『ウクライナ戦争に見る ロシアの恫喝・陰謀外交の研究⑨』日露300年戦争(5)『露寇(ろこう)事件とは何か』★『第2次訪日使節・レザノフは「日本は武力をもっての開国する以外に手段はない」と皇帝に上奏、部下に攻撃を命じた』
日露300年戦争(5)
結局、幕府側の交渉役の土井利厚生https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E5%8E%9A
は儒家・林述斎に相談し、「ロシアとの通商は『祖国の法』によって不可能である」との結論から「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。
もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」との態度をとった。
レザノフは当初は長崎周辺の海上で待たされ、出島付近の幕府の滞在所への上陸が認められたのは約2か月後で、そこでも自由な出歩きを制限され半年間も待ちぼうけを食わされた。
レザノフの要求した船の修理や食料も提供も不十分のまま一方的に通商の拒絶を通告されたのである。
これにはレザノフはカンカンに怒り「日本は武力をもっての開国する以外に手段はない」と帰国後、皇帝に上奏した。
ところで、当時の幕府の交渉の内幕をみると、最初のラグスマンの要求に対しては、長崎以外での貿易を禁じていたが、長崎での貿易は許容する用意があった。
時の老中松平定信も、ロシアの軍備とわが国の実力を比較し、開港の免れ難いのを悟り、長崎で交易を許すことに決め、テグスマンにもその内諾を与えていた。
ところが、レザノフ来朝当時、日本沿岸への度重なる外国船の来航、事件から「異国船打ち払い令」https://kotobank.jp/word/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%88%B9%E6%89%93%E6%89%95%E4%BB%A4-30343
の強化に傾いており、長い論争の末に、拒絶を決めたのである。
帰国の途についたレザノフは帰途に就いたが、日本西海岸を北上、宗谷に向い、転じて樺太に至り、五月二十五日アニワ湾サロンバイhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9C%E5%BA%AD%E6%B9%BEhttp://hakodate-russia.com/main/letter/21-02.html
に停泊。
この場所は 1853年4月11日にロシア皇帝のサハリン占領命令が下し、サハリンにおける日本人の拠点であるクシュンコタン(現在のコルサコフ)のすぐそばにムラヴィヨフ哨所を築いたところである。
ロシア人にとって島での最初の拠点となった。
レバノフは同島に上陸調査したあと、ペトロパウロウスグ港https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
に帰着した。
ここで、当同港に来ていた露米会社の部下の海軍士官のニコライ・フヴォストフとダヴィノアの二人に、日本に対する示威運動と報復を命令した。
1806年(文化3)4月にはフヴォストフらは樺太の松前藩の居留地、択捉島駐留の幕府軍を攻撃した。択捉島の番人の中川五郎治https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%BA%94%E9%83%8E%E6%B2%BB
ら2人が拉致し、シベリアへ連行した。
続いて同年10月、樺太で松前藩の出先機関として運上屋(交易場の経営拠点)が襲撃され、交易の拠点で北前船も寄港していた久春古丹(クシュンコタン)もロシア兵50数名が上陸し銃で攻撃してアイヌ元住民や運上屋の番人らを拉致、米六百俵と雑貨を略奪し、家屋、魚船を放火破壊し、4人を拉致しカムチャッカに抑留した。
1807年(文化4年)4月23日、再びフヴォストフらのロシア船二隻が択捉島の西の内保湾に入港した。箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎は兵を率いて内保まで海路で向かったが間に合わず、内保の南部藩番屋が襲撃され、番人5人が連れ去られた。
続いて4月29日、ロシア船が今度は択捉島の紗那に入港した。
箱館奉行配下の通訳・川口陽介に白旗を掲げてロシア兵を迎え入れようとしたが、ロシア兵は上陸後に銃撃、川口は負傷し、津軽・南部藩兵との間で銃撃戦となり、日本側は苦戦。夕刻にロシア本船から艦砲射撃されて日本側は敗退する。火器に圧倒的な差があった。
同島の情勢調査に駆けつけていた幕府隠密の間宮林蔵らは徹底抗戦を主張したが、幕府側の指揮官の戸田又太夫、関谷茂八郎は紗那を捨て撤退した。戸田は、留別へ向けて撤退中の野営陣地で敗北の責任を取って自害した。
5月1日、日本側が引き揚げた紗那幕府会所にロシア兵が上陸。倉庫から米、酒、雑貨、武器、金屏風などを略奪、放火する。
さらに6月にかけても礼文・利尻周辺の日本船の襲撃、拿捕、焼打のほか利尻島にも上陸しそれぞれで略奪・拉致の事件が相次いだが、これら一連の襲撃は「文化露寇」「フヴォストフ事件」と呼ばれている。
1807年(文化4)、危機感を強めた幕府は箱館奉行を改称して松前奉行を設けて、津軽、南部、庄内、久保田(秋田)の各藩から約3,000名の武士を増兵し宗谷や斜里などの蝦夷地(北海道ほか)の要所の警護にあたった。
こうした中、文化4年には斜里に駐屯していた津軽藩士70名が厳寒の越冬中に相次いで寒さなどで病死する「津軽藩士殉難事件」が起きている。
こうした緊急事態に幕府は1806(文化)3年1月26日、異国船打払令を廃止し、薪水給与令を発布していたが、ロシア船の度重なる襲撃に対しては幕府は翌文化4年11月、次のような霹船打払令を公布した。
⑴オロシャ船(ロシア)と見受ければ、厳重に打払い、近付いてくれば捕らえて、又は打捨てること
⑵万一難破船、漂着に紛れてきた船員等もその場にとどめ手当をすること
⑶中でもオロシャの不時着の場合には、きびしく、油断なく対処すること
に決めた。
1807年3月にレザノフが病死し、1808年にロシア軍の暴挙を聞いた皇帝アレクサンドル1世が全軍撤収命令を下し、フヴォストフは処罰された。ロシア側の襲撃は収まったのである。
関連記事
-
-
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑥』-服部宇之吉著『北京龍城日記』(大正15年)より②」★『著しく現世的で物質的/拝金主義の支那(中国)人民にとっては、来世的、禁欲的なキリスト教精神は全く理解できずパーセプションギャップ(認識ギャップ)が発生し、疑惑が増幅し戦争になった』
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑥』 西教(キリスト教)に対 …
-
-
「経済成長戦略には何が必要か」「武田薬品工業の長谷川閑史社長」「東レの日覺昭廣社長」の記者会見動画(3・14,19)
日本記者クラブ会見動画 「経済成長戦略には何が必要か …
-
-
『鎌倉カヤック釣りバカ日記・動画回想録ー2015年元旦、めでたくもあり、めでたくもなし>★『古希超・独歩独語』「一日一生」「一瞬永遠」「生き急ぎ、死に急げ」★『正月おせち料理』★『KAMAKURA和賀江島ー透明のブルーシーをカヤックから海底散歩、富士山すげーよ』
2015/01/06 ★<201 …
-
-
『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』➉福沢諭吉の「脱亜論」と時事新報主張に全面的に賛成した英国紙
『中国紙『申報』からみた『日中韓150年 …
-
-
世界が尊敬した日本人(33)「地球を彫ったコスモポリタン「イサム・ノグチ」世界から尊敬された日本人ではなく、日本主義と戦い、 乗り越えることでコスモポリタンとなった」
世界が尊敬した日本人(33) 地球を彫ったコスモポリタン「イサム・ …
-
-
終戦70年・日本敗戦史(89)「バターン死の行進」以上の「サンダカン死の行進」ー生存率は0,24% という驚くべき事件①
終戦70年・日本敗戦史(89) 「バターン死の行進」以上の「サンダカン死の行進」 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(332)記事再録★-勝海舟(76歳)の国難突破力―『政治家の秘訣は正心誠意、何事でもすべて知行合一』★『すべて金が土台じゃ、借金をするな、こしらえるな』★『1千兆円(2012の時点)を越える債務をふくらませた政治を一喝、直ぐ取り組めと厳命)
2012/12/04 /日本リーダーパワー史(350)記事再録 ◎明治維新から1 …
-
-
「Z世代のための日中外交敗戦10年史の研究(上)」★「2010年9月の尖閣諸島周辺での中国漁船衝突をめぐる日中対立問題で、中国側が繰り出すジャブに日本側はノックアウトされた。」★「 明治のリーダー養成法とは ーリーダーは優秀な若手を抜擢し、10年、20年かけて長期的に育てよ」
日本リーダーパワー史(96)名将・川上操六⑭日露戦争勝利の忘れられた最大の功労者 …
-
-
『世界漫遊/ヨーロッパ・パリ美術館ぶらり散歩』★『オルセー美術館編』★『オルセー美術館は終日延々と続く入場者の列。毎月第一日曜日は無料、ちなみに日本の美術館で無料は聞いたことがない』
2015/05/18 『F国際ビジネスマンのワールド・ …
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(20』『オーストリア・ウイーンぶらり散歩④』『旧市街中心部の歩行者天国を歩き回る』★『ウイーン国立歌劇場見学ツアーに参加した。豪華絢爛、素晴らしかったよ』
2016/05/17 『F国際ビジネスマンのワールド・カ …
- PREV
- 『ウクライナ戦争に見る ロシアの恫喝・陰謀外交の研究⑧』★日露300年戦争(4)『露寇(ろこう)事件とは何か』★『ロシア皇帝・アレクサンドル一世の国書を持って、通商を求めてきた第2次遣日使節・ラスクマンに対しての幕府の冷淡な拒絶が報復攻撃に発展した』
- NEXT
- 『『ウクライナ戦争に見る ロシアの恫喝・陰謀外交、日露戦争の研究⑨』』「1903(明治36)年1月3日 付『英タイムズ』『満州とロシア鉄道』(下)『ロシアが軍事占領した満州の都市建設の全容』★『義和団の乱の報復のため阿什河は満州で最大の被害を被った町だ。』●『満州人は誇り高く,経済観念が乏しく,アへン中毒者が多く反キリスト教で.貧乏だ。』