『リーダーシップの日本近現代史』(176)記事再録/★「国難日本史の歴史復習問題」-「日清、日露戦争に勝利」した明治人のインテリジェンス⑥」 ◎「ロシアの無法に対し開戦準備を始めた陸軍参謀本部』★「早期開戦論唱えた外務、陸海軍人のグループが『湖月会』を結成」●『田村参謀次長は「湖月会の寄合など、茶飲み話の書生論に過ぎぬ」と一喝』
2020/06/25
日本リーダーパワー史(805)記事再録
早期開戦論を唱えた外務、陸海軍人のグループ『湖月会』はどうしてできたのか。
民間で対露主戦論がエスカレートしてきた時、陸海外務省でもこれらに劣らぬ強硬な主戦論をを唱えて、開戦の時機を早めようと運動していたグループがあった。
陸海軍の主戦論者は、ひそかに往来してロシアを討つ戦術を研究していたが、海軍側から見ると陛軍側はロシア側のスピーディーな侵攻に対して動きが鈍いと思われた。
危機感をもった海軍軍令部の上泉徳弥副官(後の国風会長・中将)が当時の山県有朋参謀総長副官だった掘内文次郎少佐(のち中将)と相談して、5月25日に芝の紅葉館に「陸海連合大懇親会」をひらいた。
出席者は海軍は伊東祐享大将、軍令部次長出羽少将をはじめ16、7名、陸軍は大山巌大将以下多数、それに参謀本部から10人くらいという当時として稀有の顔ぶれで痛飲し、盛んに気焔をあげたが、表面は連絡懇談だが自然酔うにつれ話が落ち着いて談論風発、主戦論者が意気投合していった。4日後の29日には外務、陸軍、海軍の強硬な日露主戦論者のみが集まって東京芝の旗亭「湖月」で会合した。このグループが「湖月会」と呼ばれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%96%E6%9C%88%E4%BC%9A
外務省からは山座円次郎政務局長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BA%A7%E5%86%86%E6%AC%A1%E9%83%8E
をはじめとし落合謙太郎、
阪田重次郎、
本多熊太郎の四人、
海軍は軍令部第一部長富岡定俊少将(のち中将)、
山下源太郎大佐(のち大将)、
浅間艦長・八代六郎大佐(のち大将)、
海軍大学教官・秋山真之少佐(のち中将)、
軍令部副官兼参謀・上泉徳弥中佐、
軍令部参謀松井謙吉(のち少佐)、
陸軍からは参謀本部総務部長・井口省吾少将(のち大将)、
同第一部長・松川敏胤大佐(のち大将)、田中義一少佐(のち大将)、木下宇三郎少佐、福田雅太郎少佐(のち大将)、西川虎次郎少佐(のち中将)」という三省の逸材が一堂に会したのは壮観であった。
食事抜き、もちろん芸者は一人も座敷に入れず、陸軍は陸軍から、海軍は海軍からというように、各主任の立場から対ロシア即戦論を唱えて悲憤,慷慨、口から泡を飛ばして議論が続いた。
当時参謀本部第二部長・福島安正少将は病気で吸入をかけながら軍務をとっていたので当夜の会合には出席できず、上長中佐に自分の意見を託して開戦論を激励していたことが披露されると、会合はさらに熱狂した。
福島少将からの伝達。
「今更どうもかうもないじゃないか、負けてもロシアと戦はねばならね、海軍が六六艦隊を建造したのも、陸軍が六箇師団にしたのも、皆ロシアに当らんがためである。今もし戦はねばこの軍備は何んのために整えたか意味をなさぬ。
日本が負ければロシアに台湾を奪われるかも知れず、莫大な償金も要求されるかもしれぬ。しかし、最悪の場合を予想してもその程度のもので北海道まで手をつけるとはいわぬであろう。
何れにせよ日本が負けたところで日本は滅びない。しかし、今戦はねば、あの凄じい勢で東洋に入って来ているロシアが満州で力を充実し、朝鮮に進出して来るのは明かだ。そうなっては仮に協定など結んだとてホゴ同然となり、日本勢が大陸から駆逐されるのはもちろん、壱岐、対馬、九州にまで手を着けようとするであらう。
結局日本は第二のインド、ビルマ(三ヤンマー)となるべき運命になる、これを思えば。今進んで戦うより外に道はない。万一、戦に負ける最悪の場合に陥っても、日本国民が発憤すれば百年を待たずして、必ず復讐することが出来る。断じて妥協すべきではない」
「日本のグローバル・インテリジェンス・オフィサー」の代表の福島安正参謀本部第二部長がこのような、悲壮な決意を語っていたのだから、参謀本部の決意のほどがわかる。
会合では、3者が一体、協力して、対ロシア開戦へ向けて邁進することを約束して散会した。
政府も湖月会の動向には十分の注意を払うとともに、この湖月会が民間志士(玄洋社など)に政府の動きをそれとなく知らせて、民間と三省若手連合の連絡をとった。
席上、西川虎次郎少佐が山座に「日露戦わばどこまで行けば片づくと思うか」とたずねると「ハルビンまで進めばロシアはペシャンコだろう」と答えたので、軍事の専門家でない山座の見透しが的確なのに皆驚いた、という。
<5月11日、以下を追加した。
篠原昌人『知謀の人・田村 怡与造』光人社(1997年刊)から引用する。
井口省吾は、その日の日記にこう記した。
〝今日ヲ以テ一大決心ヲ為シ、戦闘ヲ賭シテ露国ノ横暴ヲ抑制スルニアラサレハ帝国ノ前途憂フへキモノアリ″
田村参謀次長は「湖月会の寄合など、茶飲み話の書生論に過ぎぬ」と一喝
この日、福田雅太郎少佐(日露戦争時、第一軍参謀、後の大将)は散会後、参謀本部の田村怡与造参謀次長の部屋に行った。
「閣下、お話がございます」
「やぶから棒に何事であるか」
「…………」
福田は湖月会の模様をまくしたて、一日も早い戦闘を訴えた。黙って聞いていた田村は、福田に問いかけた。
「では聞くが福田よ。日清の戦きのとき、平壌攻撃で何発、弾を使ったか知っておるか」「はあ?、とっさに言われましても記憶が……」
「榴弾六百八十発、榴霰弾二千百二十八発、小銃弾は、二十八万四千八百六十九発だ。お前はこれを多いとみるか、
少ないとみるか」
「平壌攻撃は、日清の役でも最大の戦いであります。消費弾量も、一会戦分としては多かったと言わざるを得ません」
「それは、もはや時代遅れだ。この弾の量など、おそらくロシア相手では小競り合い程度だ。湖月の土蔵では、弾の話はしなかったのか」
「一日遅れれば、それだけロシアの横暴を許すことになります」
「だから、ロシアと事を構えるとなれば、弾は何発用意すればよいのか。野砲は、山砲は何門持っていけばよいのか。わしの知りたいのはそこだ。湖月の寄合など、茶飲み話の書生論に過ぎぬ」とインテリジェンス(兵站、ロジスティクス)マスターの田村次長は福田の強硬論を一喝した。(同書210-211P)
長谷川 峻著『大陸外交の先駆山座公使』(育生社、1938年刊)によると、
外務の山座と海軍の上泉とはともに部内の酒豪として知られ、豪放磊落な性格もまた似ていたから、二人は心から相許し、眼と鼻の間にある外務省と海軍省との間を往来して対露問題に関する情報を交換したり、意見を戦わしたりして緊密な関係を保ち、同志の活動をしていた。
その頃、酒豪の山座は政務局長室の机のなかにビールビンをたくさん入れておいて、だれか訪問者があると「よしよし、これがあるゾ」といかにも嬉しそうにビンをさしあげて飲みながら話をする。小便がたまると、外務省玄関わきの木にいつもしゃあしゃあとするので、小使が「局長さん、木が枯れますが・・」とそのつど注意する。
「ウン、ウン」とうなずいてかまわずにやり出す始末で、訪問者が「よくあれで外務省のようなハイカラなところで役人がつとまるものだ」と語り合ったという。
上泉が山座の机上の機密書類を勝手に引っくり返していても、山座は「オイ書類は余り引っくりかえしちゃいかん」といいながらそのままビールを傾ける有様だった。
そのころ、寺尾亨はじめ七博士と上泉が一緒に飲んだことがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B0%BE%E4%BA%A8
博士たちの学究的な強硬な対露開戦論をきいていた上泉が「学者の議論は迂遠でだめだ、僕を艦長にすれば砲火一発、ただちに戦端を開いてみせる、議論の時代は過ぎた、鉄と血があるだけだ」と喝破したら、寺尾博士が国際法の見地から直接行動論を反駁したので「まだ学説がなんかこれかというのか」というや否や牛鍋(すき焼き鍋)を博士にひっかけた。
狭い部室のこと、ランプが落ちて真っ暗になったなかで、元気ものの博士と上泉がバタン、パタン組みあいのケンカとなったので、居合わせた博士連が、ランプが引っくり返ったのを、元老が引っくり返ることにもじって、必ず開戦になると、喧嘩をやめたというエピソードがある。
つづく
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