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日中北朝鮮150年戦争史(46)『来年(2017)はアジア大乱、日米中の衝突はあるのか」●『120年前の日清戦争の真相ー張り子トラの中国軍の虚像を暴露』(下)『  陸戦でも秀吉の朝鮮出兵から約300年後に、対外戦争が開始された』●『 海上の天王山・黄海で北洋艦隊の主力を全滅にした』●『日清海戦の7つの勝因』

      2016/12/15

日中北朝鮮150年戦争史(46)

 

宮古沖で日本を挑発する中国の狙いは「日中開戦」なのか?

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50440

日本メルトダウン(1001)<チャイナリスク高まる>ー

『宮古沖で日本を挑発する中国の狙いは「日中開戦」なのか?』『トランプ「一つの中国政策、堅持する必要ない」』●『日本、中国に厳重抗議 「空自機が妨害」との中国国防省発表に』●『インターポールも陥落、国際機関を囲い込む中国の思惑』●『カメラの前で泣けと――中国の人権派弁護士ら拘束から1年 安否気遣う家族』●『中国・李克強氏の「内通者非難」発言がネット流出した背景』●『「文明」外交術でエジプトに接近する中国 “対等な立場”で近づきアラブ世界への影響力を拡大』

http://www.maesaka-toshiyuki.com/war/21905.html

 

陸戦でも秀吉の朝鮮出兵から約300年後に、対外戦争が開始された。

豊島沖海戦が起きた25日には、陸軍の大島義昌少将率いる混成旅団(歩兵3000人、騎兵47山砲8門)は牙山駐留の清国軍部隊(4100人、砲8門)を攻撃するために仁川から出発した。炎天下を37キロもの行軍で水の補給がなく途中、日射病患者が続出したが、前進し、成歓に到着した。

 

7月29日、大島率いる第9歩兵旅団は成歓付近で、初めて清国軍と戦闘した。

成歓の陣地に立てこもった清国兵は約3500で日本軍もほぼ同数の3000、付近は丘陵に水田と陣地があり、見通しのよい水田をいけば狙い撃ちされる。

大島混成旅団は大きく迂回して夜間行軍して同深夜、清国軍の背後から奇襲攻撃をかけて成歓を奪い牙山を占領した。戦前の修身教科書の「死んでもラッパを口から離しませんでした」の木口小平ラッパ卒の軍事美談はこの時のもの。

 

寄せ集めの3500の清国兵は初めて見た日本兵の勇猛果敢な一斉突撃に驚き、

総崩れとなり武器等を放棄して平壌に逃げ帰った。日本軍の死傷者80に対して、清国軍500以上にのぼった。

この緒戦の勝敗がその後の行方を決めた。日本軍は縦隊進軍―散開―射撃-突撃という近代戦法で、夜襲、奇襲の積極果敢な攻撃を繰り返して、勝利した。

ところが、前掲書『李鴻章』によると、清国軍の虚偽体質が記録されている。

二十九日に牙山は陥落し、直隷提督(中将)葉志超は平壌に退いたが、ウソの戦功を朝廷に報告していた。葉志超は25―27日の戦闘で、日本軍を五千人余り殺したと報告した。そのため、皇帝から兵士へ銀二万両の賞金が分配され、将官らも数十人の褒賞者が推薦されていた。

 次の天王山は平壌の戦である。

平壌は約10mの堅固な城壁で囲まれた朝鮮最大の要塞都市。城壁には七星門、静海門など10の開門があり、外郭に玄武門や牡丹台が築かれ、難攻不落を誇っていた。清国軍はここに約1万2000と、成歓の敗兵約3000人も退却し、山砲28門などで日本軍を迎え撃つ作戦だった。

 

一方、日本軍第5師団(団長・野津道貫中将)の主力は8月19日、京城付近に到着。野津中将は山県有朋第1師団長から独断専行の権限を与えられており、平壌へ向け早くも30日、師団に進軍を命じた。

大島混成旅団は北進、佐藤支隊は元山から平壌道へ、朔寧支隊は義州街道を前進して、師団主力は西方から包囲する計画で、9月15日を総攻撃の日と定めた。

 

日本軍は約1万2000、山砲44門で、わずか2日で攻略する大胆な作戦で、食糧も3日分しか携帯していなかった。

9月15日未明、総攻撃を開始した。大島旅団は清国軍主力の猛反撃を受けて430人の死傷者を出して一時退却した。

朔寧支隊と佐藤支隊は平壌北側の城壁をよじのぼり占領、平壌市街に迫り午前7時過ぎ玄武門、牡丹台などを占領した。

このとき、朔寧支隊では工兵16人の決死隊を送った。玄武門は堅く閉ざされていたが、一同城壁をよじ登ったところ、敵兵の一斉銃撃で進退きわまった。ここで、原田十吉(等工兵むらが12mの高さから城内に飛び下りて門を開き、16名を入れて、これが勝利の決め手となった。

この「原田十古の玄武門破り」の武勇は講談、演劇などで日本中に喧伝され、日清戦争初期の軍事美談となった。

一方、師団主力の攻撃ははかどらなかったが、午後4時過ぎ、突然、敵は城壁に白旗を掲げ明朝の開城を約束した。驚いた野津司令官は「策略ではないか。明朝の攻撃をおこたるな」と命じた。実は清軍の総司令官・葉志超は玄武門を占領されたショックで、緊急の将軍作戦会議を開いた結果、退却を決めて、白旗を上げ午後9時ごろ、清国軍は一斉に逃走してしまった。翌日、日本軍はもぬけの殻となった平壌城内をなんなく占領した。

海上の天王山・黄海で北洋艦隊の主力を全滅にした

 

平壌の戦いのあった9月16日、海上でも天王山があった。黄海海戦である。

大本営の作戦では8月中旬までに渤海の制海権をとらないと、氷結のために陸軍の山海関上陸、直隷平野の決戦ができず、作戦全般に大きな支障をきたす。大本営参謀の樺山軍令部長は9月6日、連合艦隊の仮根拠地の朝鮮・長直路に乗り込み、慎重派の伊東司令長官にはッパをかけて決戦を促した。士気はいやが上にも上がった。

16日夕、連合艦隊本隊(6隻)、第1遊撃隊(4隻)など12隻が出動、勇猛果敢な樺山は自ら日本郵船の貨客船を武装して巡洋艦に代用した『西京丸』(1291トン)に乗艦して、艦隊に同行して見守るという異例の展開となった。

 

17日朝、大孤山沖の黄海で清国艦隊と遭遇した。日本側は、坪井司令官の率いる第1遊撃隊・吉野、高千穂、秋津洲、浪速、伊東長官指揮の本隊・松島、千代田、厳島、橋立、比叡、扶桑。樺山軍令部長の乗る西京丸、砲艦赤城。

 

これらが単縦陣(1直線)で突進した。指揮官の艦に続いて行動する単縦陣は一番わかりやすく、指揮、命令も徹底するので日本海軍は「指揮官先頭、単縦陣」の戦法をとった。

 

一方、清国艦隊総司令官丁汝昌は、「人」の字の陣形を敷くことを命じた。「鎮遠」と「定遠」の二隻の鉄甲艦は、その「人」の陣形の頭となり、「靖遠」・「来遠」・「懐遠」・「経遠」・「致遠」・「済遠」・「超勇」・「揚威」・「広甲」・「広丙」および水雷艦などは「人」の字の陣形の広げた両翼となった。艦の首砲で頭から突っ込んで敵艦に体当たりし沈没させる旧来型の戦法をとった。間もなく日本艦隊はだんだんと近づき、「一」の字の陣形を取って、清国艦隊に猛スピードで突入した。

 

日本隊は旗艦の「松島」が3500mで「定遠」を狙う。各鑑も高速で駆け回り、速射砲(12センチ砲) で「定遠」「鎮遠」に集中砲火を浴びせた。

 

清国艦隊は日本の本隊を砲撃しようとしたが、日本艦隊の快速に、砲の旋回も艦首の立てなおしも追いつかず、かえって陣形を乱した。

「致遠」は最初の5分間で戦闘力を失い、「来遠」「済遠」も火災を起こした。「定遠」は159発、「鎮遠」は220発、「来遠」は225発の命中弾をくらって、大損害を出した。

樺山の乗った「西京丸」も一弾を受け、舵に通ずる蒸汽管が破壊され、方向転換が出来ず、敵艦隊の真ん中に突っ込んでいった。乗組員は真っ青になったが、樺山は「どうにも仕方がないな」と平気な顔。結局,同船は天佑で助かった。

肝心の定遠などの30・5センチ巨砲は日本側の猛攻によってほとんど発砲できず役に立たなかった。日本の旗艦「松島」は、「鎮遠」からの砲弾2発が命中し、一門しかない32・5センチ主砲は、使用不能となったが、沈没はしなかった。5時間の戦闘は日本側の圧勝に終わった。

清国側は沈没3、遁走6。

「定遠」「鎮遠」も大破し、沈没はまぬがれたものの旅順口へ逃げ帰った。日本側の沈没はゼロという完勝ぶりだった。

前掲書『李鴻章』 によると、豊島沖海戦でいち早く逃げた臆病者の「済遠」艦長・方伯謙は戦いが始まると、本艦はすでに重大な損傷を受けたという旗をかかげて、司令官に報告した。すぐに逃げようとしたが、日本艦隊によって群れからはみだされた。

「致遠」と「経遠」の両艦が日本の軍艦と苦戦しているのをしり目に一目散に逃げて、誤って浅瀬に乗り上げた。ちょうど座礁,して動けずにいた鉄甲艦「揚威」に「済遠」は激突し、「揚威」は沈没、その犠牲者は百五十人余にのぼった。この同士討ちにあわてふためいた方伯謙は旅順港へほうほうのていで逃げ込んだ。

この失態劇を知った李鴻章は直ちに方伯謙の逮捕令を出し、軍事法廷でその罪を裁いた。

これと同じく方伯謙をまねたのが「広甲」で戦陣から逃げ出して、後から追ってくる日本艦に気を奪われて、前方を全然見ていなかったので、ついに岩にぶつかり日本の軍艦の水雷によって爆沈した。

 この海戦の勝因を挙げれば…。

①  樺山軍令部長が作戦現場に出向き、同乗するという海戦史上にもない異例の強硬姿勢とって、戦意鼓舞したことが挙げられる。そこには開戦直前に予備役の樺山を現役に戻して海軍々令部長に復帰させた人事の成功があった。

②  日本の快速艦と速射砲の威力が実証された。平均速力で2ノット上回るため、1分間で60メートル差になり、北洋艦隊の大砲の照準を大いに狂わせた。

③  速射砲の威力。清国巨艦の大口径砲はその発射速度が遅い。日本側の速射砲は門数で清側の5倍あり、中小口径砲でも破壊力は何倍にもなった。

④  横 陣で動きの不自由な清国艦隊は、日本側に先手先手と攻撃のチャンスをとられて、せっかくの30・5センチ砲も、ほとんど発砲っできなかった。

⑤  前掲『李鴻章』によると、李鴻章が苦心して育てた清国軍の准軍・奉軍・正定練軍などは、西洋式訓練を受けており、日本もその威名におびえ、恐れていたが、戦ってみると、その買い被りぶりが分かった。

⑥  清国側の敗因は大将、指揮官の戦闘意欲,士気の喪失がある。衛汝貴のように兵糧をピンハネしたり、出陣の前に急に逃げす者や、葉志超の号に敗北を勝利と偽り、皇帝をごまかして褒賞されるなど多数あった。

⑦  また清国軍が六人によって統帥され、彼らの官職と権限は皆同じなので、統合作戦ができず、バラバラで、相互協力、支援がなかった。

7対3で清国海軍の勝利を予想していた世界の海軍関係者は日本の圧勝に驚き、「世界最強の英国のライバルが出現した」と論評した。

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