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『中国近代史100年講座』★『辛亥革命で孫文を助け革命を成功させ革命家・宮崎滔天兄弟はスゴイ!、宮崎家は稀有な「自由民権一家」であった。(下)』★『1905年(明治38)8月20日、東京赤坂の政治家・坂本金弥宅(山陽新聞社長)で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同で「中国同盟会」の創立総会が開催され、これが『辛亥革命の母体となった。』

      2021/07/06

 

『辛亥革命100年』・今後の日中関係を考えるヒント②」記事再録

 前坂俊之(ジャーナリスト)

 

 同年9月1日、滔天は横浜で初めて孫文に会った。大陸風の豪傑を想像していた大男の滔天は自分とまるで反対の身長わずか156㌢のきゃしゃで紳士的な孫文に失望した。対座した孫文は寝起きのままの姿で口も聞かず、挙動に重みがないので滔天はがっかりした。

豪傑を期待していた滔天には物足りなかったが、問いに応じて中国革命の方法や目的を語り出すと、初めは処女のようだった孫文はいつしか脱兎のような勢いついには猛虎が深山で吼えているように見えてきた。

孫文の答えは簡潔だが要点を押さえ、道理にかなっていた。滔天は孫文の革命家としての見識とその人物に一度に敬服した。

 
「私は恥ずかしく思った。孫文のような人は天真の境地に達しており、その思想の高尚さ、識見の卓抜さ、どれをとって日本人にはいない。実に東亜の珍宝であり、私は彼に傾倒するようになった」と『三十三年の夢』で書いている。
この時の2人の会談は筆談で行われた。孫文は英語は堪能だが、日本語はダメ。滔天は英語はダメだが、漢文なら書ける。二人の意思の疎通ができる漢文を使っての筆談で、半紙に主に毛筆で書き続けられた。
その漢文も中国語の文語体での筆談だった。この時以来の孫文と滔天の会談は漢文による筆談で行なわれ、この記録の一部は今も宮崎家に残されている
 
外務省には「報告書の代わりに見本を一匹連れてきた」と孫文を紹介した。
以後、約十年におよぶ孫文の日本亡命中、滔天はつねに身元引受人的な役割を果たして、武器の調達からほう起の活動など革命実現のためのあらゆる援助、行動を惜しまなかった。辛亥革命の前後の困難な時期を通じても2人の信頼関係は揺るがなかった。
 
孫文は号を「中山」と称して、宿帳には日本名で「中山樵」と書いたり、自ら「孫中山」と名乗った。このいわれは孫文と滔天ら3人が宿泊先の旅館に向かっていた際、清朝政府から指名手配されており、本名を書くわけにはいかない。ちょうど中山公爵邸宅の前を過ぎた所で孫文が「これがいい、中山だ」とこれを拝借して宿帳には「中山樵」と記した。
この名を孫文は気に入り、自ら「孫中山」を名乗るようになった。「中山先生」は孫文へ敬称となり、いまも中国各地に「中山路」「中山公園」などの名が数多く残っている。
 
 孫文の三民主義、共和主義、アジアを侵略する列強への憤り、人類同胞主義などは滔天の思想とピタリと一致した。兄・民蔵の土地復権の、嘉と孫文の民生主義の「平均地権」はうり二つのものであった。
 
 
 
 
 
 
 
以後、滔天は孫文の革命運動の絶対的な支持者として、犬養にも紹介し、2千円をカンパするなど、すべてをなげうって献身的に応援した。
ところで、滔天は当時としては180㌢近い身長のとびっきりの大男で、風貌魁偉で、顔は髭だらけで、いつも背をかがめて鴨居をくぐるのが癖で、しかも髪を腰まで伸ばしていたため、その少しはにかんだ表情と相まって、日本人離れした顔立ち、風体の際立って目立つ男であった.
 
 
 
アジアを股にかけていた滔天は、外国人から聞かれると「父は中国人、母は日本人、祖父はインド人なり」と自らを説明していた。
 その上、「ボロ滔天」とのニックネームで 呼ばれたほど、全く身なりにかまわなかった。それというのも金がなかったせいだが、何年も洗っていない和服を着て、その袖はいつも鼻をかんで拭くためテカテカに光っていた、といわれる。
 
 旅館や待合を定宿にし、革命談義で飲み明かし、飲み代や宿泊代の借金を踏み倒したりすることもしばしばだったが、人気があり、芸者や女将には大変もてて愛人が多かった。革命支援の滔天の志に打たれて、カンパする芸者も少なくなかった。
 滔天は、生涯、酒を愛し、浴びるほど洒を飲んだが、それとは反対に金には恬淡としていた。それ以上に、金銭を全く汚らわしいものとして、財布を一切持ったことはなかった。
 
金銭という文字を書くことまでも嫌い、「新郎」(後から付いてくるもの)と書いたほどだった。父・長蔵は子供たちに幼い時から「金は阿堵物。男子は金などに心を奪われてはならぬ」と固く教えていた。滔天にはそれが染みついていた。革命に没頭した滔天は、家庭のことはまるで眼中になかった。定職がないので収入はない。財産を叩き売り、売り食いでつなぎ、知人、同志、縁者、芸者、愛人からのカンパ、支援でしのいだ。
 
 フィリピン独立蓮動へ武器供給のために船をだして沈没したり、孫文が中国で革命をおこすための軍資金、武器の調達に走り回り、同志を募った。
 もちろん、家計は火の車だった。妻の槌子が思い余って相談すると、「革命のための金はできるけれども、妻子を養う金はない。お前で何とかしろ」と一向に顧みなかった。
 槌子は前田案山子の三女で、前田家は「他人の土地を踏まずに熊本までいける」と言われたほどの熊本で有数の資産家であった。その前田家や宮崎家は先祖伝来の土地、田畑、屋敷、骨董類も次々に売り払い、そのすべてを滔天の活動費につぎ込んだ。
 
 苦労知らずのご令嬢から、革命家の妻となった槌子はいきなり貧乏のどん底にたたき込まれた。生活のために必死に働き、三人の乳飲み子を養育しながら、滔天の革命資金作りに奔走して、夫を支えた。
 
 熊本で初め、慣れぬ下宿屋をしていたがうまくいかず、次は石炭の小売り店、石灰屋、牛乳屋と転々と商売替えしながら 身を粉にして働き、がんばったが、病苦で倒れることが何度かあった。
 しかし、どの商売もうまくいかず、結局、子供を連れて夜逃げ同然で上京した。滔天一家は生涯、貧乏から離れられなかった。滔天がタイに行っている時、生活に困った槌子が手紙で窮状を訴えると、滔天は「貧乏はわれわれの身についた病気でなかなか治らない。貧乏はわれらに当然とあきらめ下され」と慰めともつかぬ返事を出している。
浪曲師になる
 
1900年(明治33)6月、滔天は孫文の第2回目の挙兵の準備のためにシンガポール に渡るが、ここで投獄され5年間の追放処分をうけ、帰途に立ち寄った香港でも同様の処分をうけた。10月に孫文は中国・恵州で挙兵したが、再び失敗する。
 
革命蜂起にことごとく失敗し、滔天は失意の底に落ちた。1901年(明治34)これに輪をかけた貧苦が重なり、どうしようもなくなった時、突然、滔天は浪曲師になると宣言した。浪人界からの脱落宣言であった。
 
滔天は犬養毅のところへ相談に行くと、「考えて置く」といって、後で長い手紙で、「止めよ」という。その後、頭山満のところへ行くと、「よい思いつきじゃ。貴様なら出来るだろう。やるがよろしい。賤業でも何でも、自分で働いて生きて行くのは、何よりよいことだ」と賛成する。そこで滔天は腹を決めて、雲右衛門のところへ行った。
 
(写真は)荒尾市上小路にあった宮崎邸。亡命中の孫文も何度も泊った。
 
 兄・民蔵、槌子には「浪人の身で、他人の世話にならずに家族を養っていくのは難中の難事だ。食っていけないといっても商売もやれず、商売をやっても士族の商法で金にならず。歌って客の喜捨をうけることは、卑しいことではあるまい。歌をうたえば憂さばらしにもなる。しばらく坊主になった気で、浪花節の弟子入りをしようと思う」
と打ち明けたが、二人とも仰天し、必死になって、思い止まるように説得したが決意は固かった。
 滔天は浪人はやめると言っても、志を変えたのではなかった。軍費を調達し、同志を集めるには浪曲師となり、全国を回り、金をつくり、それを木の葉のようにまき散らして、「天下をとってみせてやる」と意気軒昂であった。

 

 桃中軒雲右衛門の門に入って、桃中軒牛右衛門を名乗り、自らの体験や政治についての自作浪曲「落花の歌」を語って、大正初年ごろまで高座に立った。当時、人気随一の桃中軒一座は全国を巡業して回っていたが、大変な人気であった。

 

「落花の歌」はー。
「一将功成りて万骨枯る、国は富強に誇れども、下万民は膏の汗に血の涙、
飽くに飽かれぬ餓飢道を、辿りくて地獄坂、
世は文明じや開花じやと、汽車や汽船や電車馬車、
回はる轍に上下はないが、乗るに乗られぬ因縁の、からみくて火の車、
推して弱肉強食の、剣の山の修羅場裡、
血汐を浴びて戦うは、文明開化の恩沢に、漏れし浮世の迷ひ児の、
死して徐栄もあらばこそ、下士卒以下と一と束、
生きて帰れば飢に泣く、妻子や地頭に責め立てられて、
浮む瀬も無き窮境を・・・・・・」
 
 滔天は「新浪花節」として、自らが経験した政治講談を、名調子とはいかないが唸っていた。しかし、熊本なまりの強い滔天には、東京弁のタンカは切れない。武士や子供の声色も使い分けねばならず、うまくいかなかった。しかも、口下手で小心な滔天は出演の前には食事もノドを通らず、口演時間が近づくと緊張で心臓がバクバク破裂しそうになり、酒をあおって出ることが多かった。
 
客席はいっぱいというわけではなかった。客足も滔天の下手な口演で、ガラガラの日が多く、収入は1日わずか40銭ほどのことも。名の通った福岡や九州ではいざ知らず、関西では滔天の知名度は今ひとつ。
 
大阪では閑古鳥が鳴いて、着て出る衣裳もない。知り合いの政治家に無理やり頼んで羽織紋付、下着、ジバン、オビ、袴まで新たらしいのを貸りてやっと講演に出たかと思うと、神戸では全然受けず、滔天一座は、コソコソ岡山へ夜逃げ同然に消えていったことも。三度の食事を一回で済ませたことも度度あった。貧苦よりの脱出は容易ではなかった。
 

中国革命の夢、成就する

 

 家族は明治38年(1905)2月に上京し、東京新宿・番衆町に滔天と一緒に暮らしていたが、この頃から中国人の留学生が土曜日、日曜日などひっきりなしに滔天を訪ねてくるようになる。

 ちょうど、2年前に33歳の滔天は半生を振り返って中国革命の自伝『三十三年の夢』を書き、出版され、翌年、この中の孫文の部分が中国語訳「孫逸仙」として、また、全訳「三十三年落華夢」が本国で相次いで翻訳出版された。

 この結果、中国の知識人、留学生の間で初めて孫文の存在が知られてきたのであった。中国国内では、それまで孫文について書かれたものはなく、「広州湾の一海賊」といったぐらいの認識しかなかった。滔天の書によって初めて革命家・孫文の実像が、広く中国で知られるようになったのであった。

 日清戦争で敗れた清国は明治29年に官費留学生13人を初めて日本に送りこんで以来、その数は毎年急増して、明治37年には官費、私費留学生合わせて2400人、翌年は8000人、そして最高の1万2千人と急増した。こうした留学生の中で、革命に関心を持った学生や亡命してきた革命家が次々に滔天を訪れ、滔天はその留学生たちに革命への熱い情熱を吹き込んだ。

 わずか四畳半、六畳の二部屋しかないような狭い滔天のボロ借家に家族5人のほか居候、食客、留学生、亡命革命家ら次々に転がり込んできた。

 家はいつも人でいっぱいだったが、風呂を沸かす燃料を買う金もないため、長男龍介(後の東大新人会リーダー)ら子供が近所にたきぎを拾いに行ったり、お客に出すお茶にもこと欠くありさま。息子・龍介が証言する。

「父はすこぶる酒を嗜んだ。時には日本側の同志ばかりで飲み、時には支那の同志もうち混って、朝から痛飲することもあった。月末には米屋に支払う金が無くても、無理算段をして、なにがしかの金を酒屋には入れた。たまたま支那から老酒の土産を貰うと『これで天下が取れる』と云って、大笑した。

壁のはがれた借家の床の間に老酒のかめを置いて、時時そのかめの横腹を拳で叩いては『まだある、まだある』と云って楽しんでいた。しかし酒とは反対に金銭はひどく卑んだ。金銭を懐に残すことは『町人の仕事』だと云って軽蔑した。

父は外出するにもおそらく、一円以上の金は持っていなかったであろう。父が生涯赤貧をもって終ったのも、極端に金銭を卑んだがためである」(「文芸春秋」1938年6月号)と述べている。

 こうした滔天の潔癖のゆえに、龍介は中学から高校時代まで、いく度となく、月謝未納の掲示を出された。こんな時、母は、自分の衣物を質屋に運んで月謝に変えた。

「第六天町での父の生活は、やはり陰謀と貧困の連続だった。一年足らずのうちに、米屋や酒屋の支払いはだんだんと苦しくなった。もちろん家賃をやである。しかしこの第六天町の生活で、最も感謝すべきことは米屋は別として、洒、味噌、醤油、薪炭などを運んでくれていた三伊の主人である。彼は義侠的な変り者で、支払いが数百円に嵩んでも少しも催促しない。それに小僧の政君、小僧と云っても十八九の若者だったが、毎日酒徳利を入れる小桶を地り出しては、僕らと一緒に撃剣をやる。そして時間を忘れ日暮れてから帰って行く」

 しかし、中国革命の気運はうねりのように高まってきた。帰国した留学生たちは、「華興会」(黄興、宋教仁ら湖北・湖南省出身者を中心にした団体)「光復会」(察元培、秋理らは漸江・江蘇省出身者を中心の団体)など中国各地に革命団体や革命結社を結成していった。

 亡命して日本に逃げてきたこうした革命家リーダーの黄興、宋教仁、章柄麟らが滔天の家に足しげく訪ねてきた。いわば滔天の家が中国革命家の溜まり場となり、中国革命の参謀本部の役割を果たすようになっていった。

 こうした中国からの亡命革命家や帰国した留学生たちは自国では横の連絡は全くなかったが、滔天の家で孫文を頂点にいろんなメンバーが出会い、そうした連中を滔天が庇護し、指導し大同団結させることになった。中国革命をめざす諸連合を統一させる、いわば仲人役,産婆役を果たしたのであった。

滔天が浪花節語りになっていた時、中国革命への貢献に敬意を表するため楽屋へ訪ねてきた黄興を知っていた。滔天が黄興という偉い人がいるというと、孫文は「これからその人を訪ねよう」といい、滔天が連れてくるといっても「そんな面倒は要らぬ。これから二人で行こう」と神楽坂付近の黄輿の止宿先に出向いた。滔天が表から「黄さん」と声を掛けると、黄興と、当時そこに同宿していた滔天の友人の末永節が顔を出す。

ほかにも学生たちも集まっていたので、当局の要注意人物の孫文を家に上げるのはやめて、近くの中華料理店(鳳楽園)へ孫、黄、滔天、末永、黄興側近の張継の5人で出かけた。「彼らは初対面の挨拶もそこそこに、すでに旧知のごとく、天下革命の大問題を話し始める。僕ら(滔天と末永)は、中国語を十分理解する力がないのでそばで酒を飲んでいると、孫文と黄興は2時間ほど酒にも料理にも口を付けずに議論していたが、ついに話がまとまり、祝杯を挙げた」。

(1916年(大正5年)に行われたと見られる座談筆記「宮崎泊天氏之談より」

 

話とは、孫文の率いる興中会と、黄興の率いる華興会が合同して、清朝打倒のために統一した革命運動を展開することだ。まず黄興が在京の中国人留学生に呼びかけ、数百人を集めて孫文歓迎会を開いた。相前後して内田良平宅(黒竜会本部、東京・赤坂) での設立準備会議、坂本金弥宅(東京・赤坂) での中国同盟会創立へと進む。輿中会、華興会のほか、反晴民間団体の光復会なども加えた反体制派の合同である。これらの会合に、治夫はメンバーの一人として出席し、歓迎会では来賓としてあいさつした。設立準備会議は人が多すぎて床が落ちたといわれる。

1905年(明治38)7月、ヨーロッパ外遊から戻ったばかりの孫文に滔天は黄興を紹介、両者に大同団結の必要性を説いた。席上、孫文と黄興はすっかり意気投合、興中会と華興会を母体に他の革命団体をもまじえた統一的な組織、中国同盟会をつくることに同意した。

 8月20日、東京赤坂の政治家・坂本金弥宅で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同して「中国同盟会」の創立総会が開かれた。

 

孫文の、民族、民権、民生の三大主義(三民主義)の綱領が採択され、孫文が総理、黄興は副総理格の庶務幹事となり、中国革命の母体が誕生した。三民主義とは①資本抑制(資本主義の弊害を防ぐ)②耕者有其田(土地革命)③耕すものに土地をーである。

 

ここに中国史上初めて統一的な組織と近代的な革命理論を持つブルジョア革命政党が生まれた。「この日、私ははじめて革命は生涯のうちに成就すると信じた」と孫文は回想する。

  メンバーは当初300人であったが、たちどころに5千人を突破して名実ともに孫文が中国革命の指導者になった。同盟会の機関誌『二十世紀之支那』が発行されることになり、発行人に宮崎滔天、印刷人に末永節がなる。

 

このメンバーによって革命への火の手が中国・広東、廉州、広州などで次々に起こされる。この弾薬、武器の調達にも滔天は一家を挙げて全面的に協力した。

 

 1911年(明治44)10月10日、辛亥革命が勃発する。孫文の広東蜂起から16年、失敗の連続で約20回、清軍に敗れ続けた革命蜂起がついに成功した。アメリカに亡命していた孫文は急速帰国し、中華民国臨時大総統に就任し、革命の基礎が築かれた。滔天の「革命の夢二十五年」はついに成就したのである。この就任式に文なしの滔天は近所の出入り業者のカンパによって出席した。

 
革命臨時政府は基盤が弱体な革命グループだけで、北方軍閥の袁世凱(えんせいがい)と妥協せざるを得なかった。孫文は4ヵ月で辞任し、衰世凱が正式に大総統に就任し、南北両政府の対立が激化する。
中国同盟会は国民党に改組されるが、日本政府は衰世凱の北京政府を支持、南京の孫文は苦境に陥る。
 
袁世凱(えんせいがい)は臨時政府大総統になると、孫文らの南京勢力の壊滅にかかり、孫文や黄興が第二革命の蜂起をする。革命軍はあえなく敗退し、孫文も黄興もまた日本へ亡命、一年前は国賓だったが、今度は日本政府が孫文の入国を認めない。滔天は窮地にたった孫文を、頭山満、犬養木堂(毅)、松方幸次郎(川崎造船所社長)らと協力して救い、亡命を日本政府に圧力をかけて承諾させた。
 孫文らの第三革命が成功し、各地で革命軍が蜂起し袁軍の離反もあいついで、袁世凱は83日間で退位に追い込まれる。
 
その後、日本は対中21ヵ条の要求などを突きつけて強硬路線をとり、中国は内戦状態に入っていくが、滔天の孫文への支持は終生変わることがなかった。
孫文と争っていた衰世凱から、長年の滔天の中国革命への貢献に報いるため、「米の輸出権の一部を与える」との電報がきたことがあり、「うん」と言えば膨大な利権が入ってくるはずであった。しかし、滔天は即座に「渇しても盗泉の水は飲まぬ」と断ってしまった。
 
 
1822年(大正11)12月に滔天が53歳で病死すると、翌年1月に孫文が主催する宮崎滔天追悼大会が上海で開かれ、孫文以下国民党の首脳が残らず名を連ねた。「日本の大改革家、中国革命に絶大の功績」と最大級の賛辞が続いた。官職にもつかない外国の一介の浪人に対するものとしては、全く異例であった。
吉野作造は中国革命の支援者には二つのタイプがあり、不純な動機の持ち主、大陸浪人も数多くいたが、滔天は終始一貫、最初から最後まで純粋に心から支援した数少ない真の支援者であった、と賞賛している。
1825年三月(大正14)、孫文も辛亥革命成立14年後に、60歳でガンで亡くなった。国父と敬慕された孫文は、南京の中山陵に丁重にまつられている。
 その最後の言葉は、「革命尚未成功(革命はなおいまだ成功せず)、同志仍須努力(同志なおすべからく努力すべし)」であった。
 
 
大アジアの革命家・宮崎民蔵、宮崎寅蔵の墓前祭開催

(1954年5月17日)
 
・宮崎民蔵、宮崎寅蔵 - といっても知る人はすくないかもしれぬ。
兄弟は熊本の産、兄民蔵は明治時代に全世界を遊歴、あるときは文豪トルスサイをたずね、またあるときはレーニンと会見して「土地均分諭」を説き、帰国後は農地解放に生涯をささげ、弟の寅蔵は滔天と号し、中国革命の父といわれる孫文(逸仙)および黄興(克強)をたすけて国民革命のいしずえとなり晩年は『三十三年の夢』をあらわし、荒涼不遇のうちに死んだ国士である。

この兄弟を産んだ郷土では、去る五月十六日熊本市で追悼祭を、同十七日は生地荒尾市で墓前祭を行った。主催者はかっての同志紫垣隆氏。当日は遺族として宮崎龍介、白蓮夫妻、中国側から陸中学(中国国民党)韓雲階(元済州国経済部大臣)趙雲鶴(元汪政権要人)故人の親友末永節、葛生能久、中国学者中山優、作家保田与重郎らのほか井上日召、鈴木善一、影山正治、河上利治氏の右翼のお歴々の顔もみえ、三百名が参列した。
(写真は最前列、白髪の婦人が白蓮、その横が宮崎龍介)

宮崎兄弟の思想をつらぬいたものは、清貧のなかにあってなお私利私欲を離れ身をていして真にアジア民族十億の平和のうえに立って、その幸福をねがうという、いわゆる〝大アジア主義〃であった。
追悼慰霊祭が行われた動機も、インドシナ、朝鮮など現在アジアが直面している一連の危機にたいして、いまこそこの大理想「アジアは1つ」の兄弟の悲願を実行に移すときと痛感されたからであるとの目的であった。
                     (毎日グラフ1954年6月9日号)

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