『Z世代のための百歳学入門』『日本歴史上の最長寿118歳(?)永田徳本の長寿の秘訣は?・『豪邁不羈(ごうまいふき)の奇行です』★『社名・製品名「トクホン」の名は「医聖」永田徳本に由来している』
2024/10/29
/百歳学入門(33)記事再録編集

『医聖』-永田徳本(ながたとくほん)は天海大僧正(107歳?)を超える118歳の伝説の大長寿といわれているが、これはあくまで長寿伝説であり、確かに当時としては長寿ではあったのだろうが、90歳代ではないかと思う。天海大僧正(107歳?)の長寿も作られたものである。
さて、その永田については各事典では次のように紹介されている。
室町末期・江戸初期の医家。生年は不詳、没年は一六三〇年(寛永七)118歳説と四九年(慶安二)または五二年(承応元)九〇余歳説があり、生国も諸説(三河、美濃、信濃、甲斐)があって定かでない。
甲斐在住が最も長いとして「甲斐の徳本」と呼ばれ、また知足斎(ちそくさい)と号した。曲直瀬道三(まなせどうさん)について李朱医学を修めたとされるが、師説にとらわれず空理空論を排して経験的実証主義を貫き、張仲景の古医方を重視して作用の強い薬物を好んで使い、古医方派の先駆者に位置づけられている。
しかしその経歴は伝説的ベールにつつまれ、薬嚢を頚に掛け薬龍を背負い牛にまたがうて諸国を遊歴、一服一八文(16文とも)の薬を売ったり施薬し、某医のすすめで大名(将軍とも)を治療したが賞賜を受けず去ったなどとされ、市井医としての奇行が伝えられる。
なお、甲州ぶどう栽培法改良の先駆者とされる。「梅花無尽蔵」「徳本翁十九方」などの著書が伝えられている。 (宗田一)
ながたとくほん【永田徳本】生投各不詳。織豊期~江戸初期の医師。生国も不詳だが、一般に「甲斐の徳本」といわれる。首に薬蔀をかけ、牛の背に腰かけて、甲斐の徳本一服一八銭とよびながら諸国を漫遊して薬を売り歩いた。寛永期初め将軍徳川秀忠を診察し作用の強い薬をすすめ、治癒後も恩賞を固辞して薬価数十銭のみをうけとって去ったという。著書は「医之弁」「徳本遠方」などとされるが不明。
永田徳本(1513-1630)室町時代-徳川初期の医家。知足斎と号した。郷国は不詳。或は三河といひ、美濃といひ、戒は信濃といひ、また甲斐の人ともいふ。脱俗の士で風塵を避けて譜州を周遊したが、甲斐の国に居たことが最も多かったので「甲斐の篠本」と呼ばれた。
出羽の僧・残夢に師事し、また鎌倉で医を営んでいた帰化明人・月湖といふ者の門人玉鼎について業を修め一家を成した。大永亨録年間(一五二一-三二)に医をもって甲斐の武田の武田信虎に仕えたが、天文年間(一五三二―五五)中にさって信州におもむき、諏訪郡東堀村にいた。武田氏滅亡ののち再び甲斐に帰り、
草庵を構えて茅庵といい、悠々自適した。
豪邁不羈(ごうまいふき)の性格で、多くの奇行が伝えられている。時には薬嚢を首に掛け・牛に跨って出でて貧民に施療し、時には自ら薬龍を背負い、「甲斐の徳本、一服十八文」と呼んでうり歩いた。当時の医風の営利に流れるのを風刺したものである。
(注・この豪邁不羈(ごうまいふき)という言葉は、明治以前にはよくつかわれていた豪傑、豪快などとおなじく、才能などが並はずれていて、枠からはみ出した、けた外れの人物で、束縛されないで行動が自由気ままであること。、不屈の敢闘精神、視野の広さなど大物という意味です。三菱の創始者・岩崎弥太郎にもその人格にこの形容詞が使われている。)
寛水年間、某官医の推薦により徳川秀忠の病を診し、衆翳の抗議を排して剤の虞方を敢行し、教日ならずして治癒の効を奏した。秀息大いに喜び厚く賞賜しようとしたが、固辞して受けず、ひょう然と立ち去った。
徳本はまた本草学に精通し、元和の初め(一八一五年ごろ)八代郡岩崎村にゆき、同地の雨宮氏の葡萄栽培に改良を加え甲斐の園の葡萄(ぶどう)栽培の繁殖を考究し、優良種の接枝、養育の良法を発明し、これを土民に教授して多大の利益をあげたことも伝へられてゐる。
寛永七年二月十四日、百十八歳の高齢を以て信州に没した。著者に「医弁救急十九方』 「梅花無尽蔵」 「知足斎徳本秘方」等がある。門人教十人、その術を伝へたものは馬場徳寛、今井徳山の二人のみである。
http://www.okayacci.or.jp/docs/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E5%BE%B3%E6%9C%AC%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB(H23.12.12).pdf
社名・製品名「トクホン」の名は室町後期から江戸初期にかけて活躍した「医聖」永田徳本に由来しています。
当社では尊敬と感謝の念をこめて「徳本」先生と読んでいますが、実在の人物にもかかわらず多くのなぞを秘めています。まずはその出自ですが、永正9年又は10年(1512年・13年)に三州・高浜村(愛知県)又は甲州・谷村(山梨県)に生まれたとあります。ただ没年に関しては、寛永7年(1630)2月14日(118歳)で多くの資料に共通して記載されています(真偽不明)。徳本の名は「傷寒論医学」の世界においては広く知られており、現在でも専門教育機関での授業で名前が出るそうです。諸国を遍歴して生活していましたが甲斐に滞在していた期間が長かったため「甲斐の徳本」とも呼ばれています。
徳本は医療技術を僧医「玉鼎」から学び医者として大成しました。この頃から様々な地域を周りながら活動していたと思われます。そして、大永・享禄年間(1521年~32年)に甲斐の武田氏より招かれて武田信虎・信玄の主治医とて仕え、信虎追放後の天文年間(1532年~55年)には信州・諏訪東掘に居住していたと伝えられています。医療活動につきましては、後世の記録で様々なものがありますが、診療に行くときは首に薬袋をかけて牛の背中に横になり、金持ちよりも貧しい人々を対象に「甲斐の徳本、1服18文なり」と呼び鳴らして薬を売り歩いたといいます。
そのほかにも2代将軍・徳川秀忠を診察したなど興味深い逸話が残っています。
最後に「医聖」の意外な一面をご紹介いたします。それは「ぶどうの棚架け法」の考案です。現在の方法とは違うそうですが、竹を組み合わせて棚を作ったそうです。勝沼町の雨宮家で考案して指導したのが103歳の元和元年(1615年)頃と伝えられており、現在の勝沼町の様子と重ね合わせると徳本さんの偉業がより偲ばれます。
http://www.tokuhon.co.jp/company/history/index.html
107歳? 天海大僧正の長寿エピソ-ド
天海僧正は天文五年(一五三六)に生まれた。月日不明。寛永二十年(一六四三)十月二日、死す。初名随風、南光坊と称す。慈眼は勅賜の誼号。俗姓は三浦氏。会津の人。天台の教義に詳しく、家康に信任された。黒衣の宰相といわれる。二代将軍・秀忠、三代軍・家光と歴任した。家光の前で柿を賜ったとき、天海が食べた柿のタネをフトコロにするのを見て、家光が、「どうするのだ」と問うと、「持ち帰って植えるのです」と答えた。
家光が、「年をとっているのに無益なことをする」というと、天海は、「一天四海を知ろしめなさるお方が、そんな性急なお考えを持ってはいけません」といった。何年かたって、天海は柿を器に盛って家光に献上した。「どこの産物か」と尋ねると、天海は「先年拝受した柿のたねが生長して実りました」といった。
関連記事
-
-
『オンライン/日本興亡史サイクルは77年間という講座①』★『明治維新から77年目の太平洋戦争敗戦が第一回目の亡国。それから77年目の今年が2回目の衰退亡国期に当たる』★『日本議会政治の父(国会議員連続63年間のギネス級)・尾崎行雄(96歳)の語る明治、大正、昭和史政治講義』★『日本はなぜ敗れたのか、その3大原因』
『日本はなぜ敗れたかー① 政治の貧困、立憲政治の運用失敗 ② 日清・日露戦争に勝 …
-
-
記事再録/『中国/内モンゴルのゴビ沙漠の不毛の砂漠を300万本のポプラの木を植えてと緑の農地によみがえらせた奇跡の男・遠山正瑛(97歳)★『中国で、生前銅像が建てられたのは毛沢東と遠山の2人だけで、その台座には「90歳の高齢ながらたゆまず努力し、志を変えなかった」』
2009/05/06   …
-
-
73回目の終戦/敗戦の日に「新聞の戦争責任を考える④」ー『反骨のジャーナリスト』桐生悠々の遺言「言いたいことではなく、言わなければならぬことをいう」
桐生悠々の遺言 「言わなければならぬことをいう」 「 …
-
-
『オンライン講座/日本ベンチャービジネス巨人伝』★『 鈴木商店を日本一の商社にのし上げた<財界のナポレオン>金子直吉』★『「もし、金子が米国で生まれていたならば、カーネギー、ロックフェラーと並んで偉大な事業家として成功しただろう。金子は科学的な頭脳を持っており、無から有を作る事業家であったから』
2009/02/10 記事再録 日本の〝怪物 …
-
-
★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日本側の日英同盟締結交渉史のポイント」⑧『 聖断の日英同盟』●『機密の厳守は、国際交渉を成功させるための絶対必要条件」★『陸奥宗光は、改正案を伊藤首相に送った外、他には一切出さなかった。 これが条約改正の成功の秘訣』
★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日英同盟締結交渉史のポイント」⑧ …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(168)記事再録/『日本で初めて女性学を切り開いた稀有の高群逸枝夫妻の純愛物語』★『結婚とは死にまでいたる恋愛の完成である』★『1941年(昭和6)7月1日は日本の女性学が誕生!』★『火の国の女の出現』★『日本初の在野女性研究者が独学で女性学を切り開いた』★『 至高の純愛日記』
2009/04/09 「国文学」0 …
-
-
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変②』-『ドイツ、ロシア、フランス、イギリスらの中国侵略に民衆が立ち上がった義和団事件が勃発』★『連合軍の要請で出兵した日本軍が大活躍、北清事変勝利の原動力となった②』
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変②』 以下は鹿島 …
-
-
日本リーダーパワー史(434)安倍首相は小泉諌言を聞き「原発ゼロ」へ向け「誤りを正すことをはばかることなかれ」
日本リーダーパワー史(434) 小泉元首相こそ真の日本救国のリーダー …
-
-
日本一の「徳川時代日本史」授業④福沢諭吉の語る「中津藩で体験した封建日本の差別構造」(旧藩情)を読む④
日本一の「徳川時代の日本史」授業④ 「門閥制度は親の仇 …
-
-
『5年前の記事を再録して、時代のスピード変化と分析ミスをチェックする』-『2018年「日本の死」を避ける道はあるのか⑤』★『アベノミクスで政権100日は成功、この難題山積のナロウパス (細いつり橋)を素早く突破しなければ、日本の明日は開けない』★『スピード突破できずTimeout、釣り橋から落下の運命が迫りくる?』
★『2018年「日本の死」を避ける道はあるのか ー―日本興亡150年史』⑤― < …
