『オンライン講座・日本リーダーパワー史研究・山県有朋とは一体何者か!』★『国葬で菅元首相が読み上げた弔辞で紹介された山県有朋が一躍トレンド入りをした』★『政党政治の父・原敬は藩閥政治の元凶・山県閥をどう倒したか』(服部之総の「原敬百歳」を読む)
2022/09/30
日本リーダーパワー史(289)「政党政治の父・原敬は藩閥政治の元凶・山県有朋をどう倒したのか。
前坂俊之(ジャーナリスト)
菅元首相の弔辞の最後の部分は「・・・安倍総理、あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした。 衆議院第一議員会館、千二百十二号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。 岡義武著『山県有朋』です。
ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。 そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。 しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」
とある。
服部之総の「原敬百歳」は「原敬と山県有朋の権力闘争を次のように書いている。
④ 外交面で、国際協調主義をとったこと。シベリア出兵には反対し、米国重視、中国への不干渉と通商貿易を重視した。パリ講和会議では人種差別撤廃法案を提案した。
⑤ 原敬の確立した政友会政治が昭和戦後の自民党に連綿と続いた。民主党はこれに終止符を打ったかと思われたが、鳩山由紀夫、小沢一郎(原と同じく岩手県の出身)の「2世、4世の世襲議員」が実力(世襲のために、金とカンバン、地盤はあってもリーダーシップがない)がないために、政治、官僚の旧体制を変えることに失敗した。野田もオナジである。
次の総選挙では民主党の少数転落、自民党も伸びず、既成政党への強烈な不満、日本政治の質的大転換を期待して、橋下維新党が大躍進するであろう。
しかし、維新党は1年生議員の集団で変革のノ―ハウは全くない。少数弱体政権の混乱が日本衰退に拍車をかけるだろう。日本政治の大変革、政治システムの大改革なくしては日本沈没まにがれない。その起爆剤は市民の民主的な政治意識の成熟度以外にはありえない。原敬の政治突破力を背景には大正デモクラシーの高まりが、彼を強力に押したのである。
服部之総の『原敬百歳』
原敬が生きていたらこの二月九日、百歳の誕生祝をする勘定である。
(1858年(安政三)年、盛岡城外本宮村の、南部藩本番組・原直治の次男としてうまれ、1921年(大正10)年十二月、かぞえ年六十六歳で暗殺された。
原敬の名は「さとし」ではなく「たかし」と読むのである。ちかごろ人に教えられて鳩山一郎氏(鳩山由紀夫の祖父)の「余の尊敬する五大政治家-わが読史余論」(「改造」昭和二十六年二月号)という1文を読んでいると、「原敬先生は……私の父和夫と同齢で、私の父よりも二ヵ月ばかり先輩であった。さとしと読むのが正しい呼び名である。」
とわざわざ力点がつけてある。どうやらこの文章あたりが敬の典拠でもあろうか?
さとしが間違いでたかしが正しい呼び名であることは、原敬当時の腰越別荘いまの原奎一郎氏宅は、私の家からバスで十分ほどの距離だから、あるお天気のよい午後ききにいって、たしかめてきたことである。
そのおりいろいろ見聞するところがあった。本稿を思い立ったゆえんでもある、か、さしむき名刺のことを書いておこう。
一八八五-一八八九(明治18-22)年のあしかけ四年は、原敬のパリ公使館在勤時代であるが、そのころの遺品でボアソナードの名刺一枚と、原敬自身の名刺一枚がのこっている。原の名刺は、
鳩山一郎氏が「日本民主党」総裁に就任したのは去冬。来書いている今朝は一九五四年十二月のはじめだからついこのあいだの十一月二十四日のことである。それにつけて思い合わされるのは、『原敬日記』にでてくる大先人鳩山和夫のことである。
「夜鳩山和夫来訪、過日岡崎邦輔、望月右内と内談せしも、猶は余と親しく将来を協議せんが為めなり、困て余は同人と共に外務省に居りたる事もあり政党関係を離れて談話せんと云ひたれは、彼も然らん事を望むと云ふに付
、進歩党に於ける彼の位地より彼は常に党中異分子と看倣さるし事、彼れの為めにも得策ならず、父大石、犬養等は常に政界の観測を誤り、常に逆境に陥る事を免かれざる事実を説き、寧ろ政友会に投ずる事、彼の為めに利益なり、政友会は決して異分子を忌まず此際決心を要すとの趣旨を友誼的に勧告せしに、
彼はやや決心する所ある趣にて、其心情を内話せし所によれば、彼は改革派と歩調を一にして犬養を放逐せんと企てたるも、犬養は之を察知して進んで改革派の希望を容れたれは、今日分裂を免かれ居るものなり、将来は彼の一派を率て独立し他日政友会に投ずる意思あり、其党与は二十名己上あらんと云ふに付……」
1907年(明治四十)三月四日の記事である。そのとき原敬は第一次西園寺内閣の内務大臣で、すでに政友会のデファクトの党首であった。戦時中から桂太郎とのあいだで了解をとげ、筋書どおり西園寺内閣に初のタライをまわさせ、原敬が初の内務大臣に就任したのは、明治三十九年正月のことである。
原敬の抜群のスピード政治力(決断と実行)
警視庁がそれまで総理大臣と内務大臣の両属であったのを内務大臣専属にあらため、月給がクエン(九円)=食えん =と歌われていた巡査の俸給を一躍十二円に上げ、抜く手も見せず地方官大移動を発表して、くさりきった内務人事を刷新しながら、山県有朋が二十年つちかった「大御所」の大権力機構をいっそう集中化し、新鮮化した内容で、そっくり手中に収めるのに原敬はわずか七カ月を要しただけであった。
「……其党与は二十名己上あらんと云ふに付、余は他日にては政友会の感情は如何あらん、明年の総選挙を見込んで入会するが如き外観あらは、彼入会後重をなさず、寧ろ此際入会して政友会を過半数たらしめる事は政友会の為めにも彼の為めにも得策なりと云ひたれは、彼れは然らば何か問題を見付けて断然投会せん、
さりながら何分にもさる問題目下之なきを憾む、実は……と物語れり。余を訪問する事は腹心の老(福井三郎、田村維昌其他二名)には漏らし置きたり、之には諮らざるべからすと、又彼の腹心の者は入閣の成否を問ふならん、其辺は如何と云ふに付、夫れは今日約束する事は出来得ず、又約したりとて其実行は如何あらん、共時の事情にては如何ともする事能はざる訳なり、去りながら君も余も政党に入らずとも内閣に入るべき資格は之ありたるものなり、他日決して望みなき事にあらず、只之を内約する事は今日に於て出来得ざる訳なりと云ひたれは、彼も其事情を諒して帰れり、要するに彼は到底進歩党に在りては将来の望なきを悟り内心多少決するものゝ如くなりき」『原敬日記』中、鳩山和夫に関する記事はこれをいれて四ヵ所ある。二度めはこの年十一月四日、「鳩山和夫内々にて会見を求め来りしにより面会せしに……」以下、
田口卯吾の『大日本人名辞書』増補頁には、「尋で同(早稲田)大学長と為り四十二年に至りて罷む、晩年進歩党を脱し政友会に入る時、人之を異む爾来意気旧時の如くならず四十四年十月三日病で卒す享年五十六」とある。
鳩山一郎「余の尊敬する五大政治家」 に戻ると、「私が明治四十年の春東大を卒業して、父と同じ弁護士になると同時に、東京市会入りをした頃、先生(原敬)は第一次西園寺内閣の内務大臣として、あの郡制廃止法案をひっさげ、当時の朝野をおさえていた山県有朋会二系のいわゆる官僚諸氏と、まったく火の出るような議会闘争に没頭していた。
明治十年代の絶対主義に抵抗しっつ生れた人民の栄誉の自由党を売って、大権に隷従する「総裁絶対主義」の政友会をつくらせた作者演出者は、終世日本ブルジョアジーの弁護士だった「怪傑」星亨であった。そもそもの自由党は若き日の日本ブルジョアジーが、農民と全人民の自由のために起ち上ったという点だけで、後世の日本共産党に対比さるべきものであり、事実当年の岩倉、伊藤、山県の太政官政府は、「火つけ強盗自由党」の合言葉をまきちらし、加波山、群馬事件、秩父事件、飯田、名古屋、静岡事件のあの純一な政治犯被告たちを、ことごとく殺人、強盗、放火犯をもって処置してしまった。
さてそのようにそもそもの自由党が共産党だったとすると、そもそもの改進党は、「吾党は自由党の過激をこのまない財産家・学者・老成家を網羅し、別働隊を組織して、他日会同一致の素地をつくる」(結党式上の副総理河野敏鎌の演舌)と称した改進党は、社会党と異るところただ一点、「一線を画し」ながら「画す」といい切らなかった点にあるだろう。そのようないわれの改進党=進歩党=憲政本党=立憲国民党を、あの自由党=憲政党=政友会のひそみにならって、六年越しの苦心さんたんのすえ、桂立憲同志会に仕立直した作者演出者は、豊川良平、大石正巳であった。星とちがってうごきが陰性だから、初耳のような気がするかもしれぬ。
つづく
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