前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史④ 自民党を作った吉田茂(89歳)の晩年悠々、政治・健康法

   

 (2009/07/15)
 
『別刷歴史読本』「晩年長寿の達人たち」07年11月号
吉田茂(89歳)の晩年悠々、政治・健康法
 
                                           前坂 俊之
 
 
1・・65歳で総理大臣に
 
六十五歳で総理大臣になった吉田茂は遅咲きである。日本が太平洋戦争で負けなければ、吉田は一介のへそ曲がりの外交官として生涯を終えていたであろう。敗戦という未曾有の国難に一時、囚われの身だった吉田は一挙に歴史の表舞台に返り咲き、六十五歳で宰相になった。普通ならばとっくに引退し、第二の人生に入っている年齢である。
 
 もともと政治への野心はなかった。公職追放された鳩山一郎から自由党党首の後事を託された際、吉田は「人事に口をはさむな」「やめたいときはいつでも辞める」など虫のいい条件を出していやいや引き受けた。
 昭和二十一年(一九四六)五月、第一次吉田内閣が発足したが、吉田の心境は正にマナ板にのった鯉であった。
昭和35年5月、マッカーサーを訪問 鈴木貫太郎前首相からの忠言「いさざよく、負けつぶりをよくすること」を心に刻み「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」と外交力に全力を注いだ。
 新たに支配者となったマッカーサーとさしで五分の外交を展開、そのユー モアとジョークで、マッカーサーの厚い信頼を勝ち獲った。マ・天皇会談が十 三回なのに対して、吉田は合計七十五回も面会しており、いかに強い信頼関係で結ばれていたかを示している。
 
 強力なリーダーシップと戦略で吉田政権は七年余の長期におよび、この大混乱期をみごとに乗り切り、廃墟と飢えの中から経済、社会を奇跡的に再建し、高度経済成長の基礎を築いた。当時、「全面講和か」「単独講和か」で国論は真っ二つになっており、吉田の「早期単独講和」、首米安保条約締結の決断がなければ、日本の独立はもつと遅れ、こんなに早く経済大国になることはなかったであろう。 その点で、「終戦後の大混乱を上手く乗り越えられたのは、天皇陛下と、日本を理解してくれたマ元帥の周囲の者に常々話していた。
 
2・・悠々自適の生活
 
 昭和二十九年十二月、「造船疑獄」で吉田は政権を投げ出した。すでに七十六歳。神奈川県大磯の三万六千坪という広大な邸宅「海千山千楼」に引っ込んで、悠々の晩年を送った。その名の由来は「訪問者が海千山千の連中ばかりなので……」と彼一流のユーモアで煙に巻いた。
 退陣しても、政権運営している吉田学校の教え子たちから、〝元老″に祭り上げられて、大磯詣で政治家、要人は引きも切らずの、その〝リモート.コントロール″が話題となった。
 
 この大邸宅の効用について「このごろは外国からのお客さんを接待するものがいなくなったからね。以前は三井や住友がやっていた。それをと風刺漫画家・清水箆に話している。
 
 二階の居間兼書斎からは、吉田の大好きな富士山と相模湾がパノラマのように一望できた。当時珍しかった曲面ガラスを使用したサンルームもあり、どの部屋からも富士山が見えるように設計してあった。この広大な邸宅で、政治の行く末を見守りながら、後添えのこりんと住み込みの執事、コック、看護婦ら六人の使用人と悠々自適の生活を過ごした。
 
 トレードマークの和服、白足袋、葉巻は相変わらずで、新聞は毎日『ロンドン・タイムズ』に目を通し、愛読書は英国のユーモア小説や捕物小説『銭形平次』、食事ではウイスキーとビーフステーキなどを欠かさなかった。
 
 吉田は長い外交官生活から美食家と思われがちだが、そうではなかった。ただ、食には彼一流のこだわりがあった。アルコールは日本酒、ウイスキー、コニャック、ワイン、シェリー酒など何でもござれ。ただし、ウイスキーはジョニーウオーカーの黒、シェリー酒はスペインもの、ワインにもうるさかった。
 
昔は日本酒一点ばりだったが、酒の肴はウニ、カラスミのたぐいはだめ、サシミも厚いものより薄手を好んだ。八十歳を過ぎてからは、その日本酒もプツツリやめて洋酒一身党になった。好物は目玉焼き、豆腐、湯豆腐、はんぺん、いもの煮っころがしなどだった。
吉田の長寿は、ひとえにその気概にある。大久保利通、岳父の牧野伸顕(宮内大臣)の家系からくる国士、臣茂と揮ごうした愛国者としての強烈な国への思いである。
3・・長寿の秘訣は人を食うこと
 
 西ドイツのアデナウアー首相の「常に何かひとつ、しゃくの種をもっていることこそが、長寿の秘訣だ」との言葉も愛し、「長生きの秘けつ!だって、そりゃカスミを食うことだよ、いや人を食うことだな」と冗談を飛ばしては大笑いしていた。
 
 昭和三十八年十月、八十五歳となった吉田は政界から完全に引退した。
しかし、〝大磯参り″が政界の流行語になり、静かな楽隠居というわけにはいかなかった。依然、吉田は日本での最高実力者であった。難しい外交問題が最後には持ち込まれ、吉田も老体に鞭打って奔走した。
 
 昭和三十九年二月には、日中貿易、政治懸案を処理するため、首相の特使として台湾に飛び、蒋介石とさしで会談して、解決した。その二ヵ月後の四月五日、マッカーサー元帥が亡くなった。周囲が海外旅行での健康を心配する中で、直ちに娘の麻生和子を連れて米国に飛び立って葬儀に列席した。何が何でも、「マ元帥の恩義に日本を代表して感謝しなければならぬ」という一念だった。
 
 吉田のジョークは終生変わらなかった。
 
昭和三十九年十一月、赤坂離宮での観菊会に出席。昭和天皇から「大磯は、暖かいだろうね」とのお言葉を賜った。「はい。大磯は暖こうございますが、私の懐(ふところ)は寒うございます」と答えると、天皇はキョトンとしたまま。従者の説明に天皇もやっと意味を了解し、二人は大笑いになった。
 
4・・最後までユーモア精神
 
 最晩年の一日のスケジュールは朝十時に朝食、ひと休みして庭を散歩、付き人と江ノ島などをドライブし、午後一、二時の昼食は来客との会食、昼寝一時間、夕方散歩、夕日を楽し楽しむ。七時ごろ夕食、九時頃までテレビを見る、午後十時前に就寝となっていた。
 
 吉田はフロ好きだったが、晩年は看護婦たちが心臓の悪化をおそれて入れさせなかった。主治医が、腰をかけたまま両方から持ちあげられるイスに吉田をすわらせ、そのままフロの中に入れたこともあった。
 同じ年、人に支えられて歩くのをきらった吉田は階段の上り降りもできなくなった。そのため、邸内にエレベーターを作ることになった。しかし、「来客がうるさくて失礼だ」と吉田がしばしば工事を中断させ、ついに完成しないまま亡くなってしまった。
 
 同じ年の昭和四十一年、吉田は心筋梗塞で入院したが、娘の和子が見舞いに行って、冗談交じりに、「ヤーィ、とうとう腰が抜けちまったじゃないの」と、からかった。すると、吉田はベッドに臥せたまま「なアに、腰が抜けたんじゃない。やっと、腰がすわったんだ」と言い返して、二人して大笑いになった。
 
 ついに最晩年が訪れた。

気分のいい朝は太平洋を望む別邸の高台までこりんと散歩し、ベンチに腰かけて、しばらく相模湾や富士山を眺めながら時間を過ごしていた。岳父の牧野伸顕(大久保利通の次男)は昭和二十年に八十八歳で亡くなっており、「やっと親父の齢に追いついたな」ともらした吉田は昭和四十二年十月二十日に亡くなった。

 
享年八十九歳。戦後初の国葬で送られた。
 
(参考文献)
麻生太郎『吉田茂の流儀』(PHP研究所二〇〇〇年)
遠刊読売』臨時増刊(昭和四十二年十一十五日号「国葬青田茂」)
 

 - 人物研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(271)★『日本敗戦(1945/8/15)の日、斬殺された森近衛師団長の遺言<なぜ日本は敗れたのかー日本降伏の原因>★『日本陸軍(日本の国家システム中枢/最大/最強の中央官僚制度の欠陥)の発足から滅亡までを 日露戦争まで遡って考えないと敗戦の原因は見えない』★『この日本軍の宿病ともいうべき近代合理的精神の欠如、秘密隠ぺい主義、敗因の研究をしない体質はその後の日本の官僚制度、政治制度、国民、政治家、官僚も払拭できず、現在の日本沈没に至っている』

  2010/02/10 /日本リーダーパワー史( …

『日本史決定的瞬間の現場を歩く』★『明治36年4月21日、京都「無隣庵」での伊藤博文、山県有朋、桂太郎首相、小村寿太郎外相の4巨頭に児玉源太郎内相、杉山茂丸の6者で『日露戦争を辞せず』と決定した。

★『日本史の決定的瞬間』★ 『明治36年4月21日、京都「無隣庵」での伊藤、山県 …

no image
日本リーダーパワー史(287)タフネゴシエーターの大隈重信①英国のパークス公使と堂々と対決して、議論に勝った30歳の大隈

日本リーダーパワー史(287)   <外交ディベート、タフネゴシエータ …

『オンライン講座/百歳学入門(236)★『人生/晩節に輝いた偉人たち②』★『日本一『見事な引き際・伊庭貞剛の晩晴学②『「事業の進歩発達を最も害するものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈(ばっこ)である。老人は少壮者の邪魔をしないことが一番必要である』★『老人に対する自戒のすすめ』 

2010/10/25  日本リーダーパワー史(102)記事再録 &nb …

湘南最高の海辺のテラス(逗子なぎさ橋珈琲店)から眺めるワンダフル富士山・江ノ島・逗子海岸(2023/6/17am7.9)

Wonderful Mt. Fuji, Zushi Bay, Zushi Coa …

no image
明治史の復習問題/日本リーダーパワー史(83) 近代日本二百年で最大の英雄・西郷隆盛を理解する方法論とは・(上)」★『西郷隆盛はどこが偉かったのか』(下)<政治リーダーシップは力より徳>』尾崎行雄の名講義

日本リーダーパワー史(83)   近代日本二百年で最大の英雄・西郷隆盛 …

no image
『日本作家奇人列伝(39)日本一の大量執筆作家は誰だー徳富蘇峰、山岡荘八、谷崎潤一郎、諸橋撤次、田中貢太郎、折口信夫

    2010/03/01  日本作家 …

no image
世界リーダーパワー史(934)ー『迷走中のトランプ大統領のエアフォースワンはついに墜落寸前か!』★『政府高官たちは大統領失格のトランプ氏に対して憲法修正25条の適用を水面下で検討したものの、同条の適用は史上初となるため「憲法上の危機」を招くため、同氏の退任まで政権を正しい方向に導くことで一致した』

世界リーダーパワー史(934) 『迷走中のトランプ大統領のエアフォースワンはつい …

『世界漫遊・ヨーロッパ・街並みぶらり散歩』★『2016/5『ポーランド・ワルシャワ途中下車③ 『世界遺産の旧市街』ナチスにより徹底的に破壊された市街は市民により丹念に復元され世界遺産となった➂

    2016/06/04  『F国際 …

『オンライン/世界史の中の日本史』オープン原典講座』★『近代日本の父・福沢諭吉が<親の敵(かたき)でござる>とした徳川時代の差別構造(現在以上の超格差社会)の実態(身分差別/男女差別/上下関係/経済格差)を告発した『旧藩情』(全文現代訳9回連載)を一挙公開します(上)』

    2021/05/01 記事転載再編集 『オ …