前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『リーダーシップの日本近現代史』(9)記事再録/ 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ⑫『福島安正のインテリジェンスが日清,日露戦争の勝利の主因①わが国初の国防書「隣邦兵備略」を刊行、清国の新海軍建設情報 を入手、朝鮮を属国化し大院君を強引に連れ去った

   

 

      2015/12/08日本リーダーパワー史(618

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

<以下は島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年刊)、豊田穣『情報将校の先駆・福島安正』

(講談社、1993年刊)などを参考にした>

明治維新10年後の国内状況はどのようなものだったのか。

1878年(明治11)5月、福島安正は陸軍中尉に任命され、その抜群の語学力とインテリジェンスの能力によって山県有朋参謀本部長の伝令使として、側近で働くことになった。福島安正といえば明治25年のロシア偵察のシベリア横断が、あまりにも有名だが、その第一回の偵察旅行が明治12年7月からの北支(北中国)、内蒙古(内モンゴル)探索で、この時、彼が作成した『隣邦兵備略』は当時、殆ど知られていなかったこの方面の内情を詳しく調査したもので、福島の情報将校とプロフェッショナルは超一流との評価を受けることになったものである。

明治10年の西南戦争の内乱とその後始末に政府も苦慮しており、戦争で予算を使い果して財政難のため、同戦争での論功行賞も極めて不十分で、国内の政治状況、軍の内部混乱も依然として続いていた。

しかし、参謀本部にとっては国の防衛政策は一日として欠かすことのできない重大事であることに変わりはなかった。福島は『外国は日本の国内事情なぞ待ってはくれない。いやかかる時こそ国防の最も危険な時であるから対外警戒を厳重にせねばならぬ』との警戒心を持っていた数少ない情報将校であった。

山県有朋参謀総長は欧州兵制を研究して帰国したばかりの大山厳を次長として参謀本部の内容充実に努めていた時で、福島は「隣国・大清帝国の動静を内偵旅行したい」と申し出た。

明治初期、日本の将校が、先輩国の欧州列国に多数留学していたが、どこの国に行っても、その国が防衛計画をどのよぅにして策案し、その前提として情報をどうして集めているかといった問題を教えてくれる外国は絶対に有り得ないーことを福島は認識しており、「防衛計画の前提となるべき情報収集の方法、手段等についてどうすればよいか」自らの実践を山県参謀総長に献策したのである。

福島はこのときに提出した情報調査の必要性について、

こう書いている。

『当時のわが国は、遠く離れた欧米の文明技術の研究することに汲々としていたが、直ぐ近くの隣国(清国、朝鮮、ロシア)の歴史、国力、国民性等を調査研究することをせず、周辺国との情勢に応じて作戦をたてることも全くしていなかった』

『本邦のように今や東洋の無事なるときに当たって鋭意、隣国の実力を検討し、あらかじめ有事の時に備得る断固たる戦略、国防政策を立てねばならない』

この明治初期の福島のインテリジェンスと、清国側の日本の見方、日本側のその後の太平洋戦争前、現在の安保論議を比較すると、断然、福島の先駆性、戦略論が輝いている。日清戦争の勝利には、明治のトップリーダーたちのこうしたインテリジェンスアイがその原動力になったのである。

この福島の清国調査旅行は北京と内蒙古の周辺を、探査するもので、そのコースは、横浜―上海-チーフ―天津―北京―古北口(万里の長城の門あり)―タリン(内蒙古)―張家口ー居庸関(万里の長城の門あり)-北京の予定であった。

清国人に変装し福島はチーフーで古着の清国服を買い、中国語を勉強しながら、連絡しておいた案内役の青年らと一緒に、のちには漢方薬売りに化けて踏査行を続けた。

1879年(明治12)12月、約半年間の北支、蒙古の偵察を終った福島中尉は、帰国後直ちに報告資料を整理し、山県参謀本部長の命令で「隣邦兵備略」と称する清国軍関係の情報参考書を作成。翌13年にこれを明治天皇に献上している。これがわが国初の国防に関する情報書、この「隣邦兵備略」の情報資料は明治15年第二版、17年第三版と2年毎に補備修正され、何れも福島が担当した。

清国の新海軍に関するマル秘情報を入手

福島の調査能力には非凡なものがあり、当時の清国海軍の最新式軍艦による近代化の状況と海軍士官の急速養成による新海軍の建設情報を入手しており、清国宰相の李鴻章が独、英、仏各国の援助を受けて秘かに実施中のものであり、この新海軍の建設こそ日本海軍を断然リードして、そのうちに極東の制覇を企図していたものであった。

その概要は次のとおり

「明治10年留学生を英仏両国に派遣し、その数は教官要員の30名なり。明治13年8月、天津に水師学堂(海軍士官養成所)を開設して士官の大量養成に着手した。

明治14年ドイツで建造した定遠、鎮遠の両艦は三十インチ主砲四門を砲塔内に装備した七千四百トンの新式戦艦である。(わが戦艦松島は四千トンである。なお情報収集としては南支方面偵察の樺山資紀中佐と共に海軍の児玉利国少佐と陸軍の福島九成少佐とが同行している」

朝鮮の京城(ソウル)に日本公使館が開設されたのは明治13年4月である。その半年後の同年10月には早くもわが公使館に次のような有力な情報が入った。

清国が最近、急速に朝鮮政府に働きを、かけているというものであり、その実情を調査したところ、清国の李鴻章が新海軍建設の威力を背景にして朝鮮政府に申し入れたことが判明した。

その内容は『ロシアと日本とが朝鮮を侵略する危険が大きいので、朝鮮が希望するならば清国海軍が朝鮮の防衛援助をしてもよいというもの』。さらに最近は京城の玄関口にある仁川沖に清国海軍の新鋭艦が姿を現わし、また親善訪問と称して、朝鮮の主要な港にその英姿を見せる度数が非常に多くなったということも判った。

当時のわが参謀本部としては、清国のこの露骨な高姿勢に狼狽の色をかくせなかった。

明治14年、朝鮮国内においては親日派、親支那の両派の抗争が激化しつつあった。親日派は日本の明治維新以来の発展を見習って両国が協力して朝鮮の革新発展を図ろうとする派であり、こ親支那派は清国の強大な国力の支援を受けていくもので互に反目していた。

明治15年7月には京城で反日暴動が勃発して、暴徒は日本本公使館を包囲、焼き討ちし邦人が多数死傷する壬申の変が起きた。

この時、参謀本部は軍艦金剛を急派し同時に福島安正中尉ら4名を現地に派遣し、作戦構想を現地偵察によって練らせた。事変後も福島は更に約二ヵ月間、ソウルに残留して情報調査に当った。ところが驚いたことに福島がまだいた頃の同年八月のこと、今度は清国軍艦が何等の通告もなく堂々と仁川港に進入し、陸軍兵約二百余人を上陸させ、これらの陸軍部隊は京城に進入して朝鮮王宮を囲み、たちまち朝鮮宮廷の大院君を捕えて軍艦に連れ去り天津に輸送してしまった。

清国政府は、この年明治15年10月には清朝2国間に新しい通商条約を結ばせ、朝鮮に対する宗主権を強化(朝鮮を清国の属国とみなす)してしまう強圧手段に出た。

「清国とはこのような傍若無人なことをする国であったのか』と福島、参謀本部、政府は今更のように驚き、そこで参謀本部は、遅まきながら次の方策を決定せざるを得なかった。

①対外軍備の方針として従来ただ漫然と対ロシア軍備としていたものを、今度は明瞭に対清軍備に変更する。

②わが軍備の弱体なるにつけ込まれた今次教訓を反省して、今後は至急軍備拡充の計画に着手する。

当時のわが軍備概況(明治十五年現在)は、陸軍は平時兵力三万九千人、海軍、軍艦一〇隻(二万五千トン)しかなく、清国との国力差、軍事格差は大きく劣っていた。

 

つづく

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『オンライン/明治外交軍事史/講座』★『森部真由美・同顕彰会著「威風凛々烈士鐘崎三郎」(花乱社』 の背景を読む➄』日中友好の創始者・岸田吟香伝②『 楽善堂(上海)にアジア解放の志士が集結』★『漢口楽善堂の二階の一室の壁に「我堂の目的は、東洋永遠の平和を確立し、世界人類を救済するにあり、その第一着手として支那(中国)改造を期す」と大書』

     2013/02/19『リーダーシップの日 …

『最悪の国難(大津波)を想定して逆転突破力を発揮した偉人たちの研究講座』★『本物のリーダーとは、この人をみよ』★『大津波を予想して私財を投じて大堤防を築いて見事に防いだ濱口悟陵のインテリジェンス②』★『野口恒の震災ウオッチ』東日本大震災の復興策にも生きる「浜口梧陵」の業績ーー復興策の生きた教材-』

2011/08/26  『野口恒の震災ウオッチ』記事再録 野 …

★『ゴールデンウイーク中の釣りマニア用巣ごもり動画(30分)』★『5年前の鎌倉カヤック釣りバカ日記(4/26)「ファースト・ダブル・キス」で釣れ続く、わが「ゴールデン・キスウイーク」の始まり始まり』★『今や地球温暖化、海水温上昇で、 鎌倉海も魚、海藻、貝などの海生物が激減し、<死の海>に近づきつつある、さびしいね』

     2015/04/26 &nbs …

no image
速報(294)◎『日米政府による原発推進と核兵器政策は最初から表裏一体のものー 田中利幸バンクーバー講演録』

速報(294)『日本のメルトダウン』   ◎『日米政府による原発推進と …

Z世代へのオープン歴史講座・なぜ延々と日韓衝突は続くのかルーツ研究⑧』★『1894(明治27)年7月13日付『英国タイムズ』★『(日清戦争2週間前)「朝鮮を占領したら、面倒を背負い込むだけ』★『日本が朝鮮を征服すれば,この国が厄介きわまりない獲物であることを思い知らされる一方,中国にはいつまでも敵意を抱かれることになる』

 2014/09/06 /現代史の復習問題/「延々と続く日韓衝突のルー …

no image
速報(45)『福島原発事故2ヵ月』悲惨を極める原子力発電所事故―終焉に向かう原子力講演①<小出 裕章>

速報(45)『福島原発事故2ヵ月、100年廃炉戦争へ①』 悲惨を極める原子力発電 …

no image
日本メルトダウン脱出法(732)「ラグビー日本代表はなぜ“強豪”になったのか、W杯勝利へのマネジメント術」●「このままだと3分の1が空き家に!?–実家を見捨てる都会人の複雑な想い」

    日本メルトダウン脱出法(732) ハリポタ作者「こんな話書けない」、日本 …

no image
終戦70年・日本敗戦史(134)満州事変報道で、軍の圧力に屈し軍縮論を180度転換した「朝日」,強硬論を突っ走った『毎日』,敢然と「東洋経済新報」で批判し続けた石橋湛山

終戦70年・日本敗戦史(134) <世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月 …

no image
『日本敗戦史』㉛『太平洋戦争敗戦70年目―ポツダム宣言を即座に受諾する政治決断力がなく終戦までの3週間 に50万以上が犠牲に。

  『ガラパゴス国家・日本敗戦史』㉛   『来年は太平洋戦争敗戦から70年目― …

no image
東京理科大学・大庭三枝教授が著書『重層的地域としてのアジアー対立と共存の構図』について3/8日、日本記者クラブで講演動画(120分)

東京理科大学・大庭三枝教授が著書『重層的地域としてのアジアー対立と共存 の構図』 …