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終戦70年・日本敗戦史(88)若槻泰雄「日本の戦争責任」ー「どうして日本の軍隊は残虐行為をしたのか」「バターン死の行進」①

      2015/06/02

 

終戦70年・日本敗戦史(88)

若槻泰雄「日本の戦争責任」ー

「どうして日本の軍隊は残虐行為をしたのか」

日本軍の捕虜蔑視の思想が生んだ事件「バターン死の行進」①

 

日本の戦争責任についてあらゆる角度から多角的に分析した若槻泰雄「日本の戦争責任」(上、下)(原書房1995年)は古典的な名著である。戦後70年、終戦70年で「大東亜戦争」の問題を考える場合に、これを座右の書にして考察すべきと思う。前回掲載の終戦70年・日本敗戦史(85)「ハーグ、ジュネーブ条約」を無視して捕虜虐待、 極刑を指示した東条首相『武士道地に墜ちたりー目には目、歯には歯』⑤

http://www.maesaka-toshiyuki.com/war/7335.html

では捕虜虐待にふれたが、同書(上)(原書房1995年)に「どうして日本の軍隊は残虐行為をしたのか」の項目があり。次のように書いている。

 残虐行為の原因究明の必要性―

「南京事件、南京虐殺について昭和12年(1937)12月、中国の首都、南京攻略にあたり、日本軍が何十万の中国人を殺したとか、しなかったとかいうことがいまでもときどき話題になっているが、それがたとえ五万であろうと五〇万であろうと、たいした意味があるとは思えない。

今次大戦において、日本軍は戦時国際法を蹂躙し、捕虜の虐待、民衆の虐殺、暴行、強奪、放火、強制労働、婦女暴行等々、多くの残虐行為をしたことは疑うことのできない事実である。日本軍の被害にあった国は統計が整備していない場合が多いから、正確な数字は把握しょうもないが、武装なき一般人の殺教もおそらく千万を超えると見込まれている。

このことは、従軍した何百万の人々にとっては常識であっていまさら説明する必要もあるまいし、上は大将から下は兵隊にいたるまで、「焼き払い、犯し、奪い、殺した」ことを立証する戦争体験記には事欠かない。私自身も直接いくつも見聞している。

もちろん日本軍の中には、残虐行為とまったく関係のない部隊や個人もたくさん存在したし、もっとも残虐行為の多かったとされる中国でも、駐屯地からの撤退に際して、県政府が別離の宴をはってくれたり、感謝状を贈呈されたり、民衆から名残りを惜しまれた部隊も決して例外ではなく、永久駐屯を望まれたことさえある。

それに、国際法違反、残虐行為は日本軍以外にもドイツ軍はもとより、連合軍側にもあったことで、ことにソ連軍が戦争が終ったあとでさえ、その占領地で、戦争中の日本軍、ドイツ軍に匹敵するほどの、すさまじい暴虐性を発揮したことは指摘しておかねばならない。

だがそのことは、日本軍の非人道的な行為を許容する理由にならないことはいうまでもなく、われわれはみずからの国の軍隊が犯した犯罪行為に目をそむけることなく直視する必要があろう。

その実情については多くの記録が刊行されているが、なぜ日本軍はそのような蛮行に及んだのか、ということに関する説明はあまりみられないようである。反省や謝罪という語句はしょっちゅうみるが、原因の究明はさらに重大なはずである。」(同書126-127P)

以下はブログ「終戦70年、日本敗戦史(85)から

東條首相は「ハーグ及びジュネーブ条約」を無視して捕虜に労働を強制

大東亜戦争で「ハーグ及びジュネーブ条約」を無視して捕虜虐待を指示したのは、捕えられたるドゥリットル麾下の飛行士八名に対して、捕虜取扱に関するハーグ、ジュネーブ条約に違反して国際正義に反する極刑を下した点にも一端が表れている。

昭和十七年四月二十九日、市ヶ谷、陸軍省の大臣応接室で総理大臣兼陸軍大臣東条英機も主催で恒例の局部長会報が開かれた。席上、最も重要なる議題は、捕虜の取り扱いの問題でフィリピンのバターン戦闘やマレイ、ジャバ、フィリピンの領有で十万にもの捕虜かかえて、どうするかが論議された、

捕虜情報局長官兼管理部長・上村幹男中将

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E5%B9%B9%E7%94%B7

は「捕虜の取り扱いはすでにハーグ及びジュネーブ条約において規定されているから、この条約に準拠して一切を処置すべきである」と主張した。これに対し東条首相は

「太平洋戦争は過去における日清、日露戦争とはその性質を異にする。則ちこの戦争は、亜細亜の解放戦争である、人種戦争である。故に白人捕虜の取り扱いは国際条約の規定に捉われることなく、次の原則に従って処断すべきである。

  • アジアの諸民族に対し日本民族の優秀性を示すために、現地のみならず、満洲、中国、朝鮮、台湾などに収容所を設置すること。
  • 戦争遂行上に必要なる労力の不足を補うため、働らかざるものを食うべからずとの原則に基き、下士官のみならず、将校も総てその有する特技に応じて労働に服せしむること」と主張した。

上村氏は「条約の無視は後日問題を惹起する恐がある」と一応は反対したが、東条氏は言下にこれを拒否した。この東條の方針が、捕虜虐待、残虐行為につながったのである。

「バターン死の行進」での若槻の指摘する6項目の日本の残虐行為の原因

今次の戦争で日本軍が敵の捕虜や住民に対し蛮行に及んだ理由について、若槻は六項目を考えて、重要性の少ない順序に指摘している。

ウィキペディア「バターン死の行進」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2

第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島日本軍に投降したアメリカ軍フィリピン軍捕虜民間人が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120kmで、その半分は鉄道とトラックで運ばれ、残り42kmを3日間徒歩で移動した。

大江志乃夫「昭和の歴史③天皇の軍隊」小学館(1982年)によると

「バタアンの米比軍捕虜約五万、難民をくわえると八万人ちかかった。食糧不足で体力がおとろえ、マラリアにかかっているものも多かった。日本軍はこれらの捕虜をサンフエルナンドまで六〇キロ、炎天下の道を徒歩行軍させた。多くの捕虜が路傍にたおれ、死んだ。〝バタアン死の行進〃とよばれ、戦後、本間中将はこの事件で戦争犯罪を問われ、銃殺刑となった。

一口に〝バタアン死の行進″というが、事件は二つある。一つは辻大本営参謀が「大本営命令」と称して専断でだした捕虜殺害命令事件であり、第二が前記の行軍事件である。辻の事件の証言者は第六五旅団の歩兵第一四一連隊長今井武夫大佐(30期)である。参謀本部第二部支那班長、同支那課長、支那派遣軍参謀(第二課長)をへて、少将進級への必須課程である連隊長勤務にでていた今井は、四月一〇日、参謀の松長梅一中佐(31期)から電話で、

バターン半島の米比軍高級指揮官キング少将は、咋九日正午降伏を申しでたが、日本軍はまだ全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていない。各部隊は手もとにいる米比軍投降者を、一律に射殺すべしとする命令を伝達する。貴部隊もこれを実行されたしと、伝達された。

大本営参謀勤務のながい今井は、すぐにこの非常識な命令に疑問をもった。今井は「正規の筆記命令で伝達されたい」と要求し、口頭命令を無視した。しかし、口頭命令にしたがって多数の米比軍捕虜を殺害した部隊もあった。シンガポールの華僑殺害とおなじ手口である。辻政信のこの越権行為の責任は、何も知らなかった本間軍司令官がとらされた。

炎熱下の六〇キロの〝死の行進″は、パタアン半島に食糧や収容施設がなく、自動車輸送力も不足していたことから、多数の捕虜をいそいで後方まで徒歩行軍させなければならないという条件のもとで発生した。しかし、実際には捕虜とともに230両の自動車を捕獲している。病人や体力衰弱者にたいする配慮があれば、多数の犠牲者をだきなくともすんだであろう。日本軍の捕虜蔑視の思想が生んだ事件である」(283-284P)

若槻の問題点の指摘―ネットでの若い人の感覚もこれのおなじである。

まず、日本軍としては格格別悪いことをしているという意識のないものである。

アメリカ兵の捕虜の給食にゴボウを支給したことが、捕虜虐待として戦後のB、C級戦犯(違法行為を命じた者、実行した者)で逮捕されたということを、戦後まもないころ聞いたことがある。日本軍側としては普通のものを食べさせたつもりだったのが、ごぼうを食する習慣のないアメリカ人としては、給食に木の根、草の根を用いたのは虐待と認めたということであろう。

この話は今回執筆にあたって確認できなかったので、真実か冗談かはわからないが、これに類することは捕虜や住民との関係で数多くあったにちがいない。下級者がへまをやったり、のろのろしていたら、これをぶんなぐるのは日本兵としてはごくあたりまえのことである。したがって、勝利者の立場にある日本兵としては、捕虜や原住民は、「下級者」ともいうべき存在であろうから、同一行動に出たのも不思議ではない。

第二章の「どうして日本兵は勇戦敢闘したのか」でくどいばかりに書いたように、日本軍隊には自由だとか権利だとかいうものは一片も存在しない。したがって自由の国、民主主義の国の捕虜が日本軍隊の管理下に有刺鉄線の中に閉じこめられたなら、彼らにとっては、生活のすべてが人道無視の虐待行為と感じたにちがいない。

日本軍の管轄下に置かれた占領地住民についても似たようなことがいえる。戦争中、軍人は一般国民を見下して横暴なふるまいはめずらしくなかったし、日本国内でも憲兵は容赦なく民間人を逮輔し、場合により拷問を加えた。まして占領地なら勝手放題のことをし、苛酷な弾圧政策をとることは、たいして気にもしていなかったのであろう。

次の事実も「日本軍としてあたりまえのこと」が犯罪となった例である。

一九四二年春フィリピン攻略戦のとき、バターン半島に立てこもった一部民間人を含むアメリヵ・フィリピン軍八万が降伏した。日本軍は彼らを補給基地サンフエルナンドまで」ハ〇キロを歩かせ、その結果、途中、疲労と食糧不足とマラリアのため多くの死者を出した。これが「バターン〈半島)死の行進」といわれるもので、当時のフィリピン方面軍司令官本間雅晴中将は戦後その責任を問われ、マニラで銃殺刑に処せられている。

私はもとよりこれを弁護するつもりはないが、自分たちでさえろくに食べられないで戦闘していた日本軍に、いきなりその統制下にはいった八万の捕虜に充分な給食をするような食糧の余裕があるはずはない。ましてこれだけの人数を迅速に運ぶトラックやガソリンを持っていることはけっしてありえない。もともと、食うや食わずで、そこらのものを略奪して飢えをしのぎながら、ひたすら歩くのが、勝っているときも負けているときも、日本軍の姿なのである。

日本の軍隊では行軍中脱落すれば、戦争も初期の余裕のあったころは、これを収容するよう努めたが、中期以降は、南方各地はもとより、勝っていたとされる中国戦線でも特別の場合は別として死ぬよりほかはなかった。行軍途中で落伍して死んだ日本兵は、太平洋戦争の全期間を通じて、おそらく万の単位ではおさまらず、十万を超えることは確実ではないかと思われる。

戦犯の責任を問われた個人としての日本軍人のために弁解すれば、こういう種類の残虐行為は、日本軍隊と先進国の軍隊との〝常識〟の違い、文明の程度の差といえるかもしれない。

なお、文明の差は日露、日独戦争当時も同じだが、この時代は、日本はみずからが西欧諸国より野蛮な国であることを自認しており、捕虜を自国の兵隊以上に好過したのである。それが今次大戦では、わが国は「万邦無此」、すなわち世界一すぐれた民族だと狂信していたところが決定的に異なっている。」(129-131P )

つづく

 - 戦争報道 ,

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