前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(48)名将・川上操六のインテリジェンス④藩閥・派閥を超えた徹底した人材抜擢法とは

      2020/01/23

日本リーダーパワー史48名将・川上操六のインテリジェンス④
 
 
 
 
明治陸軍空前絶後の名将・川上操六の人材抜擢法とは④・・・
 
 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
明治十七年、川上操六は大佐として、陸軍中将三浦梧楼、陸軍少将野津道貫、陸軍大佐桂太郎らと共に大山陸軍卿に随行して、欧州各国の兵制を1年余にわたって視察し、十八年一月に帰朝した。
同年五月、陸軍少将兼参謀本部次長に任ぜられ、十九年に近衛第二旅団長となりヨーロッパに派遣、ドイツに留まること二年、ドイツ参謀本部のインテリジェンスを徹底して学び、同時に世界の大勢、各国の軍事・政治動向に目を配り、列強帝国主義の餌食となっていたアジア大陸の悲劇を目のあたりにしながら帰国した。
 
明治二十二年、再び参謀本部次長に補せられ、対ロシア戦略を練りながら毎年大陸沿岸の要地および各地方を巡視し、同二十六年には清韓両国を巡遊した。
明治の陸軍は、明治4年(1871)2月の御親兵の新組織として発足、やがて鎮台組織によって全国的防備態勢をととのえた。兵隊も、藩兵から徴兵制度にきりかえられた。この間、萩の乱・佐賀の乱・秋月の乱・神風連の乱などの旧士族による各地の反乱を制圧し、最後に西南の役を鎮圧することで、明治新政府の国内体制を盤石なものにした。
 この陸軍創設の功績は山県有朋を筆頭に、西郷従道・鳥尾小弥太・三浦梧楼・山田顕義・谷干城・大山巌・野津鎮道らに帰するが、このなかには軍令の功将いない。いずれも勇猛果敢な闘将ばかりで参謀の不足とと参謀組織の不備は目を覆うばかりであった。
 西南戦争の反省から、明治二年(一八七八)一二月、陸軍省の別局であった参謀局が廃止、新たに参謀本部が設けられた。軍令機関の参謀本部が、軍政機関の陸軍省と併立して設けられ、陸軍・軍事の2チャンネル制となり、その後の昭和の陸軍の暴走、分裂、アウト・オブ・コントロールの原因がここに作られることになる。
参謀本部の最初の陣容は陸軍中将大山巌が参謀本部次長に、陸軍卿陸軍中将山県有朋が参謀本部長に、陸軍卿の後任には、文部卿陸軍中将西郷従道がついた。
 さらに明治18年、参謀官の教育機関として、陸軍大学校が開校され、20年、最初の校長には監軍部参謀長歩兵大佐・児玉源太郎が就任した。この陸軍大学校こそ、陸軍の軍令界に大きな貢献したが、一方では陸軍軍閥の根源ともなった。開校に当ってはドイツから参謀少佐メッケルを招聘して、兵学および軍制の教官としたが、それまでのフランス方式からモルトケ・ドイツ兵学へ陸軍の戦略戦術を大きく転換することになった。
この陸軍軍令部門・参謀本部を発展・育成させ、日清戦争・日露戦争の勝利の基礎を固めた男こそ川上操六その人である。
明治陸軍の軍令府は川上によって代表され、「軍令の川上」は、「軍政の桂」と並び称せられた。
 
 明治一八年五月、川上は陸軍少将に昇任し、参謀本部長山県有朋の下で、参謀本部次長となった。山県は内務卿を本職としていたので、次長の責任は重く、誰れが座るか注目されたが、先輩をごぼう抜きして川上が抜擢された。翌年三月、近衛歩兵第二旅団長に転出したが、この閑職を利用して、ふたたびドイツに1年以上も留学し、同国の参謀総長モルトケ、次長ワルデルゼについて用兵作戦の徹底した手ほどき、インテリジェンスの要諦をたたきこまれた。
明治二二年三月、参謀本部条例の改正によって再び参謀次長となり、このときの参謀総長は有栖川宮親王だったが、これは名目上で川上が参謀本部のトップに立ち、全力を傾倒して、参謀本部の充実にまい進した。   

 川上は参謀本部の拡大充実のため、まず最初に取り組んだのがひろく人材を集めること。それまでの陸軍は薩長藩閥の独占物と化していた。どんな有能なものでも薩長閥以外の者はある程度以上は昇進できなかった。熊本籠城の猛将・谷干城は、大臣子爵にはなったが、軍人の階級は中将どまりだったのは、土佐出身だからだ。山地元治が古今の名将といわれながら中将で終わったのも土佐生れだったためだと言われる。
 立見尚文も戦略家で山地に劣らず、大将の呼び声があったが、幕府の親藩桑名の出身で、賊軍として東北に転戦し、山県有朋を手きびしく敗走させた戦歴がたたったと言われる。しかし日露戦争では弘前師団をひきい、黒溝台の役で大危機におちいった時、七倍の敵をむかえて、孤軍奮闘して撃破した。この殊勲がは誰れもみとめないわけにゆかず、薩長閥外の出の最初の大将になった、と言われる。薩長の特権意識は抜きがたいものがあった。
川上はこうした旧弊、藩閥派閥意識を打ち破った。先輩のやったことは、自分では今更どうにもできぬが、自分が新たに作る参謀本部だけでは、若き有能な人材を藩閥に一切拘泥せず、門戸を開放した。
川上が最も信頼していた田村怡与造は甲州出身。本人は神主の子で維新のおり官軍についたといっても、甲州勤番という幕府直轄地の出である。また福島安正大尉はそのとなりの信州生まれだった。
 東条英教(英機の父)ほ、維新の賊軍仙台藩の出だったが、陸軍大学一期の一番でメッケル将軍からスエズ以東第一の軍事的頭脳とほめられた英才で、特に抜擢した。また日露戦争のときになって東条以上の作戦的実績をあげた松川敏胤もおなじ仙台なのである。
岡山出身の若き少尉宇垣一成も、川上操六がこの出来る青年を万一、失うことがあってはならぬと惜しんで、日清戦争に出征させず、とぐに目をかけて自分の幕下においた。
このように。日本の参謀本部は川上によって初めて薩長の軍隊から、真の日本軍隊に生まれかわったといってよかった。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究 , , , , , , , , , , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
 日本リーダーパワー史(179)<国難突破力ナンバー1の出光佐三の最強のリーダーシップ>『逆境にいて楽観せよ』①

 日本リーダーパワー史(179)   『国難突破力ナンバー1の男 <出 …

no image
池田龍夫のマスコミ時評(51)●『原発事故収束」へ5条件の緊急提言』★『原発再稼動「新安全基準」の危うさ』

 池田龍夫のマスコミ時評(51)   ●『原発事故収束」へ5条件の緊急 …

no image
日本一の「徳川時代の日本史」授業⑧福沢諭吉の語る「中津藩での差別構造の実態」(「旧藩情」)を読み解く⑧

 日本一の「徳川時代の日本史」授業 ⑧   「門閥制度は親の …

「トランプ関税と戦う方法論⑭」★『日露戦争勝利と「ポーツマス講和会議」の外交決戦始まる②』★『その国の外交インテリジェンスが試される講和談判』★『ロシア側の外交分裂ー講和全権という仕事をウイッテが引き受けた』

  2022/04/07/ オンライン講座/ウクライナ戦争と …

no image
1954(昭和29)年とはどんな時代だったのか-<大疑獄事件で幕を閉じた吉田長期政権(昭和29年)>

                                         …

Z世代への遺言「東京裁判の真実の研究②」★『敗戦で自決した軍人は一体何人いたのか』★『東京裁判ではA級戦犯の死刑はわずか7人、BC級裁判では937人にものぼり、下のものに圧倒的に重罰の裁判となり、「復讐の裁判」との批判を浴びた』★『戦陣訓』で、捕虜になるより自決を強制した東条英機の自殺失敗のお粗末、無責任』

『リーダーシップの日本近現代史』(124)ガラパゴス日本『死に至る病』 &nbs …

no image
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(172)』『都知事 M氏のこと、雑感ですー久し振りにセコイ大陸系金権政治家の亡霊が現れた感じです。政治資金規制法の抜け道を狡猾に利用している様ですが・・』

 『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(172)』 『都知事 M氏 …

『Z世代のための<日本安全保障史>講座⑤」『日露戦争は民族戦争・宗教戦争ではなく防衛戦争』★『ドイツ・ロシアの陰謀の<黄禍論>に対して国際正義で反論した明治トップリーダーのインテリジェンス戦略に学ぶ』★『英国タイムズ紙、1904(明治37)年6月6日付記事を読めばよく分かる』

2013/05/04 /日本リーダーパワー史(380)記事再録編集        …

『リーダーシップの日本近現代史』(170)記事再録/「プラゴミ問題、死滅する日本周辺海」(プラスチックスープの海化)ー世界のプラゴミ排出の37%は中国、2位のインドネシアなど東南アジア諸国から棄てられた海洋プラゴミは海流によって日本に漂着、日本の周辺海域は「ホットスポット(プラゴミの集積海域=魚の死滅する海)」に、世界平均27倍のマイクロプラスチックが漂っている』

逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/11/02am1100)   & …

no image
速報(418)『長期沈滞からテイクオフしかけたばかりの<アベノミクス>は外交オウンゴールで失速してはならない!」

 速報(418)『日本のメルトダウン』 ●『対外的には未来志向・戦略的 …