前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

★『私が愛する奇人・変人・作家(酒家)たち』ー『山本周五郎はへそ曲がりの庶民作家、頑固一徹の大酒のみ』

   

山本周五郎は読むほどに、飲むほどに味が出る「スルメのような」文体だね

「青べか物語」 「樅の木は残った」などの名作でいぶし銀のような文章で庶民の哀感を描いた山本周五郎は終生、頑固一徹な市井の作家を貫いた。一九四三年(昭和十八)に『日本婦道記』で直木賞に決まったが、「この賞の目的は何も知りませんが、もっと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないでしょうか」とけってしまった。

『文芸春秋』を創刊した菊池寛が当時の文壇の大御所として君臨していた時代のこと。「駆け出しの分際で、菊池にたてつくとは何事か。君の将来はなくなるよ」と忠告する友人もいたが、頑固な山本はきっぱりと断った。

山本の内心では直木賞の審査委員であった吉川英治や浜本浩らに対して 「そもそも失礼ではないか。君らより俺のほうがもっとマシなもの書いているよ。君らから賞をもらう筋合はない」というのが断りの理由。そもそも文学は文学賞のためにあるものではない。読者からの好評以外の賞があろうか。これが山本の本当の気持ちであった。

現在まで直木賞の受賞者で辞退したのはこの時の山本だけ。以後も、毎日出版文化賞、文芸春秋読者賞など数々の文学賞のどれもすべて辞退したほどの頑固一徹ぶり。生涯、賞と名のつくものは一度ももらわなかった。文壇有数のへそ曲がりで、「左といえば右」 「右といえば左」とみんなの反対をいく、その生き方を尾崎士郎は「曲軒」(きょくけん)と呼んだ。

 

山本周五郎の本名は清水三十六である。十三歳で質屋に奉公に出されたが、そこの主人の名前が「山本周五郎」。

「文芸春秋」に初めて小説を書いて送ったが、この時、封筒に「木挽町、山本周五郎方、清水三十六」と書いたのを、文芸春秋の担当者が間違えて「山本周五郎」として発表してしまった。以後、この主人の名前をペンネームにした。

山本は小さい頃から人一倍の「食いしんぼ」に「た」がはいるくらいの 「食いたしんぼ」 であった。貧しかった少年時代、山本の家庭の食卓では、周五郎は「おかず食い」で、飯はどんなに少なくても、おかずは脂っこい、うまいもの三品くらいはないと機嫌が悪かった。

この癖は酒についても、同じで日本酒は嫌いで、当時は珍しいブドウ酒、ウイスキー、ビールを好んだ。とくに、ブドウ酒党でロースト・チキンやパン、タマネギなどを買ってきては、ブドウ酒とチビチビやりながら、売れない原稿を書いていた。

山本は純文学と大衆文学の区別を認めなかった。「小説にはよい小説とよくない小説があるだけだ」それ以外はない、という主義であった。

「人生は貸し方より、借り方に回れ」というのが山本流だが、周五郎は終生、彼は借家住まいで、自分の家を建てようとはしなかった。貯金や蓄財には全く関心がなく、原稿料の前借りをしては、編集者と旅館や料亭に泊り込んでは飲みまわって散財した。

原稿料は山本にとって収入ではなく、出版社からいい小説を書くための先行投資といったものであった。それで別荘や家などを買うと、「手が後ろに回るよ」と常々言っていた。

山本は原稿料で気前よく飲み回り、タクシーなどにのると、決まって 「四十キロ以上のスピードを出さないでくれ。それ以上だすと降りるよ」と運転手に告げて、当時三、四千円という遠距離を乗って、降りがけに一万円のチップをボンとはずんだ。

また、パーティやスピーチするのも大嫌いだった。文壇人との付き合いも一切せず、人間嫌いといわれたが、「魚屋がサカナが売れたといって集まって、お祝いをやりますか。文壇人のパーティもそんなもの。同業者より漁師や車掌と付き合っている方がいいよ」というのが本人の弁。

どんなに親しい人の葬式にも絶対出ようとしなかった。「生きている間こそ誠意を込めて付き合っておけば良い。死んでから後悔してもおそい」の主義であった。

ところが、どうしても断り切れない結婚式に呼ばれて、スピーチを指名された。山本が一体なにをしゃべるのか注目されたが、あいさつに立った周五郎は「私はあえておめでとうとは言わない。十年、二十年たって本当によい家庭を築いた時、心からおめでとうと言わせてもらいます」

自宅とは少し離れた所に仕事場をかまえて、家族とは別に暮らし奥さんがそこに通って朝食など作り、そこで一人暮らしをしながら、小説を書いていた。

新聞、ラジオ、テレビはみなかった。ただ新聞は大好きな映画のために、どの映画館でなにをやっているのかを知るためだけに地元紙を取っており、それ以外のニュースは全く読まなかった。

「世の中のことは自分で見聞する」のが主義で、テレビは新聞以上に嫌っていた。 風呂も散髪も大嫌い。温泉にいっても露天風声や温泉には入ろうとせず、わざわざシャワーを使っていた。

昭和三十年代のある時、家ではなく仕事場を作ることになり出版社から大金が届いた。山本夫妻にとっては目がとびでるほどの大金で、当時はどろぼうがよく民家に押し入っていた頃である。

「どこに隠すか」とアレコレ考えた末に、夫人の提案で軒下にこの大金を古新聞に包んでザルに入れて吊るすことになった。こうすればどんなドロボウだって、まさか金がつるされているとは気づくまいと。

山本の死後、ドロボウが仕事場に盗みに入ったが、盗むものが全くなく、遺品の能面一つ、天眼鏡二つ、タバコのハイライトしかなかった。仕方なくハイライトを一本吸って退散した、という。

風呂嫌いの周五郎は晩年、行水にすっかりはまって、毎朝、朝飯前には行水を一時間以上かけて丹念にしていた。風呂の方が簡単に入れるのにと思われるが、「精神活動を鈍らせるから」というのがその理由。

「大きな湯わかし一杯に湯をわかして、それから石ケンで体のすみずみまで二度三度とていねいに洗った後、お湯を変えて、温めのものにして最後にからだをふいて終わる」という周五郎流で貫かれていた。

太宰治が玉川上水に身を投じて自殺したのは一九四八年(昭和二十三)六月のこと。遺体は一週間後に発見され、お通夜が営まれた。山本と親しい編集者の木村久邁典が「これから通夜に行く」と告げると山本は言下に 「よしなさい」と強い口調で言い放った。山本は太宰が嫌いなのではなかった。

それ以上に太宰の作品を愛し、一番好きな作家であった。

「君が行けば太宰が生き返るのならば別だが、そうでなければ行くのはやめなさい。今夜は君と二人だけでここで通夜をしよう。太宰の魂の平安を祈って杯をくもうではないか」

二人は徹夜で太宰を語り明かして、翌日の午後二時まで飲み続けた。「日本中で太宰のために一番美しい通夜をしているのがここだ」 と山本は言った。(木村久邁典著『周五郎に生き方を学ぶ』実業之日本社 平成七年十一月刊行)

一九六七年(昭和42)二月十四日朝、東京での十三年ぶりの大雪を眺めていた山周は前日ウィスキーをなめながら「こんな大雪は見おさめかな」とつぶやいていて肝炎で倒れ、「山、山……」と絶句して不帰の客となった。

前日は医者の手当てに対して「注射は無駄だ、やめろ」と、どなったりしていた。山を愛した山周は、天国でも山へ登りたかったのであろう。

 - 人物研究, 現代史研究, IT・マスコミ論

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

<F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(205)>★『ロウワーマンハッタンのホワイトホール・ターミナルに向かい、ニューヨーク市/スタテン・アイランド行きの無料フェリーに乗船,「自由の女神」を眺めながら、マンハッタンの夜景を楽しむ』

逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/10/04/pm8)  &nbs …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(103)記事再録/『日露戦争の勝利に驚愕したヨーロッパ各国』★『ナポレオンも負けた強国ロシアに勝った日本とはいったい何者か、パリで最高にモテた日本人』★『「あの強い日本人か」「記念にワイフにキスしください」と金髪の美女を客席まできてキスを求めたかと思うと、店内の全女性から次々にキスの総攻撃にあい、最後には胴上げされて、「ビーブ・ル・ジャポン」(日本バンザイ)の大合唱となった、これ本当の話だよ』

2017/06/16  /日本リーダーパワー史(826)『明 …

no image
  日本メルトダウン(1024) 『3・11東日本大震災・福島原発事故から6年』ー『(動画対談)トモダチ作戦を忘れるな 原発容認から脱原発へ 小泉純一郎元総理が「脱原発」へと考えを変えた理由とは?』★『なぜわれわれは福島の教訓を活かせないのか 田辺文也氏(社会技術システム安全研究所所長)』●『  東日本大震災6年後もなお山積する課題ー室崎益輝氏(神戸大学名誉教授)』●『小泉純一郎元首相「どうかしている。発想がわからない」 安倍晋三政権の原発輸出政策を批判』★『毎日新聞「ダム底 高濃度セシウム」報道に誤り多数』

   日本メルトダウン(1024) 『3・11東日本大震災・福島原発事故から6年 …

no image
村田久芳の文芸評論『安岡章太郎論」②「海辺の光景へ、海辺の光景から』

  2009,10,10      文芸評論  『安岡章太郎論』 村田 …

『Z世代のための新日本・世界史クイズ?『「歴史の研究」(12巻)などで世界的歴史学者アーノルド・トインビーは「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をしのぐf業績を上げた」と高く評価した日本史最大の偉人とは一体誰でしょうか??②」★『電力の鬼・〇〇安左ェ門です。』

「Z世代のための日本リーダーパワー史研究』★『電力の鬼」松永安左エ門(95歳)の …

『トランプ大統領と戦う方法論⑰』★『明治の国家参謀・杉山茂丸の国難突破・交渉力を見習え」➃』★『軍事、外交は、嘘(ウソ)と法螺(ほら)との吐きくらべで、吐き負けた方が敗れる』★『杉山35歳は一片の紹介状も持たず単身渡米して金融王・モルガンを煙に巻き、1億3000万ドル(約1900億円)の融資に成功した。』★『その時のタンカの切り方』

 2024/11/15/記事再編集 2014/08/09 /日本リーダ …

『日本の運命を分けた<三国干渉>にどう対応したか、戦略的外交の失敗研究』⑱』★『なぜ「黄禍論」は「日本禍」となったか 』★『日本の予期せぬ日清・日露戦争での勝利に恐怖したヨーロッパ』★『皇帝ウイルヘルム2世の「大ダコ(黄色人種)がヨーロッパ(白色人種)を襲 う恐怖図』

 逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/11/18am700) 190 …

no image
『オンライン/75年目の終戦記念日/講座➅』★『昭和6年/満州事変(1931年)以降、政府の言論統制法規に次々に縛られ太平洋戦争勃発(1941年12月)と同時に「大本営発表以外は書けない「新聞の死んだ日」「言論の死」と化した』

2015/06/29/終戦70年・日本敗戦史(100)記事再録 太平洋戦争下の新 …

★『リモートワーク動画』★『日本最強のパワースポットへの旅』/『サムライの聖地」、宮本武蔵が『五輪の書』を書いた熊本の霊厳洞を訪ねる」★『宮本武蔵終焉の地・霊厳洞は五百羅漢が立ち並び迫力満点の超パワースポット』★『勝海舟の宮本武蔵評』

 <剣聖>宮本武蔵終焉の地・「五輪の書」を書いた熊本の<霊厳洞>を訪ね …

『Z世代への伊藤博文による明治維新講義①』★『なぜ、ワシは攘夷論から開国論へ転換したのかその理由は?ーわしがイギリスに鎖国の禁を破って密航し、ロンドン大学留学中に 「英タイムズ」で下関戦争の勃発を知り、超大国イギリスと戦争すれば日本は必ず敗れると思い、切腹覚悟で帰国したのだ』

★『1897年(明治30)3月20日に経済学協会での『書生の境遇』講演録から採録 …