片野勧の衝撃レポート(64)戦後70年-原発と国家<1955~56> 封印された核の真実(上)
2015/10/27
片野勧の衝撃レポート(64)
戦後70年-原発と国家<1955~56> 封印された核の真実(上)
平和利用で世論を変えよ(上)
片野勧(ジャーナリスト)
5年以内に原発を建設
唯一の被爆国の日本に平和利用のための原子力発電をつくりたい――。原子力行政の最高決定機関の原子力委員会の初会合で正力松太郎初代委員長(当時、国務大臣)はこう力説した。昭和31年(1956)、御用始めの1月4日午前10時、首相官邸。
出席者は正力のほか、湯川秀樹博士や経団連会長の石川一郎、藤岡由夫、有沢広巳といった錚々たるメンバーと佐々木総理府原子力局長ら。湯川は日本初のノーベル賞受賞者で、原子力委員会の顔として迎えられた。
この初会合で、①毎週金曜日に定例会議を開く②委員会に若干名の参与、専門委員を置く③国連科学委員会に日本政府代表団を送る、などの方針を決定した。
「5年目までに原発を建設する。その設備、技術等は一切、海外から受け入れたい」――。こう考えていた正力は原子力委員会が終わった後、遊説のため地元・富山に帰る列車の中で、自分の考えている構想を同行記者団に伝えた。
翌5日午前10時、原子力委員会は正力委員長欠席のまま昭和31(1956)年度の原子力予算について討議した。しかし、夕方になっても結論が得られず、結局、持ち越しになったが、4委員は夕刊を見てびっくり。
正力委員長の談として、米国と「動力協定」を結びたいという記事がデカデカと載っていたのだ。4委員にとっては、寝耳に水。特に日本の原子力は自主開発が必要と考えていた湯川にとって、このニュースは衝撃的だった。
湯川秀樹、原子力委員を辞任
「動力協定」は日米原子力協定調印の時、政府として最も慎重考慮を要した問題だった。憲法第9条に関わっていたからだ。それが正月早々の正力発言で、いとも簡単に扱われたのだから、湯川らの怒りは収まらない。学界も騒然とした。
「もう辞める」――。湯川は憤った。ほかの委員も反発した。(湯川はその1年余り後の57年3月、病気を理由に原子力委員を去る。もちろん、正力への不信感もあったと言われている)
結局、この問題は正力委員長の個人的見解として済まされ、後に正式に委員長声明を出すことで落ち着いた。
初会合から10日後の1月13日、正力原子力委員長声明が出された。
①わが国の原子力の利用開発は平和目的に限ること②今後5カ年間に原子力発電の実現に努力すること③アイソトープの利用はじめ即時役立つものから着手すること④国際協力ことにアジアのエネルギー開発と生活水準の向上に協力すること、など基本的態度を内外に明らかにしたのである。
しかし、この委員長声明に湯川は懸念を示した。1945年の広島、長崎への原爆投下。54年3月1日のビキニ環礁での米水爆実験による第五福竜丸事件などから学界では原子力平和利用に否定的な意見も強かった。世論も同様に反核運動に動いていた。
そもそも、湯川起用に一番、こだわったのは他ならぬ正力だったと言われている。だから、湯川が辞任をほのめかしたとき、真っ先に手を打ったのが正力だった。「湯川さんは学界でなくてはならぬ人。引きとどめてこい」と部下を叱咤した。若手議員だった元首相・中曽根康弘も湯川の説得に一役買ったという。
湯川は日本初のノーベル賞受賞者という国民的英雄で核兵器廃絶論者だった。それだけに正力にとって、原子力の平和利用としてのイメージ作りには、もってこいの人物だった。監視役としても最適だった。
平和利用キャンペーンのスタートは「ついに太陽をとらえた」
とはいえ、湯川も軍事のための核開発はいけないが、平和のための原子力開発の研究には意欲を燃やしていた。日本学術会議も54年4月、「情報の完全な公開」「民主的な研究体制」「外国に依存しない自主性」。つまり、①公開②民主③自主という、原子力研究3原則のもと、日本も平和利用のための原子力開発に舵を切った。
平和利用キャンペーンのスタートは1954年(昭和29)正月から1カ月、31回にわたって社会面に連載された原子力平和利用のキャンペーン記事「ついに太陽をとらえた」。このキャンペーンの陣頭指揮をとったのは、もちろん正力松太郎。キャップは辻本芳雄。監修は原子核物理学者(東大助教授)の中村誠太郎である。
この読売の連載記事は融合核反応の平和利用こそが日本の未来を握るというものだった。 しかし、この記事に対して疑問を呈した物理学者がいた。元東大教授の嵯峨根遼吉である。彼は原子模型の理論で世界的に有名な長岡半太郎博士の5男。東大卒業後、理化学研究所に入り、仁科芳雄博士の指導を受けた物理学者。
のちにカリフォルニア大学の放射線研究所で“原爆生みの親”のローレンス博士の下で研究生活を送り、帰国後、理研で日本初のサイクロトロンを完成させた。嵯峨根の証言。
「費用と年月をかければ大きな原子核破壊装置ができるかも知れないが、慎重に検討する必要がある。ごく一部の研究だけが、カミソリの刃のように進んでも、なんにもならない。これを支える、広い分野が同時に進歩して、ナタで大きく切りこむように、考えを持たなくては、原子力の本当の利用はできない」(『週刊朝日』1956/1・15)
近視眼的でなく、特定の人間からとやかく言われようとも、全人類に対する責任を取ることの重要性を強調したのである。
ビキニ環礁での米国の水爆実験
ところが、その連載が終わった1カ月後の1954年3月1日。ビキニ環礁で米国の水爆実験が行われた。いわゆる第五福竜丸事件である。
この事件をスクープしたのが読売新聞焼津通信員の安部光恭記者。第五福竜丸が母港の焼津に帰港した2日後の3月16日、読売新聞朝刊は日本漁船が被爆したことを大きく書いた。この記事は国内だけでなく、世界に衝撃を与えた。
ネタ元は下宿先のおばさんからの1本の電話だった。「第五福竜丸がピカドンに遭って帰ってきたけど、みんなヤケドしているそうよ」。翌日の記事は「ビキニ・マグロを食べるな」――。しかし、水揚げされたマグロは2500貫。大半は大阪へ、一部は東京へ送られていた。
日本人にとってマグロは重要なタンパク源である。また日本人ほど世界中でマグロを愛好する国民はいないという。このビキニ・マグロは国民の胃袋を震撼させた。そんな中、いつも仕事の帰り、銀座のすし屋「源」に立ち寄る読売新聞記者がいた。正力の参謀と言われ、当時37歳の若さで開局したばかりの日本テレビの常務取締役を務めていた柴田秀利(86年、69歳で死去)である。
彼は、先の正力委員長声明に深くかかわった人物。彼を一躍有名にしたのは1946年の読売争議。柴田は左傾化する社内勢力を抑え込む役割を担っていた。
彼は愛知県瀬戸市生まれで少年時代、近所の英国人牧師から英語を学んだ。その得意な英語力を買われて、当時読売新聞編集局長だった鈴木東民からGHQ(連合国軍総司令部)を担当してもらいたい。司令部幹部はもとより、外国特派員が読売に好意を持つように骨を折ってくれと言われた。
柴田は自著『戦後マスコミ回遊記』(中央公論社)にこう書いている。
「(正力委員長声明に対して)大変ないざこざが起こり、早くも委員辞職、解散騒ぎにまで発展した。私としては、精魂こめて事を運び、エレクトロニクスからニュークリオニクスへ、技術立国の前進をさらに一段と促進すべく、努力の限りを尽くしてきた国家的プロジェクトである」
正力声明のなかで問題になったのは、原子力発電を5年後に実現してみせるという個所。さっそく、怒鳴り込んできたのが原子力委員会事務局の島村政策課長だった。
「これはあなたがお書きになったということですが、こんな無責任なことを、天下に公約されては、到底事務局としては責任を負えません。撤回してください」
柴田はブイッと怒って、事の成り行きを正力委員長(国務大臣)に話した。正力も苦虫を噛み潰したような顔をしていた。「よし、わかった。君の言うとおりにしよう」。正力はいとも簡単に同意した。
平和利用による産業革命の第一歩を
正力は自著『私の悲願』(オリオン社)の中でこう書いている。少し長いが、引用する。
「日本は、天然資源に恵まれていないばかりか、肝心のエネルギー源ともいうべき石炭、石油はすでに底をつき、電力の値段に至ってはアメリカの数倍も高く、まったく不利な上に、将来の解決策はゼロという暗澹たる状態でした。私はこれをいっきょに解決するには、原子力以外にないことを知り、……(中略)過去の悪夢ばかりを追って、いたずらに憎んだり恐れたりばかりしていないで、この恐るべき破壊力を転じて平和利用し、国家の再建に貢献すべきであることを力説しつづけました。
その結果、原子力が破壊ばかりか繁栄と平和をもたらす両刃の剣であることが、初めて国民に納得され、原子力平和利用による、大いなる産業革命への第一歩が築かれました。これほど大きな、しかも歴史的意義をもった大衆啓蒙活動は、かつてなかったかと思われます」
正力は「平和利用」という姿勢を前面に打ち出したのである。それは米ソ冷戦当時、米アイゼンハワー政権は「反共の砦」日本の反核世論が反米運動や左翼運動につながることを警戒していただけに、正力委員長声明はアメリカにとっても好都合だった。
反共精神と米国に幅広い人脈を持つ柴田は、正力委員長から絶大な信頼を得ていた。正力は日本の世論形成に影響力を持つ新聞、テレビのオーナーであり、その懐刀の柴田をアメリカは見逃すはずがない。
「もはや戦後ではない」時期と重なる
「ニッポンに原発を!」――。50年代のニッポンで読売新聞を中心に原子力「平和利用」キャンペーンが繰り広げられていた時期は、一人当たりの国民総生産が戦前のそれを上回り、「もはや戦後ではない」と言われる時期と重なっていた。
戦後日本の再出発にあたるこの時期に正力は読売新聞や日本テレビの全機能をあげて原子力「平和利用」キャンペーンを繰り返した。
しかし、ビキニ事件を契機に1954年8月、原水爆禁止署名運動全国協議会が結成された。その事務局長に就任したのが安井郁法政大学教授。彼はこう証言している。
「水爆問題は全国民の問題であると共に全世界の問題である。…(中略)この運動は特定の党や特定の国家を対象とせず、原子力と人類の対決として、純粋な運動としなければならない」(『原水爆禁止運動資料集』第1巻、緑陰書房)
署名運動で最初に狼煙を挙げたのが、東京都杉並区の一主婦だったと言われているが、官民一体の安井のこの署名運動は、またたく間に3000万人の賛同を得て、運動は燎原の火の如く全国に広がった。
このまま放っておいたら、営々と築き上げてきた日米関係も決定的な破局を招く。ワシントン政府も深刻な懸念を抱くようになっていた。こうした事態を避けるためにも日米双方とも対策に苦慮していた。
諺に“毒は毒をもって制する”
ある日、柴田秀利は米諜報機関に関係していたD・S・ワトスンを招いて銀座のすし店「源」で会食した。ワトスンは言った。「(盛り上がる反米運動に対して)何とか妙案はないか、考えてくれ」と。柴田はこう熱弁を振るった。
「日本には昔から、“毒は毒をもって制する”という諺がある。原子力は双刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳い上げ、それによって、偉大な産業革命の明日に希望を与える他はない」
この一言にワトスンは思わず両手で膝をたたいた。
「よろしい。柴田さん、それで行こう!」(前掲書)
読売新聞社社主・正力松太郎の原発キャンペーンは凄まじかった。翌1955年に入ると、1月1日朝刊の第1面は「米の原子力平和使節 本社でホプキンス招待」という見出しの社告。
ホプキンスは世界で初めて原子力潜水艦「ノーチラス号」を建造したゼネラル・ダイナミックス社社長兼会長である。続いて「原子力の年・各界の声をきく」(1月8日)「原子力平和利用と日本 原子炉建設を急げ」(4月20日)……。
またホプキンスは「原子力マーシャル・プラン」構想を打ち上げ、日本を含むアジア諸国へ原子炉を導入することを提唱していた。
この社告を書いたのは、いうまでもなく柴田だった。平和利用使節団の構成メンバーはホプキンスを団長に、サイクロトロンの発明でノーベル賞に輝いたアーネスト・ローレンス博士。続いて米国原子力委員会の原子炉開発部長のローレンス・ハフスタッド博士、それにヴァ―ノン・ウェルシュ副社長、国際連合復興機関の計画部長ユージン・リードの5人。一行の来日は同年5月9日である。
つづく
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