究所2000年)

『週刊読売』臨時増刊(昭和42年11月15日号「国葬吉田茂」)

 - 人物研究, 健康長寿, 現代史研究

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