『オンライン/日本政治リーダーシップの研究』★『日本の近代化の基礎は誰が作ったのか』★『西郷隆盛でも大久保利通でも伊藤博文でもないよ』★『わしは総理の器ではないとナンバー2に徹した西郷従道なのじゃ」
2021/03/25
/日本リーダーパワー史(317)再録
「明治維新は西郷隆盛が実現し、明治政府の影の首相は西郷従道である。明治建設の国家非常時に役立ったリーダーは伊藤博文もダメ、山県有朋はもっとダメ、<ナンバー2>に徹し、歴代内閣を縁の下で支え続けた西郷従道のみ。」
名言「命も名誉も名も金もいらぬ、そういう人でないと大事はできない」
前坂 俊之(ジャーナリスト)
明治以降150年、いまや総理大臣など吹けばとぶような存在、いや難局にぶつかるとノイローゼになって入院したり(安倍元首相)、総理の重責に押しつぶされてポストをなげだす情けない小物政治家、二世三世議員ばかりになってしまった。ホントにね。
では明治、大正、昭和の三代で最高のリーダーは一体誰だろうか。このところ、いろいろ明治の文献その他をよみ漁りながら、日本のリーダーパワー史なるものを考えてきた。
近代日本史の最高のリーダーとは?・・西郷隆盛をあげる人が多いであろうが、実はあっと驚くが、その弟・従道こそ日露戦争に勝利する道を「何でもござれ大臣」として縁の下で支えて、黙々と築いてきた最大の功労者ではないかと気づいたのじゃよ。
伊藤博文、山県有朋、山本権兵衛らの陰にかくれて、西郷従道の評価は全くゼロである。西郷隆盛は知っていても、弟・従道を知る者は少ない。西郷隆盛は文字通りの巨人だが、従道も兄に劣らぬの怪物!超人だったのである。
西郷隆盛の従兄弟が大山巌だが、二人は西郷の左右にいて幕末維新に活躍した。西郷がこの二人を人に紹介するときは「大馬鹿者の信吾(従道)」「知恵者の弥介 (巌)」だったという。大隈重信は従道を「貧乏徳利」と評している。なんでも引き受ける(収めてしまう)その器の大きさと柔軟性からだ。
このため、世間は伊藤博文を「八方美人」と評したが、従道を「十六美人」と噂した。
「馬 鹿なのか、利口なのか」ぼうようとして捕えがたい、どこが偉いかわからない、無欲恬淡、天真爛漫、何でも呑み込む、推されれば陸軍中将が海軍大臣になり、さらに軍艦を知らない海軍大将になる、山県有朋からこわれれば、元帥なのに平然と内務大臣となる。平気の平左で、どこまで清濁合わせ呑む大物か、並みの人間では判断しかねるケタ外れの大器、超人であったことだけは確かである。
そ の略歴をみればよくわかる。歴代内閣に重宝されて陸軍卿、文部卿、農商務卿、内務大臣三回、海軍大臣七回、陸軍大臣(兼務)一回、農商務大臣(兼務一回を歴任したが、これまで多くの大臣を歴任した者はないが、総理大臣だけは「おいどんはその器にあらず」と固辞して決して受けなかった。
今、真に必要なのは西郷従道のような「何でもござれ」という実戦、行動派で憎まれない
「ユーモア」と『縁の下の力持ち』『豪傑―いまでは死語と化したが』『人間接着剤の大きな人格の政治家である。
『銭湯のオヤジ』-「言う(湯)ばっかりで、何もできない」のような現在の政治屋ベイビー、チルドレンから『真の大人としての人間力もある人物である。
西郷従道のエピソードの数々
西郷隆盛の弟で名前は「隆道」であつたが、戸籍調製の際に薩摩弁で「リュウドゥ」といったのを「ジュウドゥ」と聞き誤まって簿冊に記され、そのまま従道として「ツグミチ」となった。天保十四年五月十四日、鹿児島加明屋町に生まれ、 明治三十五年七月十七日死亡、享年六十。
軍人として最初に元帥府に列したl人だが、明治二十五年中しばらく在野の人となった外、あらゆる内閣にあって政界に重きをなし、しかも首相には決してならなかった。
日露協商の質問が自由党から出て、大隈外相が答弁するうちに、質問しょうとする議員に対し、「お控えなさい」と一喝した事から議場は総立ちになった。
その時、西郷海相が演壇のところへ来て「伊藤さんはこういう時に逃げました」といい、大隈の手をとって引っ込んだ。そうして大臣室に連れてくると、ビールをコップになみなみと注ぎながら、「今日のように日本の大臣も草稿なしに演説できると、ヨーロッパの議会を聴くようですなあ」
というようなことをいってすましていた。(「日本」所載「雲間寸観)
政務調査局を廃するという問題で、伊藤博文が大いに憤り、山県有朋に熟諭を持ちかけるので、山県も困って西郷従道になだめ方を頼んだ。西郷が伊藤にあって見ると、気焔当るべからすで、いつまでたっても議論が尽きそうもない。
西郷は黙って伊藤の顔を見詰めていたが、伊藤の言葉の終るのを待って、「えらい困ったことになりましたなあ」といってハ~ハと笑った。
伊藤もまた笑い出し、話はそれきりになった。(同上)
明治十七年に井上(馨)外務卿がフランス公使と密約してに支那(中国)を討とうとし、伊藤博文が反対しても容易に聴かなかった時、西郷徒道が横から飛び出して、「国は信義がなくて、は立たぬ」といい、支那がフランスと戦って弱っているのに乗じて叩き付けるのはいかんと主張し、陸海軍の開戦論者をおさえた。
そうして伊藤とともに支那に赴いて天津協約を結んだ。西郷自身は談判に必要はないが、帰って来て陸海軍を鎮める時には、いくらかお役に立つかも知れぬというのである。
天津滞在中などもよくこの人の面目発揮したもので、李鴻章が伊藤以下の人々を饗応した際に、支那焼酎を出したところ、泡盛を飲みなれた口でグングン飲む。
真面目な顔をして李鴻章に向かい、「私はこの天津に参りまして、一人の女にも出会いませんが、貴国では男が子を生みますか」という奇問を発するにいたっては、さすがの李鴻章も呆然たる外はなかった。(池辺三山著「明治維新三大政治家」
伊藤博文は同輩を呼ぶ場合、大てい君という中にあって、西郷従道だけは「あなた」といっていた。西郷の亡くなった時、伊藤は真面目になって「あの人は私の恩人だ」といった。池辺三山なども「西郷侯は人と責任を分つことにおいては実に妙に堪能な人だ」といっている。
・
明治32年の議会に山県内閣が地租増徴案を提出し、苦戦の結果、伊藤の援助を求めた。帝国ホテルに多くの人は集め、支那のみやげ話に託して伊藤がとうとうと述べる間、山県以下の閣僚はその下に列坐しているところへ、あとから入って来た西郷は聴衆の間を丁寧に礼をして通り、演壇の下に辿り着いたが、やがて振り向いて極めて丁寧に、満身の愛きょうをたたえて頭を下げて礼をした。
その態度は伊藤の演説以上に聴衆を勤かし、増税を贅成させる上に力があったといわれた。
(安田巌城薯「西郷従道」)
桂内閣の下に山本権兵衛を海軍大臣にしようとした時、山本は心中は「なぜ年下の桂の下にわしが・・」と穏やかではなかった。
自分は桂の下風に立ちたくないというのである。山本が容易に引き受けぬのを見た西郷従道は、「あんたがいやならオイドンがやります」といった。自分が桂の下風に立つのを欲せぬのに、先輩の西郷を出すわけにいかぬ。山本は海軍大臣をしぶしぶ引き受けた。
明治七年の台湾征討の時、反対将軍三浦梧棲、曽我祐準が西郷のところへひざずめ談判にやって来た。西郷は落ち着き払ったもので、「外の事なら一番先きにあなた方に御相談をするのですが、たかが台湾の事ですからな」と哄笑し、「お土産には紫檀の机でも持って来ましょう」といって、またカラカラと笑った。
さすがの両人もはり合いがなく、そのまま帰ってしまったそうだが、こんなところに彼の特長が存している。(「日本及日本人」所載「頭山翁一夕語」)
抜群のユーモアと大らかさ
西郷が文部卿時代に外人を招いて晩餐会を開いたことがある。食事が済んで、皆がくつろいで談笑している時、突然大きな外人を捕えて、「この椅子にお坐りなさい。あなたが坐れば私は椅子ごとさし上げて見ましょう」というようなことをいう。
外人が本気にして、まじめに座ると、西郷は椅子に手をかけてウアハッハと大声で笑った。皆も一緒に大笑する。非常に愉快な会合であった。政府に雇われている外人が、その長官からこのように待遇されたことは、これまでかつてないことであった。(高橋是清著「是清翁一代記」)
*
明治年間に長いこと新聞社を苦しめた発行停止が停止されたのは松方内閣の時であった。これは主として内閣書紀官長高橋健三と、法制局長官神鞭知常の努力によるもので、歴代の首相はいずれ発行停止を必要としており、現在の松方首相なり樺山内相なりも無諭そう信じている。
この人々を説き伏せて、とにかく松方内閣で実行するについては、高橋、神鞭の骨折りは並大抵のものでなかった。ところで案はいよいよ貴衆両院を通過して、御裁可を仰ぐ一段になって、前に発行停止の必要性を申し上げている関係上、松方は躊躇した。
大隈が自分が行うというけれど、大隈は例の広長舌で、発行停止以外に何を申し上げるかわからぬ。松方としてはそれも心配であった。その時「私が行きましょう」といい出したのが海相の西郷従道であった。松方もようやく安心して頼むことになったが、結果がどうなるかについては皆心配していた。
ところが、西郷はものの三十分か四十分もたたぬ内に帰って来て「御裁可を得て参りました」という。あまり早いので皆驚いてしまった。どうして西郷がそんなにうまくやったろうというので、ひそかに米田侍従に聞きに行くと、なるほど西郷はえらいものだ。持って来たものを差し出して、「両院を通過致しました。御裁可を願います。とにかく……」といったきり、上奏の書類を高く捧げて、あとは何もいわなかったそうである。
その態度が如何にも率直なので、明治天皇も思わず笑って、直ぐに御裁可になったということであった。(古嶋一雄著「一老政治家の回願」)
*
国民協会時代に、秋田へ旅行せられた時、旅宿で西郷は大いに酔った。その時、直ぐ横には山名次郎だけで、珍しくも、いろいろと打ち明け話をした。「自分は今こうして浪人しているが、国家の非常の場合には、陛下は必ず私をお召しになります。」侯はこういわれた。「伊藤さん(博文)は物識りで、えらい人ではあるが、非常な大事件の起こった時には、頭が狂い勝だった。」と言った。(山名次郎「偉人秘話」)
伊藤は、自分だけ気のついたこととか、自分だけが知っていると思うようなことのある時には、誰よりも先に西郷に話したくなるらしかった。
伊藤公はドイツから帰ると、高輪の自邸に西郷を招いて、二時間にわたって話したが、その間にビスマルクのことに触れ、ビスマルクの政治的手腕を高く賞讃した。そうしたら黙って聞いていた西郷が口を開いて、「ビスマルクは、あなたそっくりですな」といったのに、得意になって話していた公は、端から見ても、谷底へでも落ちたような恰好だったそうである。(河上)
*
国民協会の運動に入った西郷は、突然宮中からのお召によって、海軍大臣に任ぜられた。ちょうどその時、私(山名次郎〉はすぐ西郷邸に行っていたが、「兄貴(隆盛〉のことがなければ、辞退申し上げるのであるが、兄貴のことがあるので、それが出来なかった」といわれた。侯は兄隆盛の分までも、御奉公しなくてはならないと考えていられたのである。
(河上)
明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が遭離直後の大久保邸は上を下への大混雑で、駈けつけた者も、ただ戸惑うのみで、あたふたしている内に、午後になった。昼食のことに気がついたけれども、もうどうにもならない。
ところへ、台所からは弁松の料理が持ち出され、それについで作りたての握り飯も山と運ばれた。一同はそれで腹を満たしたが、一体これは誰の才覚だろう、気の利いた仕方と感じたら、実はそれは西郷従道さんの計らいであった。
西郷さんは、遭難のことを聞いて、急いで家を出られようとして、夫人に、すぐに弁松へ人をやって、料理150人前を大久保邸へ届けさせよ。それから大釜を二つ三つ持ち込んで、焚出しの用意をさせるようには、それによって出たのであった。
この話は、矢野太郎夫人から聞いた。夫人は大久保公の姪に当る人だったのである。(中島久万吉著『政界財界五十年」)
先生(杉浦重剛)白く、「西郷従道さんは、えらかったそうじゃね。河上(謹一)の話に伊藤公)と一緒に、季鴻章と談判に行く船の中で、盛んに伊藤をけなして、とてもそんなことで、向こうで相撲は出来ん、などというものだから、伊藤は、『何、李鴻章などに負けるものか』と憤慨する。従道さんは、そうして伊藤を励ましたのだそうじゃね。
向こうへ着いて談判となると、皆、伊藤に任せて、一言も口を出さなかったそうじゃ。談判が終って、宴会のあった時、小さな盃で少しずつ飲む酒が出たのに、わしは酒が好きじや、とばかりに、その強い酒を大コップに注いでのんだそうじゃ。その様子がいかにも落ち着いているので、向こうの人は伊藤公よりうわ手の人がいると思った様子じやったそうじゃ。そうしている内に、季鴻章に向かって、『何でごすか、貴国では男が子を生みますか。一向に婦人を見ませんが、というような奇問を発したそうじゃ。(中野亨編『天台道士語録」)
西郷従道の未亡人清子は、従道の兄隆盛があっせんして貰わせただけあって、非凡な婦人である。夫人が来た時の西郷家は、すこぶる貧困で、三度の食事も、兄の隆盛が食った器を洗って、従道が食ったものだなどと噂されている。
貴族社会では、とかく子女を寛慢に育てることになり勝であるが、夫人は決してそうではなかった。かつては家庭教師に一本の鞭を渡して、「あなたのいいつけに従わなかったら、遠慮なくこれを.お使い下さい」といわれたそうである。(榎本秋村著『名士の癖』)
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