前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

歴史張本人の 「目からウロコの<日中歴史認識>講義」①袁世凱顧問の坂西利八郎の日中親善・対立戦争の歴史を語る①

      2015/01/01

  

 

 

 

日中両国民の必読の歴史張本人が語る

「目からウロコの<日中歴史認識>講義」①

  


袁世凱の政治・軍事顧問となった坂西利八郎

(在中国25年)が「日中親善・衝突・対立

・戦争の歴史ネジレ」について語る①

 

<義和団の乱以降『日支親善』は頂点に達した>

 

 

 

以下は坂西利八郎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E8%A5%BF%E5%88%A9%E5%85%AB%E9%83%8E

 

1927年(昭和二)二月十八日に「大阪毎日新聞社講堂」で行った講演の全文である。

<「日中友好の捨石、秘録 土肥原賢二」芙蓉書房 昭和47年」に収録>

 

ここでは坂西が日中間の日清戦争からの対立、戦争、親善、対立、戦争を繰り返した歴史を20年間以上、現場にいて苦労した人間として、その対立の原因、国家体制の違い、日本人と中国人との民族性の違い、認識、行動のギャップについて、率直に語っている。現在の日中対立のルーツを知るうえで、また「中国の行動パターン」はこれを見ると、少しも変っていないので、今後、いかに付き合っていくべきか、これまでの失敗の教訓を知るためにも大いに参考になる講演録である。

 

 

日本に帰りまして私は、只今御紹介をいただきました如く、支那(中国)に勤務いたしますこと二十有余年になりますが、ただ長いばかりで格別、耳新しいことを申上げるだけの材料は持ちませんが、ただその間に、体験いたしましたことがもし御参考になりなれば、まことに仕合せと思いきて臆面もなくここに罷り出た次第でございます。

 

その上、私は不言実行ということを自らモットーといたしておりましたので、お話することが極く下手でございます。或はお判にならんことがあるかも知れんと思いますが、その点は御容赦を願います。殊に内地へは度々帰りはいたしましたけれども、自然日本のことがうとくなりました結果、或は案外お聞き下さる方が、すでに十分御承知のことを申上げて蛇足に類ることがあるかも知れません。

 

内地のことを知らないということは、甚だお恥しいわけでございますけれども、実は今日も或方とお話したのでございますが、東京へ帰りまして居酒屋というて非常に笑われました。近頃の人は、居酒屋なんということをいったってわかりはしないというから、それでは何というかと申すと、それはバーだという(笑声)

 

そういう時代遅れの人間でございます。また、この間、呉(広島県)にまいりまして、もう失策をいたしました。手紙を書く紙を買おうと、ある小さな店へまいりまして、手紙を書く紙をくれと申しましたが巻紙ですかという。巻紙でなくペンで縦に書く紙をくれといったが、なかなか店のものがわかりません。

 

そうこうしておると、奥から娘の子が出て来まして、それはお前さんレターぺーパーとだよといわれまして、初めて気がつき、それだというて買い得た(笑声)というような人間でございますから、或は皆さまの十分御承知のことをくどくど申上げるかも知れません。

 

 

 で何のために二十有余年も支那(中国)におったかということを、まず簡単に申上げたいと存じます。それを申上げますと、最近の支那の歴史がわかりますので、支那の前清時代-清朝時代から今日に至るまでの変遷を極く簡単に申上げて諸君の御参考に供したいと思います。

 

 

変法自

 

二十有余年と申しますと、実は最初まいりましたのは明治三十五年(1902)清朝の末の義和団事変

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

 

 

の後でございました。この二十五年の歴史を五分か十分で申上げるのでございますから、極力、かいつまんだことでありますが、ここに1つのコツがあります。そのコツは何かと申しますと、それはわれわれがよく

耳にもし、また口にもいうて、この頃ではいいあきてしまった言葉でございます。

 

それはすなわち「日支親善」(日中友好親善)

 

支那のことを論ずると、「日支親善」ということを申しますが、この「日支親善」の歴史浮き沈みの歴史とも申しますか。これに1つの歴史がございます。

 

それは御承知の如く、日清戦争すなわち明治二十七、八年(1895)の戦役というものは、支那と戦さをしたのでございますから、日支親善の全く出来なかかった時代であります。この時に支那は初めて日本からぶち破られて目がさめたのであります。

 

その時の支那の記録を見ますと、最初は日本は一弾丸黒子の島国である。日本何をなすものぞという考えをもって、日本と戦さをしたのであります。殊に李鴻章の如き人は、そういう考えを以てやったらしく、その様に記録に残っております。しかるに支那は負けた。

 

李は馬関(山口県)まで来て平和条約を結ばねはならんという破目になったのでございます。その李鴻章は、日本に負けたのが残念さに、ロシア、ドイツ、フランスの三国を引入れて三国干渉をやり、その結果、遼東半島の還付という問題が起したのであります。

 

日本は戦(いく)さに勝った。支那は負けた。そこで日が覚めてその当事支那で総督をしておりました

袁世凱

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E4%B8%96%E5%87%B1

 

 

張子洞、

http://www46.atpages.jp/mzprometheus/%E4%B8%AD%E5%9B
%BD%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2/7904

 

 

劉坤一

https://www.google.co.jp/#q=%E5%8A%89%E5%9D%A4%E4%B8%80

 

 

などいう人が、これではならん、」どうしてもこの支那二百年来の古い制度を改めて、支那の改革をしなければならんということに気づいたのであります。

 

その時かの有名なる彼等の連名上奏なるものがありまして、その連名上奏ということに基いて「変法自法」というものを行うすべてのものの改革をやることを建議しました。

 

それは何故「変法自法」ということをやらねはならんかというと、支那は御承知の如く、康(こうき)皇帝、乾隆皇帝という非常に英明な君主が長い間、各六、七十年の間位におりましてすべての制度を決定したのであります。

 

それでありますから、前清時代のすべての制度というものはまるで重箱に入れた如くちゃんと極っておりまして、上は一総督、巡撫、下は一兵卒の月給から仕事にいたるまで、すべて『大清会典』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B8%85%E4%BC%9A%E5%85%B8

 

 

 

という書物の上に規定されたものであります。

 

そういういい制度を改めて支那を強くしなければならんと唱えたのであります。しかるにそれを唱えて、すべて改革をやらんとしている際に、かの義和団の事変が起ったのであります。

 

日本は、二十七、八年すなわち日清の役には支那の軍を打ち破り、敵味方となりましたが、明治三十三年(1900)の義和団の時には、非常に公明正大な態度をとりましたので、正義の軍はすなわちこれだぞということを北支那の支那人に示したのであります。

 

そこで支那人(中国人)は考えまして、自国の改革を計るには日本にならうのが一番いい方法であるということをその時気づいたのであります。何しろ文字が同じである。同じ外国語を学ぶにしても日本語は支那人の頭脳に入り易い。

 

またその他の文物制度を自分の国へ移すにも字が同じであるからやさしいということから、すべての範を日本にとることに極めたのであります。ちょうどその時-明治三十五年-に、私は支那へまいりまして、そうして三十七年に衰世凱がー北洋通商大臣直隷総督、すなわち北京の中央政府の所在地の殆んど対外政策、対外事務、外交事務を背負って立ってやっているところの衰世凱の幕中に入ったのであります。すなわちこの時が『日支親善』の一番頂点に達した時でございます。

 

                                                            つづく

 

 - 現代史研究 , , , , , , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

●『徳川封建時代をチェンジして、近代日本を開国した日本史最大の革命家・政治家は一体だれでしょうか講座②』★『国難の救世主「西郷隆盛のリーダーシップはー「敬天愛人」「命も名誉も金もいらぬ」「子孫に美田を残さぬ」が信条』★『これだけの大民主革命をやり遂げた政治家は日本史上にいない』

  2017/10/29    …

『オンライン講座/百歳学入門(236)★『人生/晩節に輝いた偉人たち②』★『日本一『見事な引き際・伊庭貞剛の晩晴学②『「事業の進歩発達を最も害するものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈(ばっこ)である。老人は少壮者の邪魔をしないことが一番必要である』★『老人に対する自戒のすすめ』 

2010/10/25  日本リーダーパワー史(102)記事再録 &nb …

★スクープ写真『2011年3月11日福島原発事故約1ヵ月前の『鎌倉カヤック釣りバカ日記公開』★『Severe winter in KAMAKURA SEA』と『老人の海』=『ラッキー!大カサゴのお出ましじゃ』

 前坂 俊之(ジャーナリスト)   『三寒四温』とはよく言ったものよ- …

no image
『オンライン講座/百歳学入門(54)』★『玄米食提唱の東大教授・二木謙三(93歳)の長寿法『1日玄米、菜食、1食のみで、食はねば、人間は長生きする』★『二木謙三博士の健康十訓ー①食べること少なくし、噛むことを多くせよ。②怒ること少なくし、笑うことを多くせよ③言うこと少なくし、行うことを多くせよ④取ること少なくし、与えることを多くせよ⑤責めること少なくし、ほめることを多くせよ 』

  2012/11/05    …

no image
国際ジャーナリスト・前田康博氏の動画ニュース解説「昇竜中国と落日日本・APEC,安倍‣習会談の真相とは?」(30分)

                          …

no image
梁山泊座談会★『若者よ、田舎へ帰ろう!「3・11」1周年―日本はいかなる道を進むべきか③』『日本主義』2012年春号

《日比谷梁山泊座談会第1弾》 超元気雑誌『日本主義』2012年春号(3月15日発 …

no image
『F国際ビジネスマンのニュース・ウオッチ②』3・11から1年ー「ニューヨーク・タイムズ」が日本の戦後民主主義に落第点をつけた

『F国際ビジネスマンのワールドニュース・ウオッチ②』 <3・11福島原発事 …

no image
★5 日本のメルトダウン(534)『福島原発事故から3年ー北澤宏一×黒川清×畑村洋太郎× グレゴリー・ヤツコの座談会』

   日本のメルトダウン(534)   3・11- …

『オンライン講座・文明は死の行進を加速している』★『米先住民の警告ー最後の木が切り倒され、最後の川が汚染され、最後の魚が捕まえられてはじめて、人はお金は食べられないことを知るだろう』★『新型コロナ発生の原因は地球環境を破壊した現代文明、炭素社会、強欲資本主義の結果である』

2020/10/06 『オンライン/新型コロナパンデミックの研究・再録 …

no image
日本リーダーパワー史(801)ー『明治裏面史』★ 『「日清、日露戦争に勝利』した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、インテリジェンス⑰杉山茂丸の『伊藤博文を日露戦争開戦の死者第一号にする』

 日本リーダーパワー史(801)ー『明治裏面史』★ 『 「日清、日露戦争に勝利』 …