前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

「陸羯南の日清戦争論」➁韓国問題が日清、日露戦争の原因である『我東洋問題の起因』(『日本」明治27年11月12号)

      2015/01/01

         

 


陸羯南(くが かつなん)の日清戦争論➁

韓国問題が日清、日露戦争の原因―明治初年から

日清(日中)外交、日朝(日韓朝)外交の年表
 『我東洋問題の起因』②


 

 羯南(くがかつなん)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%BE%AF%E5%8D%97


  『我東洋問題の起因』 【日本】明治27年11月12日号

 

 

 

  明治五年正月、上海に領事館をおきて徒杖(懲役刑のこと)以下

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1427522854

 

の裁判権を付与す、同二月、少弁務使・柳原前光

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E5%89%8D%E5%85%89

 

を清国に遣わし、宗城の議定を取消すことを交渉させた。李鴻章はこれに従わず。同八月、外務大丞・花房義貿を朝鮮に遣わし釜山に官吏を置く。同九月、琉球を藩となし諸外国と直接に訂約することを禁ず。

 

 無条約国たるに拘らず、上海に領事を置き裁判権を行使したのはすこぶ偉とするに足る。

 

当時、我国の清国に対する態度は欧米諸国が我国に対するが如く、一種の不平等条約を行わんとす。伊達の議定はこれに反し双方に領事裁判を容れることの現行のようなものか。

柳原をして弁理せしめたるは我れ独り裁判権を有せんがためなるに似たり。

 

明白ならざれども、その跡を見れば将来、結ぶべき条約に参考となるものが多かった。朝鮮の事といい、琉球のことといい、皆な進取の気を帯びて交渉したのであり、近年とは全く違っていたのである。

 

 ○明治六年二月、外務卿副島種臣を清国に遣わし条約の調印、交渉を行い、同時に台湾生藩が我が琉球人を剽殺したことを告げた。

 

 同三月、日清通商条約の批准は交換される。同九月、征韓の議起る(征韓論)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96

 

 

朝廷は将にこの議を採らんとす。岩倉大使一行、新に帰朝してこれを阻止して、ついに中止となる。

 これより先き、わが政府は太政復古万機親裁の事を韓廷(韓国朝廷)に告げて外交を復旧したいと照会したが、韓延からは返事がなく反って無礼の書を贈ってきた、

 

また江華湾

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

においてわれの軍艦に発砲しすこぶる粗暴の挙にでた。

 

一方においては台湾生蕃がわが琉球民を剽穀したことがあり、これまた不問に付すべきではなかった。当時、創業進為の気性がなお強く残っていたので、征韓論、討台論が起こるのは当たり前であった。

 

そのため、副島種臣を清廷に遣わして台湾蕃族の亡状を告げ、西郷隆盛は韓国の無礼を奏した、皆な当時士心の代表なり。

この時に当り岩倉具視、大久保利通以下の諸卿が新たに欧米より帰り、我が内治改良(内政改革)の一日も緩めるべからずと主張し、海外に事を興す論を非としたために(対外派兵の否定)、東洋問題がまさに起ろうとして、また寝むに(中止)になったことは後人の憾(うらみ)とする所で、且つ文勲武功の軋轢は当時実にその極に達したのである。

 

 ここで裏面の事情はいうのは避ける。表面の状況を以てこれを評せば、当時の国論は欧米に対して恐怖退縮するといえども、臥薪嘗胆の念は全く消えてはいなかった。業は勤めるによって成り、怠ればできない、小功に安んじ厚賞になれ、虚礼以て太平を装飾するときは士心たちまちち腐敗する、

 

まさに、強を捕たんと欲せば、先づ弱を払らいて体力を試みよ、

(西欧列強に対抗するには、弱国とはらって実力を試してみよ)

征韓討台はこれ好試場(チャンス)だったのである。

 

一方には最大の反対説あり、実力を養いてその後に動くべし、国内統一の制度が未だできておらず、民衆はもまだ新政府に服していない、戦いを開くのは不可という。

確かにそうではあったが、国論は抑得ることができず、見よ翌年のことを。事件が続発したではないか。

      

 - 戦争報道

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『Z世代のための日中韓外交史講座⑦』★『「ロシア紙」からみた「日中韓150年戦争史」(66)『(日清戦争開戦2ヵ月後―「新たな世界的強国の誕生」『ノーヴォエ・ヴレーミャ』1894(明治27)年10月4日』★『モルトケに弟子入りした川上操六参謀本部次長のインテリジェンスの勝利』

1894(明治27)年10月4日 『(日清戦争開戦2ヵ月後―「新たな世界的強国の …

『Z世代のための日本インド友好史③』★『日本とインドの架け橋』―大アジア主義者・頭山満はインド人革命家・ボースの亡命を受け入れた』★『アジア解放の夢をボ-スに託し、亡命を受け入れて匿い「新宿中村屋」相馬愛藏の娘・俊子と結婚させて「オレが最後に牢屋にゆけばよいのじゃ」と大度量を示した』

  2010/01/19 日本リーダーパワー史(33)記事再編集 前坂 …

『オンライン講座/日本興亡史の研究 ㉒』『日本最強の外交官・金子堅太郎のインテジェンス④』★『日露戦争勝利の秘密、★『『武士道とは何かール大統領が知りたいー金子のハーバード大での名スピーチ④』★『マカロフ大将の死を悼み、新聞に賞賛される』★『日露戦争は正義のための戦いで日本は滅びても構わぬ』★『ル大統領は「日本が勝つが、黄禍論を警戒せよ」と忠告』

    2017/06/23  日本リー …

『トランプ大統領と戦う方法論⑰』★『明治の国家参謀・杉山茂丸の国難突破・交渉力を見習え」➃』★『軍事、外交は、嘘(ウソ)と法螺(ほら)との吐きくらべで、吐き負けた方が敗れる』★『杉山35歳は一片の紹介状も持たず単身渡米して金融王・モルガンを煙に巻き、1億3000万ドル(約1900億円)の融資に成功した。』★『その時のタンカの切り方』

 2024/11/15/記事再編集 2014/08/09 /日本リーダ …

『Z世代のための日本戦争報道論』★『 戦争も平和も「流行語」と共にくる』★『80年前の太平洋戦争下の決戦スローガン(流行語)』★『人々は「贅沢(ぜいたく)は敵だ」→「贅沢はステキだ」●「欲しがりません勝つまでは」→「欲しがります勝つまでは」●「足りん足りんは工夫が足りん」→「足りん足りんは夫が足りん」』とパロディー化して抵抗した』

2014/10/18 記事再録 月刊誌『公評』<2011年11月号掲載>決戦スロ …

『Z世代のための日本・インド交流史講座①』日本リーダーパワー史(33)『日本とインドの架け橋』―大アジア主義者・頭山満とインド人革命家・ラス・ビハリ・ボース』

  2010/01/19 日本リーダーパワー史(33)記事再録 前坂  …

片野勧の衝撃レポート(75)★原発と国家―【封印された核の真実】⑪ (1974~78)ー原発ナショナリズムの台頭(下)カーター米大統領の核拡散防止政策

片野勧の衝撃レポート(75) ★原発と国家―【封印された核の真実】⑪ (1974 …

『安倍・トランプ蜜月外交を振り返る①』★『日本リーダーパワー史(979)ー『トランプ米大統領は2019年5月25日夕、令和初の国賓として来日した』★『140年前、日本初の国賓として来日したグラント将軍(元米大統領)が明治天皇にアドバイスした内容とは何か(上)』

    2019/06/16 日 トラン …

『オンライン/憲法改正講座』★『マッカーサーは 憲法は自由に変えてくださいといっている。 それを70年後の現在まで延々と「押し付け憲法」×「憲法改正反対」の壊れたレコードの『日本ゾンビ政治』★『1週間で戦後憲法を作った米国の超スピード主義』×『その憲法改正を70年間議論している『日本のバカの壁』★『憲法問題の核心解説動画【永久保存】 2013.02.12 衆議院予算委員会 石原慎太郎 日本維新の会』

  2016/03/10  日本リーダー …

no image
『私が私が尊敬した日本人列伝①』★『正義を希求し「死刑と冤罪(司法殺人)と人権擁護で命をかけた正木ひろし弁護士をしのんで』★『その生涯と追憶、著作目録など』

「正木ひろし弁護士をしのんで」 その生涯、追憶、著作目録。及び参考文献 &nbs …