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片野勧の衝撃レポートー太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災㉑ 『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』

   

 片野勧の衝撃レポート

 

太平洋戦争<戦災>と<311>震災㉑  

『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』

 

<原町空襲と原発(下)「震災」を写真に残したい>

片野勧(ジャーナリスト)

 

校庭に12発の爆弾が……

 

さて、原町空襲に話を戻す。終戦間際の1945年8月10日、星さんは事務員のSさんとともに日直勤務だった。職員、生徒は休みだったが、校長と教頭は出勤していた。

この日は、朝から真夏の太陽がジリジリと照りつけていた。星さんはいつものように綿の入った防空頭巾を被り、手拭いで口鼻を蔽って、完全武装していた。

と、その時、警戒警報のサイレンが鳴った。星さんらは直ちに防空壕に直行した。じっと、身を固めていた。30分ほどすると、グラマン戦闘機は去った。しかし、また1時間もすると、渋佐沖にいた艦載機から波状攻撃を加えられた。これが5回くらい繰り返された。

原女が爆撃されたからと見に来たおじさんが途中で機銃掃射を受け、腕を1本、失ったと聞いて、星さんは動転した。

「校庭には12発、爆弾が落とされました。ガラスは木っ端微塵に砕け、散乱していました。幸い、校舎は無事でした」

「しかし」と星さんは話を続ける。

「この12発目が曲者でした。90歳になった今でも忘れることができません」

午後3時頃の最後の爆撃だった。防空壕に爆弾が落ちたのである。ものすごい爆裂音と爆風……。爆弾によってできた大きな穴からは地下水がゴボゴホと湧き出ていた。

「私は爆弾でグラグラと体が持ち上げられ、生きた心地がしませんでした」

この日、星さんは自宅に帰って驚いた。機銃掃射の弾丸が屋根を突き抜けて、畳や布団に突き刺さっていたのである。

「わが家は駅に近かったために、線路の枕木が飛んできて、それが突き刺さっていたのです。今、思い出しても、ゾッとしますよ。それに線路は飴のように曲がっていて、架線橋にからまっていましたね」

この日の夜、星さんは父の実家の石神村信田沢へ向かった。しかし、今の仲町の牛越公道はリヤカーを引いて、風呂敷包みを背負った人々でごった返していた。

「南の空は原町紡織工場がまだ燃え続けていたのか、赤く染まっていました」

そして終戦。5日後の8月15日である。

 

明かりの灯る民家はない

 

「戦争で苦しめられ、また今度の津波、原発事故で苦しめられました。でも、今回はいろいろな手立てを講じられていますから、68年前とは全然、違うと思いますよ」

戦前、戦中。食糧難の時代である。着るものもない。食べるものもない。米の代わりに豆、かぼちゃを食べていた。しかし、今回の震災では全国から多くの義援金や物資が届けられた。そこが戦前と今回の違いと、星さんは言う。

3・11から1週間後の18日、役所から電話が入った。緊急時避難準備区域(20キロ圏内)に指定され、住民に避難を呼びかける電話だった。避難先は群馬県、新潟県……など。

「明日8時半、バス200台で群馬県へ避難するので、今夜のうちに毛布などを用意して公民館や第1小学校に集合せよ」

しかし、まだ米もあるし、冷蔵庫にはさまざまな食料品が入っていた。だから、何も避難する必要はないと、星さんは思い、自宅に留まろうと覚悟を決めていた。

私は、星さんに改めて、その時の心境を尋ねた。

――市役所から電話がかかってきたとき、どんな気持ちでしたか?

「避難しない覚悟でした。しかし、避難してもせいぜい1週間ぐらいだろうと、タカをくくっていました。ところが、逃げなければ危ないですよ、といわれ、避難せざるを得なくなったのです」

 

水戸市に住む娘のところへ避難

 

星さんは翌日、茨城県水戸市に住む娘に電話した。「あした迎えに行くから、家で待っていてね。お昼頃にはつけるから」といわれた。

しかし、ガソリンは足りない。スタンドは給油の車で行列である。何時間も待たされた。しかし、無事に給油を済ませた。

震災後8日目の3月19日。予定通り、娘がやってきて、水戸で約6カ月間、お世話になった。

それにしても、体力のない高齢者にとって避難することは過酷なことだったに違いない。再び、私は聞いた。

――原発事故についてどう思いますか。

「私たちは68年前の原爆で被害を受けました。しかし、今回は日本が国策で原発事故を起こし、世界に被害を及ぼしていることを知らなければなりません」

68年前の原爆で日本は被害者だった。しかし、今回の原発事故は近隣諸国だけでなく、世界に影響を与えた加害者だったというのである。

私は最初に南相馬市を訪問したのは、3・11から8カ月後の2011年11月9日だった。車で郡山から途中、阿武隈山地を横断し、全村避難地域となっている川俣町、飯舘村、浪江町を通り、南相馬市へ入った。

途中、行き交う車もなく、人影もない。山並みの紅葉だけが赤く染まり、のどかな旅行気分だった。しかし、田畑は耕作放棄を余儀なくされ、雑草の生えるに任せる状態だった。夜の山道を走っていても、明かりの灯る民家もない。

 

まさに「死の街」だった

 

「街は死んでいるようだった」といって、批判され辞任した大臣がいたが、まさに「死の街」だった。

収束の兆しが見えない福島第1原発事故。放射線汚染の範囲が拡大し、子どもたちに原因のわからない体調異変もじわり広がっているという。鼻血、下痢、倦怠感……。私は星さんに尋ねた。

――子どもたちの健康被害を不安視する声もあるようですが……。

「子どもたちは可愛そうです。健康不安はもとより、家に戻れないのは本当に情けない。戦時中も子どもたちは田植えなどに動員され、勉強どころではなかったのです。未来の子どもたちを安心して暮らせる世の中にしてほしい。その自覚が政治家にあるのかないのか、さっぱりわかりませんね」

2012年(平成24)5月の、とある日。原町第1小学校で2年ぶりに運動会が行われた様子が映像で流れていた。屈託のない小学生たちからは震災や原発事故の影はまったく感じさせないものだった。過酷な運命であっても、必ずやこの町は再建されるだろうと、私は子供たちのはしゃぐ姿を見ていて、思った。

星さんの話は、原町陸軍飛行場から前途有能な若者が飛び立ち、戦場で散っていったことにも及ぶ。数知れない同胞が殺され、戦争で死んでいった特攻隊の多くの若者の魂をどう鎮めていくか。

「そこなんです。戦争で数多く死んでいった、その死者とどう向き合うかが大事だったのに、戦後68年経って、いつの間にか人間の死というものが軽んじられるようになったんではないでしょうか。復旧、復興も、もちろん大事ですが、まず精神の復興が重要だと思いますよ」

 

橋下大阪市長の「慰安婦」問題発言

 

この原稿を書いていたら、びっくりするニュースが飛び込んできた。2013年5月14日午後――。日本維新の会の共同代表の橋下徹大阪市長の「慰安婦制度は必要だった」発言である。さらに橋下氏は沖縄県の米軍普天間飛行場の司令官と会談した際、合法的な範囲内で風俗業を活用してほしいと進言したことも明かした。

私は星さんに、この橋下氏発言について聞いてみた。

「従軍慰安婦は、戦時中の日本軍による組織的戦争犯罪なのに、なぜ今、正当化するのか、理解に苦しみます。女性の人権と尊厳を侮辱しています。こんな人が政治家として日本に存在していることが寂しい」

星さんの怒りは収まらない風だった。

 

電気、ガス、水道はストップ

 

「3・11」。午後2時46分。南相馬市原町区に住む元小学校教諭の佐藤ヒロ子さん(81)は自宅1階の居間で、薄型テレビを抑えて立っていたが、食器棚のガラスは割れ、食器はガラガラと落ちた。屋根の瓦も動き、家の壁にヒビが入った。

「抑えていた時間は短かったのですが、こんなに長く感じたことは初めてです」

と佐藤さんは振り返る。私は佐藤さんに話を聞いた。2013年5月16日午後6時を少し回っていた――。

停電で電気、ガス、水道はストップ。新聞も配達されない。テレビもラジオも聞けない。情報は何も入ってこない。自宅は海岸から約4キロ。幸い、津波の被害は免れた。

その後、約25キロ離れた福島第1原発の衝撃的映像が流れた。1号機、3号機が爆発している映像だ。また津波に流されている家や自動車などの映像も流れた。瞬間的に佐藤さんは郡山空襲と原町空襲のことを思い出した。(以下、「はらまち九条の会」ニュースNo.32を参照させていただく)

 

入院中、郡山空襲を目撃

 

佐藤さんは伊達郡霊山第1国民学校6年生の時、盲腸炎を患い、福島の病院で3カ月以上、入院していた。その間、空襲警報がしきりと鳴った。辺りは灯火管制で暗闇の生活を送っていた。

あるとき、南の空が赤々と明るく輝いていた。大人たちは「あれは郡山が燃えているんだ」と話していた。1945年4月12日の郡山空襲である。佐藤さんは動けない体なのに、いつ福島が空襲されるのかと思って、不安な日々を送っていた。私は佐藤さんに尋ねた。

――その頃、どんな教育を受けたのですか。

「ほとんど覚えておりませんが、当時の通信箋だけはよく覚えています」

伊達郡霊山村第1国民学校の昭和18年度の通信箋は「滅私奉公」「忠君愛国」「子どもは天皇の子」という内容だった。

1944年5月、父に召集令状がきた。横須賀海兵団入団だったが、入営したのは会津若松の山中で松の根っこを掘り、松根油を採るためだった。それで家族は福島市に移り、佐藤さんは福島第2高女に入学した。

 

もう一つの「原爆」、福島に落とされた模擬原爆

 

ある朝、2階の講堂で朝の会の最中、ものすごい爆音と爆風に見舞われた。窓ガラスは割れ、皆、床に伏せていた。警戒警報もない突然の爆撃だった。あとで聞いてわかったのだが、それは模擬爆弾と言われ、原爆実験に成功したアメリカが、失敗なく目標地点に原爆を投下するための訓練だった。

1945年7月20日~8月14日。米軍は広島、長崎に先駆け、長崎型原爆「ファットマン」と同じ形の容器に火薬を詰め、同じ重さにした1万ポンド(約5トン)爆弾を東京や富山、滋賀、神戸、大阪など50カ所に投下した。この模擬原爆で400人以上が死亡し、1200人以上が負傷した。

福島県の場合、福島市といわき市に投下された。佐藤さんが語ったのは、1945年7月20日、福島市渡利に落とされた模擬爆弾のことである。この爆弾で斎藤隆夫さんという若い青年が亡くなったのである。

この閑静な渡利地区は福島第1原発から60キロ。避難の対象地域には指定されなかったが、1、2カ月後、役所の人が測定すると毎時1・7マイクロシーベルト。明らかに福島第1原発から飛散した放射性物質が渡利地区を覆っていたのだ。

 

本物の原爆が落とされたら……

 

渡利地区に模擬原爆が投下された17日後に広島に、20日後に長崎に本物の原爆が投下された。佐藤さんに尋ねた。

――もし、本物の原爆が渡利に落とされたら、どうなっていたと思いますか。

「福島の建物は全壊し、何万人の死者が出たでしょう」

さらに言葉を継いだ。

「今の日本を取り巻く雰囲気は戦前の嫌な雰囲気と似ています。戦争の悲惨さを知らない若者の安穏さは危険ですよ」

戦況が悪化した1945年、福島市も建物疎開を始めた。裁判所近くに住んでいた佐藤さん一家も立ち退きを命じられ、父の郷里・石神村(現・原町区石神)に戻ってきたが、食料もなく、ランプ生活だった。原町高等女学校に転入した佐藤さんは、ここでも空襲を目撃した。

「私は高台から焼夷弾を見ていましたが、本当に怖くて、怖くて……」

焼夷弾と原発事故――。佐藤さん宅は福島第1原発から25キロ。避難生活を余儀なくされ、秋田の妹の家に1週間、そのあと東京・練馬区の息子のところへ避難して、2011年6月1日に自宅に戻ってきた。私は佐藤さんに聞いた。

――B29による爆弾も、今回の原発事故も人間が犯した過ちですが、どう思われますか。

「戦争で数多くの人間が死にました。今回の大震災でも教え子たちが津波に呑まれ、亡くなりました。その上、原発事故で家を追われて、今なお仮設住宅に住んでいる人たちがいます。それなのに、私たちの苦しみを忘れたかのように、再稼働の方向に進みつつあるのは、本当に残念でなりません」

 

佐藤さんは元小学校の教諭。大甕(おおみか)小学校と高平小学校の教え子たちの何人かが津波に流され、亡くなった。いまだ行方不明の者もいる。家を流され、仮設住宅にいる人も。

「私はお葬式にもいきました。あんなに明るい子だったのに、本当に可愛そうで……」

戦後の民主主義は軍国主義からの価値の転換だった。しかし、それが問われないまま、モノやカネが優先の社会になってしまった。その結果として、原発事故が起こったと佐藤さんは思う。

 

 

 

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