前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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『リーダーシップの日本近現代史』(200)-記事再録/『日露戦争の勝利が日英米関係の転換となり、日米戦争の遠因となった』★『日露戦争勝利は「日英同盟」、米国のボーツマス講和会議斡旋のおかげなのに日本は自力で勝ったと思い上がり、おごりを生じた。』★『②日米関係を考える上で、〝歴史の教訓″は1924(大正十三)年七月一日に施行された排日条項を含む「外国移民制限法」である。』

   

 

  終戦70年・日本敗戦史(125)記事再録

                  <世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月24日  前坂俊之 

◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』

<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、どこに問題があったのか、500年の世界戦争史の中で考える>⑧

 日比谷騒擾事件で米側の施設も焼打ちにあったことから米側の不信感が高まる。日露戦争の勝利は「日英同盟」、米国のボーツマス講和会議斡旋のおかげなのに日本は自力で勝ったと思い上がり、おごりを生じた。それまで見上げていた中国を逆に見下す優越感も出てくる。

➂米国の鉄道王・ハリマンとの満州鉄道の共同経営をいったん約束しながら、小村寿太郎外相がその後に契約を破棄して、ルーズベルト大統領を激怒させた。

④満州経営を児玉源太郎ら関東軍が独占し、外資を排除したことから「満州・中国の市場開放」を求めた英米側と対立が深まった。(満州国建設の遠因)

世界史の中の『日露戦争』⑪『ついに開戦へ』『遼東半島を独占するロシアと門戸開放の日本』『ニューヨーク・タイムズ』

http://www.maesaka-toshiyuki.com/war/1660.html

⑤米国で「日本人移民排斥」の「排日移民法」が明治40年以降にカルフォルニア州から全米に広がり、連邦議会で大正13年可決され、日本人移民は入国禁止になり、日本側から「日米戦争」が論議されるに至った。

⑥ロシアが日本に敗れて以降は太平洋の覇権争いは日米間に移り、日米とも相手を第一敵国にした。

①1905年(明治3)年6月9日、アメリカ合衆国大統領、ルーズベルトより、講和の勧告があったが、奉天会戦直後におけるわが軍の状況は、どうであったか。 

この時、ロシア側は百三十万の兵を集結し、後方勤務を合わせ二百万を動かしたが、日本は予備、後備をはたいて辛うじて七十万、後方勤務を合わせてやっと百万であり予備兵は一兵もなきまでに、消耗していた。武器、弾薬も、使い果し、小石川の砲兵工廠には、一発の小銃弾もなくなっていた。

ロシアは三十六箇師団を有し、本国になお強大なる兵力を貯えハルビンを根拠地として、再挙を計ろうとしていた。ハルビンより、奉天に複線の鉄道を布設し、輸送の増強を企図しているので、我が軍のハルビン攻撃は困難になり、さらに、モスコーを衝くことは、事実上、不可能に近かった。

このロシア側のシベリア鉄道を利用した兵力、武器、軍需物資の輸送力に対して、陸軍参謀本部はそれを2分の1ほどに過小評価する誤算を起こしていた。ロシア側にすると、戦場は一切、ロシアの領土に1歩も入っておらず、日本海海戦ではバルチック艦隊が全滅したとはいえ、ロシア陸軍の正規軍はまだ本国に温存されており、戦いは前哨戦とみており、これからが本番というわけだ。

「ロシアは全く自国に攻め込まれてもいない。今までの戦場では負けているが、ロシアの戦争はこれからである。今講和するなら、五分と五分だから領土も償金も出すいわわれはない」と講和会議では一歩も譲らなかった。

一方、日本側は陸戦、海戦では勝利を挙げたものの、すべての力を出し切って、まったく余力のない状態だったのだが、国民にはこの「日露戦争の真実」は全く秘匿されていた。

日本軍が、ロシアに対抗するには、少くとも、六個師団の増設を要するが、これもできる状況にはなく、最後の土壇場で逆転し、全軍崩壊の危機にあった。

さらに、戦費の調達については致命的であった。

現実に、当時戦費は日清戦争の二億二千万円を遥かに凌駕し、十七億円という巨額に達していた。それまでの戦費は主として公債で、ロンドン市場で八億、その余りはニューヨークの市場で消化されたが、ポーツマス講和会議で日本は領土償金に対する要求が強くて談判が停滞し、この事情を諸外国は、日本の戦力枯渇と判断した。

このため、今後の国債の消化は、有力な担保を出さなければ従来のようにはいかないという観測が流れた。この有力な担保は何もないのが日本政府最大の交渉カード不足、悩みの種であり、足元を見透かされた。

結局、日本政府も政治家も国民も「日露戦争が経済に立脚する国家総力戦であることの認識を持たず、武力戦の強弱が事を決すると誤解し、その幻影に迷った国民の不満が、ポーツマス講和条約後の「日比谷騒擾事件」で爆発したのである。

戦争で大きな犠牲を払ってきた国民、新聞にとって,償金(日清戦争では2億)領土獲得は当然と思っていただけに、突然の講和会議開催、講和条約では、「その期待をまるで裏切る領土は樺太の半分、償金は一文もなし」という結果に不満失望が爆発した。

この騒擾事件の原因は「国民はもっと戦えばもっと勝てるとばかり堅く信じて、日本の実際の戦力、経済力や兵員数、物資量を知らなかったことと、政府がその真実を知らせなかったためである」。

明治三十八年九月五日午後一時、有志の主催で日比谷公園に国民大会が開かれ、講和条約破棄の決議をしたあとに、この騒擾事件は起きた。警察、交番、国民新聞社、政府官庁などのほかキリスト教会11件が襲撃、焼き打ちにあった。

教会の方では、

浅草黒船町の聖翰教会

浅草柴崎町の美以教会

浅草三間町の美音教会

浅草駒形町の福音伝道館

浅草森下町の救世軍第十小隊

下谷竹町の星教会

下谷車毅町の日本メソヂスト下谷教会

下谷御徒町の日本一致教会

本所横川町の天主教会堂

本所向島町の同盟教会

本所板倉町の同盟教会出張所

がやられた。

結局、死者、負傷者は群衆から10人の死者のほかに528人、警察官に454人、消防士に44人にのぼった。

日本側を終始応援し、ポーツマスでの講和会議を主催して、日本の勝利の形を作ったルーズベルト米大統領は、この騒擾事件にショックを受けた。自分の好意に対してキリスト教会を襲撃するという野蛮な行為に「恩をあだで返された」と憤激し、これがその後の日米戦争への最初のボタンの掛け違いになった。

②日米関係を考える上で、〝歴史の教訓1924(大正十三)年七月一日に施行された排日条項を含む「外国移民制限法」である。

日米関係を長い歴史の中でみると、友好から対立、衝突の歴史をほぼ四十年ごとに繰り返してきた。その原因は両国間、国民間の認識のズレ、コミュニケーションギャップに誤断が重なって、抜きさしならぬ対立を生み、日本は孤立化し破局を迎えた。
日米関係を考える上で、〝歴史の教訓″にすべきなのは1924(大正十三)年七月一日に施行された排日条項を含む「外国移民制限法」である。
これが日米を引き裂き、真珠湾攻撃の一つの引き金になったといわれる。徳富蘇峰は『この日を〝国辱の日″とせよ』と叫び、国民は激昂した。英米指向からこれを転機に大アジア主義が台頭しナショナリズムが昂揚した。現在の日米摩擦の原型がこ
こにみられる。
米国はもともと移民の国であり、日本人移民も二十世紀に入り増加し、1920(大正九)年までに約二十一万人にのぼり、その間の中国人移民約四万三千人の五倍に達した。日本人移民は主に米国西海岸に移住し、一九一九年当時、カリフォルニア州
の最多の外国人は日本人であり、全米本土九万人のうち約八万人が西海岸に住んでいた。
日本人移民はなぜ嫌われ、激しい排斥運動が起きたのか。そこには文化的、経済的な深刻な摩擦が横たわっていた。
日本人移民たちは白人労働者の賃金の半分で人一倍熱心でていねいな仕事をした。その優秀な労働力が白人労働者を失業へと追い込み、反発とウラミを買ったのである。移民という観念がなく、故郷に錦を飾るという出稼ぎ労働者が大部分だったため、

単身赴任で、安息日も教会にもいかずガムシャラに働く。地域に全くとけこまない。そうした日本人の働き蜂の国民性に加え、立小便などのマナーの低さがひんしゅくを買ったのである。
さらに思わぬ反発を引きおこしたのは〝写真結婚″である。米国の女性団体からは「人身売買」「女性への侮辱」と激しく批判され排日の原因となったのである。一九〇五(明治三十八)年にサンフランシスコにアジア人排斥協会(後に日韓人排斥
協会)ができたが、同協会は次の理由をあげた。(1) 『国辱-虚実の排日移民法の軌跡』吉田忠雄 経済往来社 1982 年 121-122P、

日本移民が排斥された理由―

一、日本人は長時間の低級労働に甘んじて白人労働者に対抗する。
二、日本人の生活程度は劣等で、米国人は競争にたえることができない。
三、日本人は獲得した金銭を故国に送り、米国経済に貢献しない。
四、日本人は故国から日常消耗品を買い、米国製品を買わない。
五、日本人は愛国心強く、米国人との同化の素養を欠く。
日本人移民を日本製品に置きかえてみればまるで現在(1995年の時点)の貿易摩擦と同じである。
地域に解けこまず、集団的に固まる体質は今も地域へのボランティア活動を一切せず、寄付が少なすぎると批判されている日本企業や日本人ビジネスマンと同じである。日本企業による海外の不動産の洪水のような投資、買収が批判されているが、これも90年前に問題となった。

当時、日本人移民の大半は農民で、カリフォルニアで抜群の能力を発揮し、白人が開拓できなかった荒地を次々に農地にかえ、勤勉に働いて得た金で農地や土地、住宅、商店などの不動産を買いあさった。これに白人労働者が怒り、カリフォルニア州で1913年(大正二)年八月に〝排日土地法″(正式には「外国人土地法」) が成立した。
内容は米国市民になり得ない外国人(日本人らをさす)の土地所有の禁止、借地期限を制限したもので、実質上〝帰化不能外国人″ のレッテルをはられた日本人をしめ出そうという法律であった。
ただし、この法律にも二世は生まれながらにして米国市民であり、土地所有できるため、土地を子供の名義にする〝抜け穴″があったが、これも一切禁じて、日本人農
民を土地から一切排除するきびしい「イトマン法」がカリフォルニア州議会で1920(大正九)年十一月に可決され、全米各州に広がった。
一連の〝排日土地法″に日本政府はきびしく抗議し、世論は憤激し日米開戦の危機も伝えられたが、第一次世界大戦の勃発(1914 年)などでガス抜きされる。
一九二二(大正十一)年、米最高裁は日本人移民から出された帰化権について「白人とアフリカ人以外に帰化権はない」との判決を下した。再び、排日の火の手の上がった。「日本人同士の異常な団結で米国との経済競争に勝ち米国民の脅威と化した」として、下院議員のジョンソンから移民制限法案が下院に提出されたのである。

排日土地法はカリフォルニア州議会であったが、今度は米国議会である。日本側はまさか友好国の米国がそこまでやるまいと考えながらも外務省は危惧し、埴原正直駐米大使はシューズ国務長官にあてて「移民法が成立すれば重大なる結果(Grave Consequences)をまねく」との手紙を出した。
問題の移民法には「帰化不能外国人は移民を禁止する」という条項があり、これが〝排日条項″として問題となったのだが、1924 年4 月に期待に反して上下院議会をすんなり通過した。新聞は一斉に憤激し「米国撃つべし」 の世論が沸とうした。まさか通るはずもないと思っていたものが通ったからである。

『朝日』 『毎日』 『読売』など新聞十五社は連名で「米国に反省を求める宣言」を掲載した。
「排日案の不正不義なる次第は明白である。両国民の間に存せる伝統的な友好が深大なる傷を受くる』[1924=大正13 年4 月21 日]全国各地で新聞社主催の反米大会が開かれた。同法が施行された七月一日は〝米禍記念日″として「この屈辱を忘れるな」と日本人は胸に深く刻み込み米国をうらんだ。反米感情がうねりとなって広がったのである。

なぜ、移民法は通ったのか。そこには両国間の完全なスレ違い、超えがたいギャップが存在していた。

① 埴原大使の「重大なる結果」という言葉が戦争に当たるとして米議会で大問題となり、予想外の通過となったのである。外交交渉における言葉のはずみの恐ろしさである。
② 排日土地法の対応も含め、日本側は国民的名誉、国家の威厳の問題と受け止めたのに対し、米国は単なる経済問題、国内問題として処理し、人種的偏見ではないと主張した。このため、日本側はプライドをひどく傷つけられ、屈辱感を味わったが、米国には加害者意識はなかった。
③ 米国は日本人移民を他国の移民と同じように扱っただけだが、特別待遇に慣れていた日本はその甘えが通用しなくなった時、憤激した。
ワシントン会議(1921年)で世界の五大強国の一つとして米国に協力したのに、という大国意識、優越感が日本にあったが、その鼻をへし折られ、中国人、韓国人と同じに扱われたというショックがあった。欧米への劣等感の裏返しのアジア蔑
視が見事に切り裂かれたのである。
④ 日本では〝排日移民法″という名で一貫して報道されたが、もともと、このような名称そのものが過剰反応であった。
正式名称は「一九二四年移民法」で、どこにも日本人を特定する文句はなかった。排日条項とされた部分のいわゆる「帰化不能外人」には確かに日本人をさす面が強いが、「白人とアフリカ人」以外はすべて入っており、外務省や新聞が「排日条項」「排日移民法」として最初から報道したため、全文排日の法律という受け止め万が一人歩きし日本人を余計に刺激したのである。
結局、両国の認識のズレ、受けとめ方の落差を報道が大きく増幅し、とりかえしのつかない結果を生んだのである。

約90年前の悪夢のような出来事と現在(1995年)の状況を単純には同一視できないが、日米関係がますます悪化している中で、米国議会では目下、日本企業をターゲットにした対日の投資、金融、資産凍結などの法案が目白押しなのである。
かつての日本人移民のように、日系企業がアメリカ産業の脅威となっているというジャパン・フォビア(日本恐怖症)がますます増えているのだ。

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