「Z世代のための台湾有事の歴史研究」➂★『2023年台湾有事はあるのか、台湾海峡をめぐる中国対米日台の緊張はエスカレート』★『日清戦争の発火点となった「長崎清国水兵事件」の顛末(てんまつ)』★『同事件の死傷者は日本側は死者2、負傷者29。清国側は死者8、負傷者42』
日清戦争の発火点となった「長崎清国水兵事件」の顛末(てんまつ)
前坂 俊之(ジャーナリスト)
清国の北洋艦隊提督・丁汝昌は一八八六年八月一〇日、旗艦「定遠」に坐来し、「鎮遠」、「済遠」、「威遠」の三艦を率い、長崎港に寄港した。
「定遠」は英国士官のロング大佐が艦長を務め、イギリスやドイツの海軍士官が多数乗り込んで清国士官や水兵の指導に当たっており、航海訓練とデモンストレーションを兼ねていた。東洋一の甲鉄砲塔艦「定遠」、「鎮遠」は共に七二〇〇トン余の巨艦で、日本最大の装甲艦「扶桑」(三七〇〇トン) の二倍もあり、日本人の肝を冷やした。
●清国水兵の「丸山遊郭」での乱暴事件が発端
航海中はイギリス、ドイツ士官の訓練が厳しく、水兵たちも規律正しく行動せざるを得ないが、上陸すれば気分は一挙にゆるむ。清国水兵にはけんか早いのが多い。八月一三日、定遠の水兵五人が上陸して酒を呑み、かなり酩酊(めいてい)した上に、「丸山遊郭」の遊女を買おうとしたが、楼主(店主)に断られた。これに立腹した水兵が持っていた刀で、戸や障子をメチヤメチヤに破損したのが騒動の発端でとなった。
以下、木下宗一(元大阪朝日新聞社会部長)著『秘録日本の百年(上)』人物往来社、1967年、192-197P)によると、事件の経過は次の通リだ。
1886年(明治十九)八月二日、清国の北洋艦隊水師提督・丁汝昌は定遠、鏡遠、威遠、済遠の四隻を率い長崎港に入港した。時を同じくしてロシアの東洋艦隊も、旗艦ウラジミル・マーマック号に同国海軍大臣が同乗して入港しており、さらに英国艦隊九隻は対馬沖にあって目を光らせていた。当時、英国は朝鮮沖にある小島巨文島を占拠しており、露国は朝鮮の東北にあるラザノフ港をねらっていた。
朝鮮を属国視する清国政府はロシアのこの野望を見抜き、露国の東洋艦隊がウラジオを出港したと知って急きょ、丁汝昌の北洋艦隊をして尾行させたともいわれていたが、また一方、清国は琉球独立の黒幕となり、北洋艦隊の一部はすでに琉球に入り、丁汝昌も近く琉球に向う予定ともいわれていた。
明治維新からやっと立上ったばかりの日本の国力など、英、露、清の三国からみると、赤ん坊のよちよち歩きぐらいにしかみられなかった当時である。このとき清国水兵の暴行事件が起った。
八月十三日夕刻、清国軍艦の水兵五名が長崎市寄合町の丸山遊廓『楽遊亭』に上り、娼妓を揚げて遊興していたが、一旦、外で食事をしてまた帰ってくるといって出ていった。同夜八時頃、今度は別の水兵五名が一杯機嫌でやってきた。
同亭では部屋もふさがり遊女もいないので店の者が断わったが、5名の水兵は「パオ、パオ」と言いながら、どしどし二階へ上ってゆくとそこへ、先に食事に出ていった水兵5名がもどってき、遊女に迎えられて各自部屋に入っていった。
これをみた先の水兵5名は、「おれたちが先に来ているのに、後からきた水兵に遊ばさせて、おれたちを断わるのはどういうわけだ」 といきり立った。同亭の主人のが出てきて 「あの方たちが先客で食事からもどられたのです」と弁解したが、これが通じない。
水兵たちは古道具屋で買ってきたらしい日本刀をふり回し、金襖(きんぶすま)を突き破り火鉢をなげつけるなどの乱暴狼藉である。主人ははこのむね丸山町派出所へ訴え出た。
黒川巡査がとんできて5名を鎮め、そのうちの大虎(酔っ払い)2名に説諭しようとすると、黒川巡査を突きとばしながら5名とも出ていった。黒川巡査は深追いせずそのまま派出所に帰ってきたが、そこへ今度は十五、六名の集団となった清国水兵が押しよせてきた。
その中にさっきの大虎の一人がいるのを見つけた黒川巡査が、その水兵を引きずり出そうとすると、彼らは同巡査を包囲してもみ合いケンカとなった。黒川巡査は大虎のウデをつかんで放さず、相手は日本刀を抜くや同巡査を斬りつけた。頭に重傷をおった黒川巡査は相手に組つき日本刀をもぎとったうえ、逃げる相手を追い、船大工町路上で格闘となった。そこへ急を聞いてかけつけた同僚巡査がやっと水兵・王葵(25歳)を逮捕。頚部に王は一カ月の重傷を負っていた。
●「長崎清国水兵事件」の死傷者は日本側は死者二、負傷者二九。清国側は死者八、負傷者四二。
長崎県知事は早速、内務大臣山県有朋へ通報した。山県は井上馨外相と総理の伊藤博文へ伝えた。伊藤はすぐ寺原警保局次長を部下40人とともに船で長崎へ急行させた。
一夜あけた翌八月十四日の長崎市内は支那水兵が多数横行し不穏の空気が流れていた。彼らは盛んに刀剣類を買いあさっていたといわれる。三日目の八月十五日、この日は清国水兵百数十人仕返しのためが再上陸し、とうとう日清両国の市街戦となった。
この朝八時頃、海岸通りの広馬場派出所に福本巡査が立番中、清国水兵四、五名が通りかかり同巡査の面前で水兵の一人が放尿した。これを制止すると、路に落ちていた西瓜の皮をひろって同巡査の顔をなでた。はね返されたその西瓜の皮が、傍らにいた水兵三名に当ると、この三名が同巡査を囲んで袋だたきにした。
夏の朝の海岸通りは人通りがはげしい。この理不尽な清国水兵の態度に、傍観してしていた市民が怒り出し、ついに「白ドッポー組」がとび出した。この白ドッポー組というのは車夫を中心とする団体で、東京の鳶職(とびしょく)と同じく威勢のいい連中が多い。
この連中が「アチヤば、やっつけろ!」と立ち上った。アチャとはアチラサンから出たらしく、長崎に多数渡来している清国人のことである。
水兵危しとあって、上陸していた清国士官が警笛を鳴らし、水兵の集合を命じて白ドッポー組と入り乱れての乱闘となった水兵隊はかくし持っていた日本刀や青竜刀を抜き放ち、ドッポー組も日本刀や出歯包丁を振ってこれに対抗した。
アチヤさんの家の貿易商や支那料理店の二階からは清国水兵のため刀剣類が投下され、これに気勢上った水兵は警官隊やドッポー組をじりじりと押していった。警官隊はそれまで帯剣をかたく戒め、無手で対抗していたため一歩一歩、後退し、ついに梅ガ崎署まで退い
た。周署長の江口警部はやむなく最後の断を下し「抜剣」を命じたので、警官隊は一斉に躍り出し、ここに日清の大乱闘、市街戦が展開された。
周辺の店舗は裏戸をおろし通行は全く止った。急を聞いてドッポー艇は刻一刻と数を増し、武器をもたぬ連中は屋根にかけ上り、瓦をはいで水兵隊に投げつけた。この乱闘は夜半まで続けられたが結局、水兵隊が軍艦引上げて修羅の現場もおさまった。しかし街のあちこちには血まみれ姿が放ってあったので、日本側の手で病院に運ばれた。
水兵たちは大浦のドイツ人ホテルを仮収容所にして手当を施した。長崎予審裁判所で取調べにかかったが、柏手が外国人であるため清国領事の立会いを求めることになり、この旨連絡したがなかなかラチがあかぬ。十六日午前二時に至り、領事の蔡幹がやっと腰を上げた。しかもそれが清国式の大ゲサなものである。
行列の先頭に「大清国領事街門」と大書した高張提灯一対を押し立て、その後から銅羅(どら)を打ち鳴らしての尊大ぶり。双方で臨検が終った時はもう朝になっていた。
この結果、日本側の被害は死者二、負傷者二九。清国側の死者八、負傷者四二。双方の死傷者数八十名という一大事件に発展した。
●解決金は日本側五万五千円、清国側一万五千五百元で和議が成立
この事件は外務省に移され、取調局長鳩山和夫(故鳩山一郎の父、鳩山由紀夫の曽祖父)は外務省顧問米国人デニソンを同伴して長崎へ出張、清国側より日本駐在参賛官・楊枢が顧問の英国人ドラモンドを同伴してきた。双方審理の末、水兵の王葵を逮捕した際、警官が捕縄を用いず普通のワラ縄を用いたのは、清国軍人を侮辱したもので、非は日本側にありということになった。
事件はもともと清国水兵の乱暴から起こったものに清国は謝罪せず、逆に日本側の対応を非難した。 清国側は「日本の警官の帯刀禁止」までも要求、日本側が一切悪いとの主張を繰り返し、日本側は押し切られた。結局、ドイツ公使が仲に入り、翌年二月に
①事件の関係者はそれぞれの自国の法律によって処分する
②犠牲者には自国政府が見舞金や弔慰金を払ういう大甘の内容で決着、日本側は五万五千円、清国側は一万五千五百元を支払うことで和議が成立した。
しかしこの外交談判には国民が承知しなかった。軟弱外交として世論沸騰し、各地でかなりの騒ぎをまき起した。
●清国の新聞『申報』の大言壮語
当時、清国を代表する新聞『申報』(一八八六年一一月二三日付)は「客人と近年の中日情勢-長崎事件などを語る」 で次のように論評した。「日本はまだ清国の敵ではないのです。日本が学んでいるのは、西洋文明の上っ面だけであって、本質ではないことを知らないのです。
いたずらにうわべを飾って隣国に誇っているのであり、富強な国などとは言えません。ではわが清国はどうでしょうか。国土は広く物資は豊富であり、一人省を合わせれば、租税収入は毎年数千万両にのぼります。
日本は土地がとても清国に及ばないのです。日本では去年、徴兵制を施行しました。一家に二人以上の青年男子があれば、その一人は必ず徴兵されることになったのです。一方、わが清国には、陸海軍を合わせて一〇〇万を下らない兵士がいます。平素から訓練を受け、よく息がそろい、一度事が起これば、朝に召集され、夕べには軍に編成することができます」
このように例によって中華思想の大言壮語をしているのである。この巨大清国軍の実力は、いざ日清戦争でふたを開けてみれば、日本の圧勝で清国は「張り子のトラ」の正体を世界に暴露することになった。
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