<クイズ>日本で最高の弁護士は歴史的にみて誰でしょうか・・答えは断トツに正木ひろしだね。
日本で最高の弁護士は歴史的にみて誰でしょうか・・
答えは断トツに正木ひろしだね。
答えは断トツに正木ひろしだね。
前坂 俊之
(ジャーナリスト)
1974年に面会した時の写真
私が毎日新聞呉支局に勤務していた時、休みを利用して正木弁護士にはじめてお会いしたのは1974年(昭和四十九)夏である。五十年正月、私は調査していた八海事件についてゆっくり話を聞きたいと正木弁護士に手紙を出した。すぐ返事がきた。
御宅の一階右側の八畳間に宿泊してもよいこと、正木弁護士自身のその時のスケジュールとともに、宿泊の条件、心得として次のように記してあった。
『ミヤゲもの搬入禁止、小生の在不在に無関係に滞在のこと、当方の提供するもの、座布団、コタツ、ヤカン、ドビン、茶碗など、風呂自由、小生は二階で仕事、天井で音がするのはあらかじめ承知されたし等々』
遠慮なくはっきり述べ、しかも暖かみのあふれる文面であった。
一月十日、昼すぎに私は御宅にうかがった。正木弁護士は東京第二弁護士会の新年会に出席され、不在だった。

『もう死んだんではと思われてはイカンといって行きました、めったに行かないんですがね』と正木弁護士の世話をされていた娘の美樹子さんが笑いながら玄関横の部屋に案内してくれた。
資料を見ていると夕方、正木弁護士は帰宅された。いつものベレー帽をかぶり、黒いオーバーの上にカバンを胸から背中にかけているのが、明治生まれそのもまであった。
「ヤアー、御苦労さま」と人なつこい笑顔でコタツに入り、しばらく話し込んだ。顔にはしわがなく、赤ん坊の膚のようにピンク色に輝いている。とても七十八歳には見えない。こんなに生気にあふれ、晴々として屈託のない表情の人を見たことはなかった。
『僕より五十歳も若い同胞に理解きれ、敬意をもたれることは人生の至福の一つだね。私のように、今も青年の気持を持ち続けられるのは、信仰のおかげだ。
これまでの事件をふり返ってみると、神の存在を考えずにはいられないんだね。僕の後ろには神がいるんだから、絶対に後ろにはひけないんだ。
裁判官、検察官といったって月給取りだからね。負けないよ
だって神さまをけとばすわけにはイカンだろう。裁判官、検察官といったって月給取りだからね。こっちは宗教家だ。勝負は最初からわかっているよ』と愉快そうに笑われた。
『日本人には不正に対するいきどおりがないんだね。正義、正義という奴はきらいだなんていう文化人が多い。
万葉集や一般の人には理解できない哲学書でも翻訳すれば、えらいと思っている。僕は冤罪に陥し入れられた一人一人が問題ではなく、人類が被害を受けているという立場から許せないんだ。日本人には人類意識がないんだな』
正木弁護士の日本人への批判はとどまるところがなかった。しばらくして、正木弁護士は「僕はまだまだやらなくてはならない仕事がある。体力の劣えと頭がボケるのを、一番警戒しているんだ」と立ち上がった。
腕組みをして、ヒザを右左とグルグル回転させたかと思うと、首から下をタコのようにグニャグニャ曲げて体操をはじめられた。
「君、できるかね」といって、両足を広げ、両肢がピタリと一八〇度になったのには驚いた。
66歳からスケートと鉄棒で体力づくり
正木弁護士は1961年(昭和三十六)、ある事件で諏訪湖に行った。スケートをしようとしたが、立つのがやっとで2mも歩けず、体力の衰えにがく然とした。その時、六十六歳。一念発起して書斎の脇の柱に鉄棒とつり輪を取付け、体力づくりをはじめた。
権力と戦うには知力はもちろんだが、体力こそが原動力になる。正木弁護士の持論であった。
一通り、“正木流体操”がすんだ後、「どうだ」とズボンをまくり上げて大腿部を見せた。モモの筋肉が陸上選手のように力強く盛り上がっている。さわるとコリコリ石のように堅い。
私は感嘆の声を上げた。正木弁護士は天真欄浸そのものの表情で何度か足に力を入れ、筋肉の躍動を誇示して無邪気に笑われた。
翌朝、二階から降りて来られた正木弁護士は「君、カメラを持っているね」と聞いた。何のことだろうと思いながら、バックからカメラを取り出して示すと「おもしろいものを見せて上げよう」といって二階に上がった。書斎の入口横の廊下の端に〝主人専用〟と書かれたトイレがある。
正木弁護士はトイレの戸を開いたまま、私を手招きした。トイレは水洗で周囲はモルタルの白壁である。何とその白壁にぎっしりと前も、後ろも頭の上の方も全面に黒のサインペンで落書きがしてある。
トイレに大落書き
正木弁護士の特長のある字で、よくみると、「一九七四年六月二十七日、全身の関節全部極限までグニャグニャになったようだ」「ナメラカ、ラクに動作す」。
その下には「二十九日、右下脚の回転、極限自由に行くことができた。便所にて今」。「八月五日、全身アヤツリ人形の如く自由に回転」。
ザッとこんな調子で正木式体操の結果をカルテのように書いているのだ。白い部分を探すのが困難なほどピッシリと書いていあった。
七十八歳で体力づくりに励む正木弁護士。〝永遠の生〟を信じ、実践している正木弁護士の秘密をのぞき見た思いで、私は夢中でシャッターを押した。
冤罪を解明するほど厄介なことはない。事件は膨大な権力と組織力を持った警察や検察によって複雑にもつらされている。これを捜査権もない一介の弁護士が独力で解きほぐすためには、透徹した知力、労力はもちろん予想以上の資金を必要とする。
冤罪の解明ほどむtyかしいことはない
例えば、事件の記録や書類を複写し、関係者に会い、現場や犯行を刻明に調べ上
げるためには恐ろしく時間と金がかかる。しかも、冤罪に陥とし入れられた一様に貧しい被告から、潤沢な弁護料など期待できない。このため、冤罪を手がける弁護士は片方で資金を得るため民事事件などを手がけざるを得ない。
だが、正木弁護士は冤罪事件以外は一切手がけなかった。事件について著述した原稿料をもっぱら活動資金と生活費に充てた。これとていかばかりになろうか。
しかも、氏が手がけた事件はいずれも二転三転して、長期の大裁判になった。首なし事件(十二年)、三鷹事件(六年)、チャタレイ事件(五年)、八海事件にいたっては十八年、菅生事件(八年)、丸正名誉毀損事件(十五年)といった具合だ。
事件に没頭すればするほど、生活は惨憺たるものにならざるを得ない。
貧乏と戦いながら正義を貫く
東京の国電中央線市ヶ谷駅に近い自宅。回りには近代的なビルや建物が立ち並んでいる。その谷間にポッンと取り残されたように、超然とした形でお宅は建っていた。古ぼけた木造二階建てのお宅は壁一面にツタがおおい、戦後間もなく建てられたそのままの姿だった。玄関には粗末なソファが一つ置かれただけで来客用の応接間といったものはない。清貧という以上の貧乏生活だった。
戦後三十年。日本が敗戦のどん底から経済的に立ち直り、裕福になっていったのとは逆に、正木弁護士は貧苦の中で棄民として抹殺された冤罪者を救援するため、国表権力の最深部まで下降していったのである。両者のコントラストが家並に象徴的に現わされていた。
「無実で獄に苦吟している人たちのことを思うと、ぜい沢などできないよ」
昭和四十九年八月三十一日。氏の御宅に泊めてもらった私は夜、風呂をすすめられた。風呂は玄関左側にあり、三畳間ほどの広さで木製の小さな湯舟があった。両側のカベは湿気で腐り、アチコチ破れがひどい。天井のベニヤは今にもくずれそうで、ビニールでおおってあった。
外はちょうど台風の接近で猛烈な雨がトタン屋根を大きな音でたたいていた。そのうち、二、三カ所から雨もりが始まり、天井といわず、カベといわずしずくが一斉に糸を引いた。私はぼう然として立ちつくした。
約十分ほどして雨が小降りになると、雨もりも断続的になった。私は二階の書斎で仕事に没頭されている氏のことを思うと思わず胸が熱くなった。
「無実で獄に苦吟している人たちのことを思うと、ぜい沢などできないよ」
こうしばしば正木弁護士は話された。きびしく己れを律していたのである。
御宅は交通の便のよい一等地だけに、相当な金額で土地を買いたいという話が持ち込まれたという。家を改築する話しもしばしば出た。
しかし、正木弁護士は頑として受け付けなかった。引越しや、改築によって、仕事が一時でも中断されるのがイヤだったのだ。
「今一番ほしいのは時間だ。もう十年間ほしい。そうすれば丸正事件も何とかできるし、私の仕事も完成できる」
この願いを実現することなく、氏は不帰の客となった。田中正造の晩年の心境である『辛酸亦佳境』が、そのままが氏の心情であったのではなかろうか。
正木弁護士に接して私が一番強く感じたのは子供のよぅな無邪気さと純粋さである。無名の人や若輩者に対しての正木弁護士の親切さは無類だった。が、官権や司法界の横暴に対して怒る時、歯に衣を着せず、遠慮など全くしなかった。
売名家はどちらじゃ
この子供のような純粋さから発する激情を司法界はスタンドプレーとし、売名家のレッテルを張った。
昨年一月十二日訪れた際、文化放送の朝の訪問に氏がインタビューを受けた番組を二人でコタツの中で聞いたことがある。各界の知名人に十五分間、女性アナウンサ
―が訪問してインタビューし、最後にリクエスト曲を放送する「スター」という番組であった。
氏は僕が一番好きなのはこれだといって「真白き富士の嶺」をリクエストした。曲が始まる前に氏は少しボリュームを上げられた。
ラジオから曲が流れると、氏は目を閉じてじっと聞き入っていたが、しばらくすると大粒の涙を何度も流された。曲が終っても、目は閉じたままじっとされていた。そのまるで子供のような純粋な表情に私は激しく胸を打たれた。
http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=189
http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=187
関連記事
-
-
★『オンライン60歳,70歳講座/長寿逆転突破力を発揮し老益人になる方法★『日比谷公園、明治神宮など造った公園の父>本多静六(85)の70,80歳になっても元気で創造する秘訣―『加齢創造学』10か条
2012/05/12 百歳学入門(38)記事転載 『加 …
-
-
『オンライン講座/今、日本に必要なのは有能な外交官、タフネゴシエーターである』★『日本最強の外交官・金子堅太郎のインテリジェンス①>★『日露戦争開戦の『御前会議」の夜、伊藤博文は 腹心の金子堅太郎(農商相)を呼び、すぐ渡米し、 ルーズベルト大統領を味方につける工作を命じた。』★『ルーズベルト米大統領をいかに説得したかー 金子堅太郎の世界最強のインテジェンス(intelligence )』
2017/07/24 記事再録 ★ 明治裏 …
-
-
『Z世代への日本インテリジェンス史の研究講座』★『明治大発展の国家参謀・杉山茂丸の国難突破力に学ぶ」今こそ<21世紀新グローバル主義者>出でよ』
2014/03/09日本リーダーパワー史(482)「明治大発展の国家参謀・杉山茂 …
-
-
『オンライン講座/真珠湾攻撃から80年⑦』★『 国難突破法の研究⑦』★『1941年(昭和16)12月3日の山本五十六の家族との最後の夕餉(ゆうげ、晩御飯)のシーン』★『久しぶりの家族六人一緒の夕食で山本も家族も何もしゃべらず無言のまま』★『日本ニュース『元帥国葬」動画(約5分間)』★『東郷神社や乃木神社にならって、山本神社を建てようという運動が起きたが「神様なんか、一番イヤがるのは山本自身ですよ」と米内光政は断固として拒否した』
&nb …
-
-
『オンライン/真珠湾攻撃(1941)から80年目講座④』★『日米リーダーシップ/インテリジェンスの絶望的落差』★『東京五輪開催で日本は2度目の新型コロナ/ワクチン/経済敗戦につながるか』
2015年5月19日/日本リーダーパワー不在史(568)再録 &n …
-
-
『Z世代のための百歳学入門』『日本歴史上の最長寿118歳(?)永田徳本の長寿の秘訣は?・『豪邁不羈(ごうまいふき)の奇行です』★『社名・製品名「トクホン」の名は「医聖」永田徳本に由来している』
2012/03/04 /百歳学入門(33)記事再録編集 『医聖』-永 …
-
-
★『地球の未来/明日の世界どうなる』 < 東アジア・メルトダウン(1074)> ★『第2次朝鮮核戦争の危機は回避できるのか⁉④』★『「クリスマスまでに…」トランプが安倍首相に告げた北朝鮮危機限界点』★『アメリカは北朝鮮の「先制攻撃」を、いまかいまかと待っている 国連安保理の制裁決議で起こること』★『北朝鮮より大きな危機が、5年以内に日本を襲う可能性 中国に「乱世」がやって来る』
★『地球の未来/明日の世界どうなる』 < 東アジア・メルトダウン(1074 …
-
-
『オンライン/山本五十六のインテリジェンス、リーダーシップ論』★『2021年は真珠湾攻撃(1941年)から80年目、日米戦争から米中戦争に発展するのか!』
山本五十六×前坂俊之=山本五十六」の検索結果 85 件   …
-
-
『オンライン憲法講座/憲法第9条(戦争・戦力放棄)の発案者は一体誰か④』★「マッカーサーによって押し付けられたもの」、「GHQだ」「いや,幣原喜重郎首相だ」「昭和天皇によるもの」―と最初の発案者をめぐっても長年論争が続き、決着はいまだついていない』★『憲法問題の核心解説動画【永久保存】 2013.02.12 衆議院予算委員会 石原慎太郎 日本維新の会』(100分動画)
2006年8月15日/『憲法第9条と昭和天皇』記事再録 …
-
-
『5年前の記事を再録して、時代のスピード変化と分析ミスをチェックする』-『2018年「日本の死」を避ける道はあるのか⑥』★『『安倍政権はヨーロッパの中道政権とかわりない』 <仲良くせよ、けんかをするな、悪口をいうな、安全、 安心」一点張りの<ガラパゴスジャパン>主義が日本を潰すのです』
★『2018年「日本の死」を避ける道はあるのか ー―日本興亡150 …