日本リーダーパワー史(42)外国新聞がみた日本のリーダー・若き日の伊藤博文は外国人を好み、やさしく扱う人
外国新聞がみた日本のリーダー・若き日の伊藤博文
前坂 俊之
外国人をこのみ、丁寧にあつかう人
「もしほ草」1868(慶応4)年3月12日(2月19日)付
神戸の奉行伊東俊助といえる人は、以前ヨーロッパへ遊学し、外国人の事がらもよく知りたる人なり。ゆえに外国人をこのみ、丁寧にとりあつかい、まことによき人なり。神戸の港もはかくひらけ、処々、家作も出来たり、いずれも丈夫なる家なり。もっとも地面は異人の随意にて、いずれの地面にてもかまいなきよし。ゆえにとなりどうしともなり、日本人異人の中、まことにむつまじくねんごろなり。大阪神戸のあいだ、蒸気車道、テレグラフできること疑なし。アメリカ人、フランス人、イギリス人と、銘々三通に製作の仕方を書付にして政府へ指出したり、願済とならは、直に外国人取かかるべし、しかるときほ、神戸も実以て繁昌の港となるべし。
兵庫県知事当時の官邸のようす
「ニューヨーク・タイムズ」1858(慶応4)年9月13日〔7月27日〕付
私は今日、副知事の伊藤俊輔を訪ねた。しかし彼が不在だったので、この機会をとらえて敷地を散策した。左手には大きな池があり、金魚が飼ってあった。右手には古い大樹の並木があった。人工の狭間を渓流が流れ落ち、そばに小さな岩屋があった。
その向こうには青々とした芝生が見渡され、風変わりな灯樋や橿木が散在し、枝はみごとに整えてあった。奥まった所にあずまやがあり、テーブルに英語の教科書と新聞、そして和英の辞書が置いてあったので、ここは副知事の書斎であると知った。
こうしていても副知事が戻ってこないので、私は税関を訪れてHASSA-GAWA
HOUSKIに会った。彼は感じのよい日本の若者で、長崎の学校でわが宣教師に英語を習ったことがあり、話す英語はとても流暢である。彼は私に日本語を教えようと買3って出た。しかし、日本人には自分たちの言語を教える力はなく、実は、彼らは外国人から外国人の文法的知識しか学んでいないことが私には分かった。当地で会える少数の興味深い人物の中には、アムステルダムから来たオランダ人医師、ドクター・ホネックがいる。彼は開業したはかりだが、成功の見込みはおおいにある。東洋では、医者ほど将来性のある専門職はない。おのおのの商会は普通、年に1㈱ないし150ドルの報酬を医者に支払っている。こういう慣例なので医者は一人立ちできるのである。
伊藤博文―外国新聞に見る人物評「日本人列伝」
『ジャパン・ウィークリー・メイル』1880(明治13)年8月21日付
一八六四年八月、学生の身なりをした二人の日本の若者がイギリス軍艦の甲板に立って、次第に遠くかすんでゆく海岸を眺めていた。軍艦は、外国列強の旗を侮辱した長州藩主に当事国とその同盟国の最後通牒を渡すべく横浜から下関へ向かうところだった。二人の学生は井上馨(現外務蜘)とこの略伝の主人公である。
二人はともに藩の規則を破り、封建的主君である長州藩主の意向にさからって、当時、日本の若者の想像力をかき立てていた西洋文明を見聞するために西洋諸国を訪れていた。それはちょうど、エリザベス時代の荒くれ者たちが「いざ、西へ!」のかけ声とともに、南アメリカの裕福な諸都市を略奪し、憎むべきスペイン人にひとあわ吹かせるために危険に満ちた大海へ乗り出していったのと似ている。
どちらも同じ熱烈な祖国愛に燃えていた。この祖国愛は処女女王治世のころのわが国の貴顕人士の顕著な属性である。伊藤と井上の場合は、文字通り命がけで、自分たちが不興を買った藩主に、外国同盟の要求に抵抗することの無益さを説くという、危険きわまる役目を果たそうとしていた。西洋訪問で得た経験をもとに状況を説明すれば、愛する国を迫りくる惨禍から救うことができるかもしれないと望みをかけていたのだ。
この企ての結果は歴史のページに血で書かれているが、そのことはこの略伝の本筋とは関係がない。二人の若き使者が、失敗に終わったものの詠む誠意任務を果たしたことを記しておけば足りる。
伊藤博文は一八四〇年、長州に生まれ、力の真の源である知識に渇いた活発な知性に対して教育が与えることのできる利点をひとつ残らず取得した。
すでに述べたとおり彼は井上公とともにイギリスに渡り、最も恵まれた環境のもとで西洋文明を勉強できるこの機会を貪るように利用した。帰国した伊藤は前述の危険な仕事を自ら買って出て、大方の暗い予想に反して無事に逃げおおせた。その後、彼は参与兼外国事務局判事に任命された。まもなく大阪府参事となり、続いて兵庫県知事となった。
この責任ある難しい地位にあって、伊藤が外国で得た知識は帝国に計り知れないほど役に立った。外国人に対しては昔からの憎しみと追放欲が今なお日本人多数の支配的感情であり、その爆発を防ぐために伊藤は絶えず警戒の目を光らせながら自らの外交手腕と能力を休みなく働かせなければならなかった。爆発があれは、当時、維新に伴う産みの苦しみからゆっくり回復しつつあったこの国に大きな不幸と屈辱をもたらしたにちがいない。
持前の熱意と能力で兵庫県知事を立派につとめたのち伊藤は大蔵大輔に任ぜられ、公務でアメリカを訪問した。アメリカから戻った伊藤は工部大輔になり、根強い反対を押し切って東京・横浜間の鉄道建設を実現に導いた。この件に関しては大隈公の貴重な助力があった。
一八七一年、この小伝の主人公は有名な使節団の副使のひとりとして岩倉、大久保、木戸、山口とともにアメリカとヨーロッパを訪れた。サンフランシスコでは使節団一行は盛大な歓迎を受け、伊軋よ英語でスピーチをして大いに注目を集めた。その中で伊藤は使節団の目的と故国の抱負を詳しく述べた。当時、文明の道に一歩足を踏み出したばかりの日本はその後大胆に歩を進めてきている。
一八七三年に使節団が帰国したとき政府の関心を集めて熱い議論の的となっていたのは朝鮮侵攻問題で、この問題をめぐって閣僚間に大きな対立が生じていた。伊藤ら、外国旅行で目を開かれていた閣僚たちはためらうことなく、戦争とそれにともなう日本の財政破壊に反対した。これがもとで内閣は分裂し、有名な西郷とその同調者は野に下った。政府改造にともなって伊藤は参議兼工部卿に任命されるとともに正四位に叙せられた。
一八七四年、故大久保がフォーモサ(台湾)をめぐる紛糾の関連で北京に出かけると、伊藤は大久保の留守中の内務卿代行をつとめ、この年初めて召集された地方官会議の議長に任命された。しかし情勢不安のため同会議は結局開催されなかった。中国との問題が平和的解決を見たのち、政府の有力閣僚数人が主流派の対外政策に対する不満から郷里に引退した。こうしたあつれきは長びけば帝国に大きな被害をもたらしたであろうが、幸いにも、昔から伊藤と試練や危険をともにしてきた頼もしい盟友、井上磐公の努力で無事におさまった。ある会談-日本史上、「大阪会議」として知られている-が大阪で開かれ、立場を異にする閣僚の私憤が友好的に解消されたうえ、ひとつの重大計画が立案されて、おのおの力を合わせてその実行にあたることになった。
伊藤、板垣、木戸、大久保は日本に代議員制度を認可することの是非を検討する仕事を割り当てられた。彼らの努力の結果は一八七五年四月十四日に天皇が行った約束のうちに現れている。その内容は、国内にそのような制度的変革の機が熟した時点で国民議会を開設するというものであった。
伊藤公はその後東北地方と蝦夷を視察して回り、人々の要求と国の資力を調査して一八七七年に首都に戻った。次いで天皇の京都行幸に随行して、西南の大反乱の間、天皇とともに京都にとどまった。平和が回復したのち、伊藤は勲一等旭日章を授与された。
以来・伊藤公は数々の要職を歴任し、栄誉を重ねると同時に祖国に対して多大な働きをしてきた。閣僚制度取調局長官、地方官会議議長、そして-大久保が無残に暗殺されたのち-内務卿。
どの地位にあっても伊執は革命後の新政府を待ち受けていた壮大な課題を正しく認識して立派に職責を果たした。グリフィスの生彩ある表現を借りれば、その巨大な事業とは「積年の病を癒やすこと、封建制と党派主義をその弊害もろとも根こそぎにすること、日本に新しい国民性を与えること、日本の社会制度を変えること、日本の血管に新しい血を輸血すること、突然の光の洪水で半分目の見えなくなっている隠者の国をキリスト教世界の裕福で攻撃的な諸国家の競争国に仕立てあげること」であった。
伊藤とその同輩が彼らの前にあって解決を迫る大問題をいかにみごとに処理してきたかは、決して誤りを犯すことのない時間の手によって誤解と偏見の零が一掃されたときに歴史が忠実に記録するだろう。
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