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日本リーダーパワー史(345『明治の黒幕・三浦梧楼の痛快無比な外交力①」『支那(中国)は事大主義の国である』

   

日本リーダーパワー史(345 

                                
『明治の黒幕・三浦梧楼の痛快無比な外交力①』 
『フランス大統領、外相、陸相を手玉に取る弁舌』
1874年(明治7年)台湾出兵に対して清(中国)は1兵も
1言も口を挟まなかった』
『1883(明治16)年の清仏戦争(ベトナムの領有をめぐるフラン
ス対中国戦争)ではフランスが日本を誘って、同時に中国を攻め
ようと持ちかけてきたが、三浦はていよく断る口八丁』
◎『支那(中国)は事大主義の国である。日本は小国だ、
島国だと始終、侮っている気味がある。
その眼を開けさすには、どうしても一度手ひど
くその頭を叩かねばならぬと思う」

 

前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
                                   三浦梧楼(1847年<弘化3)~1926年(大正15)>

山口生まれ。陸軍軍人、政治家。父は萩藩士。藩校明倫館に学ぶ。奇兵隊へ入隊し、第2次長州征討、戊辰戦争で活躍。兵部権大丞、東京鎮台司令官、広島鎮台司令官を歴任。西南戦争時は第3旅団司令官として従軍。明治17年(1884)大山巌に随行し欧州各国の兵制を視察。21年(1888)藩閥勢力と対立し、予備役に編入される。同年11月、学習院長に就任。23年(1890)貴族院子爵議員。28年(1895)朝鮮国駐在特命全権公使に就任。閔妃暗殺に関与。のち枢密顧問官。
山県有朋よりも11歳下だが、同じ奇兵隊に属し、高杉晋作に可愛がられた度胸のある無類の暴れん坊。気の小さい派閥好みの山県と違い、藩閥打倒を掲げて山県と対立、中将で予備役に編入される。以後は政界の黒幕として、政党勢力を重視、藩閥打倒で政界を暗躍、明治43年枢密顧問官となり、大正政変後は政党勢力を重視し、大正5年(1916)第一次三党首会談(原敬・加藤高明・犬養毅)を斡旋、同13年第二次三党首会談(高橋是清・加藤・犬養)を仲介した。
三浦観樹将軍縦横談という本があるなど、その活躍は痛快無比、政界のパイプ役、交渉役として雄弁、スピーチ力は日本の政治家、リーダーでも飛びぬけている。
以下で紹介するのは大正14年3月『観樹将軍回顧録』の一節。『フランスとの交渉話』である。
 
明治17年2月 陸軍大改革のための欧米軍政視察のため大山厳陸相団長以下に三浦中将、少将級では野津道貫、大佐級では桂太郎、川上操六ら主要メンバー17人がえらばれて1年に渡って派遣された。
 喧嘩早い三浦もその度胸と対外交渉能力を買われて、山県から【喧嘩は御法度だ】とくぎを刺されて派遣された。
この時、フランスが清仏戦争の仲間に日本を何とか引き入れようという、あの手この手で日本側に働きかけてきていた。大山は交渉事が苦手なので、口八丁、手八丁、タフネゴシエイターの三浦にこれをまかせるために、同行させたのである。
 
 
 出発は二月十六日であったが、この洋行中、フランスにおいて陸軍卿その他の有力者と折衝した一事がある。当時、井上が外務卿を勤めておった時で、条約改正に熱中してしばしば各国公使と会商を重ねたが、なかなか交渉がまとまらぬ。主として異議を唱えるのがフランス公使であった。
井上はパリ駐在の我が公使に訓令を与えたが、商務卿を始めとしてみな面会を拒絶するため、ほとんど困却を極めておった。
 
 ところがその当時、フランスはシナ(中国)とトンキン戦争(ベトナムをみぐる清仏戦争のこと)を開いておったが、かねて日中両国の関係は面白からず、ややもすれば衝突せんとする形勢あることをよく知っておった。
そこでフランスは日本をそそのかしてその戦争の渦中へまきき込もうとの意向であった。幾万の大兵を動かして遠くシナ(中国)に送るよりは、日本を説いて味方に引き入れ、その兵力を利用して、シナを圧伏するのがフランスにとっては最も巧妙なる手段である。
そこでフランスは日本の歓心をかって、味方に引き入れんとの腹であった。

 

 我輩らの一行が、すでにフランスを立ってドイツへ往った時であった。フランスから大演習を参観するようにとの案内があった。ところが、今の事情があるから大山厳は行けぬ。もし行ったら、日仏協同の交渉を持ちかけられるおそれれがある。そこで大山は、
「自分が行くとはなはだ困る。君、代って往ってくれぬか」と言うのである。

 「よし、それなら往こう」

早速日本の総代として、仏国へ出かけて往った。なるほど非常の歓迎である。痺い所へ手の届く歓待ぶりである。接待委員として、以前日本に招用されたことのある士官なども来ておったが、
「パリにお帰りになったら、大統領が是非ご面会いたしたいと申しておりました。お会い下さるでしょうか」
と言うのである。               
「何か用でもあるのですか」
「何か知りませぬ、ただそう伝えてくれとのことであります」
との答えである。
ははあ、これだな。すぐと察した。しかし我輩は無責任だ。一向平気だ。大演習が済むと、すぐパリへ乗り込んだのである。
 
 その晩であったか、その翌晩であったか、大統領の丁重なる饗宴があって、各省の長官は皆やって来た。やがて食事も終って打解けた談話が始まった。我輩はまず海軍卿をとらえて、
「日本の留学生は、陸軍の大学にはお入れ下さるが、海軍には一人もお入れにならぬ。あれはどういうわけか」
となじると、
「それは何かの間違いでしょうぜ。貴国とは親善の関係もあれば、決して左様の事あるべきはずはありませぬ」
と弁解したが、実際伊集院(五郎)元帥、あれが生徒であったが、三年も四年も入り得なかったのである。それから今度は商務卿に論鋒を向けた。
 
「弊国の公使が度々訪問した。特に避暑地へまで訪問したが、それでもお逢い下さらぬということである。今我国においては条約改正、幕府時代に締約した不対等の条約を改正したいと希望している。他国は大抵承認しそうであるが、ひとり貴国が反対を唱えられているということですが」
 
と言い出すと、商務卿は、「いや左様なことは決してない。それは取次がぬからです。いつでも面会します」と約束した。それは大統額も聴いておった。我輩はフランスが日本を利用せんとする際であるから、この機会を捉えてあべこべにフランスを利用してやろうと計略したものである。
 
その結果、商務卿はわが公使に面会する。海軍卿はその翌日事実を取調べて、早速入学を許した。伊集院らもこれには驚いおったが、その後、海軍卿の河村から寧な礼状が来た。
 
それから、次の日には首相にあった。ところが陸軍卿が特別に面会したいということである。

いよいよ例の問題だなと思ったが、我輩はどこへでもいく、早速、通弁(通訳)を連れて陸軍省を訪問すると、前晩、面会した陸軍卿がちゃんと玄関に立つっている。ゼネラル.カンプノーという老成の政治家である。馬車から降りて固く手を握って1室に案内した。向うは陸軍卿ただ一人、こちらは吾輩と通弁の二人である。一応の挨拶が終ると、早くも談話は当面の間題に及んだ。

 
「今日お招き申したのは別儀でもありません。実はフランスはベトナムとの戦争を始めているが、シナ(中国)の事情が一向分らぬ。幸いのご来遊であるから、シナの事情を承わらんためにわざわざご足労を願ったわけで」
と婉曲に持ちかけた。
 
「自分とてもよくは承知しませぬが、存じているだけの事はお答え致しましょぅ」 と答えると
「ご覧の通りにここには自分の他、フランス人は一人もおりませぬ。談話も貴君の通弁を介して交換するのであります。今日は東洋の親友として会見することなれば、隔意なく懇談せられんことを望みます」と述べた。
 
これは前日、我輩が、
「お尋ねの事は何にても答弁しますが、貴国は大国、日本は小国である。もしこの分け隔てがあっては、到底、親密のお話は出来ませぬ」とかますと、
「大国の小国のということは、毛頭、念頭にありませぬ。どこまでも東洋の親友として懇談致したい」と答えたのである。それで、今日は城府を撤して懇談せんため、自国人は通弁一人もこの席に加えなかったわけである。
 
陸軍卿はまずシナ(中国)の事情を詳細に質問した後、
「先年、貴国は台湾に出兵されたことがある。(明治7年の台湾出兵のこと)。台湾においては基隆(キールン)が最も重要の地点であるにもかかわらず、この基隆には上陸せずして、変な所から上陸されたが、これが分りませぬ」と聞いてきた、さすがは本職である。しかしそこは我輩も心得ている。
 
なるほどそのご不審は道理であります。基隆が台湾において、最も便利、最も重要の地点であることは百も承知致しております。しかし最初シナに交渉した時、シナは決して関係がないとの回答であった。そこでシナの関係せぬ間、はやく解決するため、特別に不便の地点を選んで上陸したわけであります」
 
「それでよく分った。そう致すと、シナは戦争の終局するまで一兵も送らず、1言も挟まなかったことでありましょうか」
「無論、少しも関係しなかったのです」
「それはよいことを承った。多年の疑問が始めてとけました」
と喜び、さらに、
「我らは英仏連合軍のシナを攻撃した時その軍に加わり、かつ軍馬購入のために貴国に往ったこともありますが、その後の形勢はいちじるしく変化しているから、見込みも立ちませぬ。貴官もしフランス人という立場から考えて、如何にすればよろしいと思われますか、そのご意見が承わりたい」
 
「フランス人でも日本人でも構わぬ。ただ自分がその局に当るとして、その見込みを述べればよろしいのでしょぅか」
 
「それでよろしい。そのお見込みが承わりたいのであります」
「支那は国も大きい、人も多い。廣(日編あり)日弥久の戦は、決して策の得たるものでない。電光石火、忽(たちま)ち始めて、忽ち片をつけるのが肝腎であると思います」
「いかにも御同感です」
「そこでどこにてもあれ、一たび足をかければ、ただ交通を遮断されぬだけの要心をなしおき、一直線に行ける所まで行って、大破壊を行なう。これが最も得策であります。兵勇は多く、武器も沢山である。もし時日を費やさば、不覚を取るは必然であります。自分が戦局に当たらは、これよりほかに手段はあるまいと思います」  

           
 「至極御同感で、大いに益を得ました」
と謂子を合わせて、じりじりと引きつける。なかなか上手である。まず我輩の戦略を開いておいて、
「貴国と支那との関係は、どうもおもしろくいっていないように思われる。一体どういう有様ですか」と問いを進めてきた。
 
「御推察の通り、日支両国の関係は、決して円滑ではないのである。自分1個の考えをもってすれば、支那(中国)は事大主義の国である。一撃をその空に加えて、わが実力を示さねば、決して合点のいくものではない。ロでこそ善隣などと言えども、日本は小国だ、島国だと始終、侮っている気味がある。その眼を開けさすには、どうしても一度手ひどくその頭を叩かねばならぬと思う」

 
と答える。いよいよ彼の思うツボにはまった。
                                                               (つづく)
 
 
 

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