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『リーダーシップの日本近現代史』(254)/『国葬にされた人びと』(元老たちの葬儀)『伊藤博文、大山厳、山県有朋、松方正義、東郷平八郎、西園寺公望、山本五十六、吉田茂の国葬はどのように行われたか』

   

 

   国葬にされた人びと』・・元老たちの葬儀の記事再録

<別冊歴史読本特別増刊『ご臨終』2005 年 4 月号掲載>

前坂俊之 (静岡県立大学国際関係学部教授)

元老の〝国葬たらい回し

国葬は国家の儀式として、国費によって、国の機関が執行する葬儀のことである。 国葬には二種類ある。天皇とその一家の葬儀と、国家に対して偉勲のあった者に対してのものの、二つである。

国葬は明治から始まったが、特別な明文はなく、先例に基づいて行われていた。 “特旨国葬″として、「誰々、薨去に付き、特に国葬を行う」と勅令が発令され、官報に 告示されていた。

ところが、大正十五年(一九二六)十月二十一日に「国葬令」(勅第二百二十四号) によって、国葬は明文化され、以後はこれにのっとって行われた。

国葬令の内容は次の通りである。

  • 第1条 大喪儀は国葬とす。
  • 第2条 皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び摂政たる親王、内親王、王、 女王の喪儀は国葬とす。
  • 第3条 国家に偉勲ある者、薨去又は死亡したる時は、特旨により国葬を賜うこと あるべし、前項の特旨は勅書を以てし、内閣総理大臣これを公告す。
  • 第4条 皇族にあらざる者の国葬の場合においては葬儀を行う当日、廃朝し国民 喪に服す。
  • 第5条皇族にあらざる者、国葬の場合に於ては喪儀の式は内閣総理大臣勅裁を 経てこれを定む。

以上のような規定があり、必要な喪儀の経費は、議会開催中は追加予算として議 会に提出する。閉会中の場合は第二予備金より支出し次の議会で承諾を求めることになっていた。

政府は国葬決定と同時に正副葬儀委員長、以下、葬儀委員、祭官長を任命する。 多くの場合、葬儀委員長は故人と親密であった政府高官が選ばれ、副委員長は慣例  として内閣書記官長があてられる。

葬儀委員には内閣および宮内省、その他故人の 関係官庁の官吏が任命されていた。

葬儀の方法はというと、国の儀式のため神式で営まれる。式次第は当日の勅使の参向についで皇后・皇太后をはじめ各皇族の御名代の参拝があり、遺族が玉串を捧 げたあと、各国大使・公使・各高官が続いて玉串を捧げる。

国葬の参列者は有資格者に限られており、その服装は大礼服であり、一般民衆が 玉串を捧げる場合はフロックコートを着用し、式後でなければならなかった。

また、葬儀当日は国葬令によって、各官公庁・学校は休みとなり、歌舞音曲は遠慮 することになっていた。

皇族を除外すると国葬の栄典を得るのは国葬令第三条の「国家に偉勲のある者」と 規定されているが、誰が見ても国家の柱石として功績を残したものということになる。

しかし、この基準は時の政府によって恣意的に行われたといえる。

明治以来、特旨によって行われた国葬は、皇族では有栖川宮織(火編のたる)仁親 王(明治二十八年一月)▼北白川官能久(よしひさ)親王(同年十一月)▼小松宮彰仁 (あきひと)親王(明治三十六年二月)▼有栖川宮威仁(たけひさ)親王(大正二年七 月)▼伏見宮貞愛(さだなる)親王(大正十二年二月)▼閑院宮載仁(ことひと)親王 (昭和二十年)であり、李大王(大正八年一月)▼李王妃(大正十五年六月)も国葬であった。

皇族以外では太政大臣岩倉具視(明治十六年七月)▼左大臣島津久光(明治二十 年十二月)▼内大臣三条実美(明治二十四年二月)▼長州藩主毛利元徳(明治二十 九年十二月)▼鹿児島藩主島津忠義(明治三十年十二月)▼枢密院議長伊藤博文 (明治四十二年十月)▼元帥大山巌(大正五年十二月)▼元帥山県有朋(大正十一 年二月)▼内大臣松方正義(大正十三年七月)▼元帥東郷平八郎(昭和九年六月) ▼元老西園寺公望(昭和十五年十一月)▼元帥山本五十六(昭和十八年六月)の計 十九人。皇族が八人、それ以外が十一人。

戦後、新憲法施行によって国葬令は昭和二十一年に失効した。憲法二十条では 「国およびその機関は宗教教育、その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定 めており、吉田茂の国葬(昭和四十二年十月)の場合は閣議決定によって行われたが、問題化した。

このため、佐藤栄作の場合は自民党、国民有志による国民葬(昭和五十年六月)とし、経費の一部を国費から支出する閣議決定をしている。

これをみると、国葬になっているのは皇族や旧藩主を除くと、明治の元勲・元老がほとんどである。

岩倉具視・三条実美は右大臣・左大臣であり、明治の元勲であり、伊藤・大山・山県・松方・西園寺は元老、東郷・山本は元帥である。

明治二十五年、第一次松方内閣が崩壊した後、明治天皇から伊藤博文・井上毅・ 山県有朋・里仙田清隆に後継内閣の指名について御下問があり、第二次伊藤内閣 が誕生した。

これ以後、元老が後継内閣の首班指名の大任を帯びることになった。 第一線を退いたあとも、伊藤・山県・松方らは隠然とした勢力を持ち、内閣の後見人 的な存在となった。

大正五年ごろには、井上毅・西郷従通らの元老は亡くなり、大山・ 山県・松方ら四人となり、これに西園寺公望が加わり、昭和に入ると、西園寺がただ 一人の元老となった。

 

薩長の藩閥政治を擁護した元老に対しては、民衆から憲政擁護の立場できびしい 批判があり、「憲法に規定のない元老の地位を辞退せよ」との「元老の凋落」 (大正 五年十二月十二口付『万朝報』)という記事が大山巌の亡くなった直後に載っている。

元老による国葬の〝たらい回し″に国民は批判的だったのである。

■伊藤博文の国葬-

明治四十二年十月二十六日朝、ハルビン駅頭で伊藤博文は韓国人・安重根から短 銃六発を撃たれ、うち三発が命中。伊藤は「馬鹿なヤツじゃ」と言ったきり約三十分後 に死亡した。

〝伊藤暗殺〟の報に、山県有朋は「伊藤は最後まで好運だった。私は武人として伊藤の最期はまことにうらやましい」と語った。

伊藤は異郷の地で、凶弾に倒れたという劇的な最期が国民の哀悼の念を一層強めた。十一月四日、国葬は日比谷公園で行なわれた。 葬儀予算は当時の金で五万円。葬儀掛長は枢密顧問官杉孫三郎で、このとき陸軍 視察のため来日していた英国のキッチナ一元帥も列席した。

日比谷斎場は金色さん 然と目を奪うばかりで、出棺式では特別の由縁ある会葬者約千人が列席したが、いずれも金モールの大礼服か、えんび服でしめやかに行われた。

『東京朝日新聞』は、国葬の荘重厳粛さよりも、伊藤の邸宅があった霊南坂から日比 谷にかけての沿道に集まった群衆約数十万人が「あたかも自分の父母の葬儀を送ら んとする熱心さをもって詰めかけた」と記している。

ふくれ上がった群衆の一部は葬列へなだれ込んで、儀杖兵が抜剣して整理に当た る騒ぎになった。

■ 大山巌の国葬-

日本の国運を賭した日露戦争で満洲軍総司令官として三軍を指揮した大山巌元帥。 伊藤から九年後の大正五年十二月十七日に大山の国葬は行われた。

大山は福岡県下の陸軍特別大演習に天皇に供奉して西下したが、帰途に胃病に 苦しみ、胆のう炎を併発し、療養中の十二月十日に亡くなった。七十五歳。

大山の臨終の枕頭には山県有朋・川村景明・寺内正毅・黒木為槙(ためとめ)の元帥・大将が顔をそろえた。国葬に先だって、ロシア大使館付のヤホントフ少将が大山家を訪問し、全ロシア陸軍を代表して弔詞を述べ、木箱におさめたりっぱな花輪を贈呈した。かつての敵国からの丁重な弔意であった。

「智恵があっても智者ぶらず、巧名があっても手柄顔をせず、どこまで大きいかわから ぬ程であった。返すがえすも残念」と樺山資紀は大山の死を悼んだ。

大山の国葬は日比谷公園で行われた。葬儀掛長は黒木為槙陸軍大将。その日朝、 大山の遺体は武将の最後を飾るにふさわしく砲車に安置され、枢上には十二個の勲 章のついた正装が置かれていた。

千駄ヶ谷の自宅を発した葬列は、海軍軍楽隊の「哀の曲」の悲痛の音曲の中を進 み、三十年つれそった従者に引かれた愛馬「国の華」が人目を引いた。 葬列は先頭が日比谷斎場に入っても、殿(しんがり)はまだ青山あたりにあり、約四 キロというほどの大勢さ。会葬者は約三千人であった。

ちょうどこのころ元老への批判 がふき出しており、日露戦争の功労者・大山への国民の同情もさほどではなかった、といわれる。作家・夏目淑石がほぼ同じ頃に亡くなっているが、紙面での扱いは夏目 の方が大きいところもあった。

■ 山県有朋の国葬―

山県有朋は風邪をこじらせ、肺炎を併発して、小田原の別邸「古稀庵」で八十五歳 で亡くなった。臨終前に山県は家族・雇い人一同を集めて、「皆、永い間、俺のために 尽くしてくれた誠意をありがたく思う。自重して自分の生涯を満足に送れ」と遺言し、貞子夫人に片手を握らせ眠るが如き最期であった。

山県は元老中の元老として政界に君臨していた。伊藤が他界すると、軍人とくに山県閥は「豪横、驕専、日に月に加わり、今や武断政治の弊はその極に達す」と言われ た。それだけに、国葬に対する批判が出た。衆議院本会議場で、山県の国葬討議に当たって南鼎三(大阪選出)らは反対演説をぶった。

「山県公はいずれの点からも国葬にすべき価値があるか諒解に苦しむ。国葬に当た る者は真に社会民衆の幸福を計ったものに限る。なるほど、公は陸軍の建設者であ り、維新の元勲であり、官位は人臣を極めているが、憲政の発達を阻害し、民衆政治 に極端な圧迫を加へ、国家の隆盛を軍閥の功に帰するが如き行動をとり、国民から 何が感謝の要があろうか」 (『東京日日新聞』二月三日付)

山県の国葬は、葬儀委員長は清浦奎吾、三土忠造副委員長で、関東大震災の前 年の大正十一年二月九日に、やはり日比谷公園で営まれた。それまでの国葬費用 は、おおよそ四万五千円程度であったが、八万円が計上された。

この時、初めて歌舞 音曲が停止された。 参列者は山県の葬儀にふさわしく、軍国の花が咲いたかのように、陸海軍将校がズ ラリと礼装で並び、最前列には元帥東郷平八郎・陸相山梨半造の姿が見えた。

しかし、民衆は山県の死に冷たんで、一万人収容の葬儀場の中はガラガラで、わず か千人ほどしか参列者はなく、〝民〟抜きのさびしい国葬であった。

『東京日日新聞』 (大正十一年二月十日付) では、「国葬ではなく、官葬か軍葬で、 帳合の中は上下両院議員が数えるほどで、実業家や他の姿も見えず、幾重にも設けた白布ばかりが目立ち、さびしい国葬であった」と書いている。

式のあと、「枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵山県有朋之墓」と 刻んだ墓塔が、音羽護国寺内に建てられた。

■ 松方正義の国葬―

明治の功臣、わが国の財政のパイオニアで総理大臣を二度つとめた松方正義が亡 くなったのは大正十三年七月二日である。 臨終の近づくのを悟った松方は子供を一 人一人枕頭に呼び、静かに握手を交わしながら眠るごとき死を迎えた。八十九歳。

松方は金本位制をしき、財界の基礎を築いた功労者として、それまで国葬になった 伊藤・大山・山県とは異なった人気があった。国葬は七月十二日にそれまでの慣例を破って芝三田の松方邸の裏庭約四万平方 メートルを斎場として行われた。このため、葬列はなく非常に簡素な葬儀となった。

しかし、松方の人脈では圧倒的に実業界の人が多く、葬儀場には金に糸目をつけ ず豪華な花輪や供物がたくさん集まったため、花の市価が一挙に三倍にもハネ上がったという。

松方は有名な子だくさんで、十三男六女の計十九人の子供があった。本人もあまり の多さに時々、間違ったほど。 ある時、明治天皇から「子供は何人あるか」と尋ねら れたが、即答できず、「いずれ取り調べてお答えしましょう」と返事をしたというエピソードもある。 孫や曽孫も含めると合計百人以上という大家族だけに、親族だけで焼 香に約一時間もかかり、語り草となった。

■ 東郷平八郎の国葬

東郷平八郎は昭和九年(一九三四)五月三十日、喉頭ガンのため八十六歳で亡くな った。東郷が重体となるや、政府は多年の勲功を評価し特旨をもって「侯爵」昇叙「従一位」を授与した。

死去すると、政府は臨時閣議を開いて、国民の期待にこたえるという形で国葬をすることに決めた。当時の日本にあって、国宝的存在であり、『大阪朝日新聞』 (五月 三十一日付)説「東郷元帥を弔す」では、「元帥のごときはすでに一個の霊的存在として、永久に国民の心中に生きている」として、すべての国民は心も徳も「東郷式に律 せよ」と書いている。

また、東郷の人柄について長年つかえた岡田啓介大将は「徴頭徹尾、月並み的で、逸話のないのを最も秀れた逸話とする」と評しており、東郷の非凡な人格を逆に浮き彫りにした。

「国葬令」ができて以来、初の東郷の国葬はこれまでの国葬の中でも一番の盛儀となった。六月五日の国葬には東郷家から日比谷斎場までに約六十万人、斎場付近約 七十万人、斎場から多摩墓地までの沿道も、車の通行だったが五十五万人が詰めか けて柩を見送った。

葬儀委員長は旅順港閉塞作戦の指揮官であった有馬良橘大将。司祭長は加藤 寛治大将。この日、全海軍の艦船が一斉に半旗を掲げ、十九発の弔砲を次々に放って、「海軍の父」との最後の訣別を交わした。

東郷邸から九段上-青葉通-半蔵門-三宅坂-桜田門という葬列の通過する沿 道には朝七時ごろから、群衆が並びはじめ、ギッシリと人垣で埋まり、警官とこぜり合 いする風景もアチコチでみられた。

葬列の長さは約二キロにもおよび、英・米・仏・伊・中華民国の儀礼水兵も加わった。 後に米太平洋艦隊を指揮して日本海軍と戦うニミッツ長官も、当日、米儀礼艦の艦長 として来日、奇しき因縁だが東郷家の仏式葬儀にも参列している。

)群衆は約三十分間にわたって葬列が通過 するまで身じろぎもせず〝大東郷″の枢を見送った。 また、大西次郎指揮の横須賀海軍機二十一機が斎場に空から飛来して、弔意をあら わした。東郷は多磨墓地に葬られた。東郷が亡くなってから約七ヵ月後、東郷夫人のてつ子は神経痛をわずらい、七十七歳でひっそり亡くなった。

さらに東郷没後一カ月もしないうちに、生前、本人が固辞しつづけていた「東郷神社』建立が海軍関係者の総意で決まった。造営費約百二十万円の寄金が集められた。

昭和十五年の「海軍記念日」には神様に祭り上げられた。

■西園寺公望の国葬-

〝最後の元老″、明治・大正・昭和の〝最後の歴史の生き証人〃といわれた 西園寺公望が亡くなったのは昭和十五年十一月二十四日であった。九十歳。 西園寺は臨終に際し、秘書の原田能薙がくちびるに顔をくつっけるほど近づいて、 かすかな声を聞くと、「いったい、どこへ、国を持ってゆくのや。こちは……」とつぶや いた。

これが最期の言葉であった。

「こちは……」とは「自分のこと西園寺のこと」である。 時の首相近衛文麿に向かって言ったのか、坂道を転がるように戦争に向かっていった当時の政治状況を嘆きながら、それを憂れいた言葉なのかはわからない。

しかし、西園寺の国葬からちょうど一年後に日米戦争、太平洋戦争が勃発したこと をみれば、象徴的な臨終の言葉であった。 貴族院議長であった近衛文麿を〝最後の切り札″として首相に選んだ自らの責任も 含めて、国の行き先に不安を抱いていたのであった。

十月五日、この〝歴史の巨人″の国葬は近衛文麿首相を葬儀委員長として、日 比谷斎場でしめやかに挙行され、世田谷区若林町の松陰神社のわきにある西園寺 家墓所に葬られた。

■山本五十六の国葬

国葬になった人々が築き上げた〝大日本帝国〟も最期をいよいよ迎える。連合艦 隊司令長官・元帥山本五十六が米軍の暗号解読によってソロモン諸島で戦死したの は昭和十八年五月のことである。 山本の死は極秘にされ、日本に遺体が送られたあと発表され、国民に大きな衝撃を 与えた。

山本は昭和に入って三人目の国葬となったが、戦死者としては初の国葬者 であった。 昭和十八年六月五日、国葬は挙行されたが、ちょうど九年前のこの日は東郷平八郎 の国葬があった日であり、偶然の一致にしては意味深長であった。

この日、霊枢は水交社前に待っていた砲車の上に移され、海軍軍楽隊の奏する「命 を捨てて」の曲にのって出発、東候英機首相らが拝礼、全国民はラジオ中継によって 一斉に黙とうを捧げた。

午後八時からは、四分間、山本元帥のナマの声がラジオで放送された。その内容は、昭和九年十一月にあったロンドン海軍軍縮会議で日本全権として出席し、日英間に開通した無線電話の試験通話で日本に呼びかけたものの再放送であった。

「私は海軍少将・山本五十六でございます。いかなる困難に遭遇しましても、この困難 に打ちかって進むことが、日本国民の有する伝統的精神でなければなりません」 当時ののるかそるかのきびしい戦争状況にピッタリの言葉であった。 葬儀委員長は米内光政であり、山本の柩は戦艦「武蔵」の乗組員によって水交社前 から砲車に乗せられた。

山本と同じ越後長岡出身で、元検事総長の小原直が会長をしている「山本元帥顕彰会」は、東郷神社や乃木神社にならって、山本神社を建てようと運動しており、米内らに強く働きかけた。 しかし、米内は、断固として反対した。

「神様なんかにされて、一番イヤがるのは山本自身ですよ」 と言い、一歩も引かなか った。結局、山本神社は実現しなかった。

■吉田茂の国葬―

さて、戦後の国葬は吉田茂ただ一人である。憲法二十条(信教の自由)と第七条 (天皇の国事行為)を厳密に解釈すると、国葬は憲法に違反することになり、吉田の 場合も物議をかもした。

しかし、当時の首相佐藤栄作の強い要望で実現した。吉田茂が亡くなったのは昭 和四十二年十月二十日のことである。 臨終の席には医師と看護婦三人しかおらず、身内は一人もいなかった。臨終の言葉 もなく、まったく突然の他界であった。

その時の表情は「機嫌のよい時の目もとをその まま閉じたような顔であった」。 国葬は十月三十一日、皇太子ご夫妻をはじめ、外国使節ら約五千七百人が参列して、九段の日本武道館でしめやかに行われた。

この日、学校は午後休校、ふさわしく ないドラマ、歌謡ショー、CM などがラジオ・テレビから一斉に姿を消し、自粛番組が放送された。吉田の弟子である佐藤首相は「敗戦により国民の大半が民族的誇りと自信を失わんとしたる時、先生はすべてを国家再建の一点に結集すべく努力された」と たたえた。

国葬になった人々をみると、皇族以外は十一人で、いずれも政治家あるいは軍人で ある。それ以外の芸術家・実業家・学者で国葬となった人はいない。やはり、明治以来の日本は官が民より上の世界なのである。

<以上は別冊歴史読本特別増刊『ご臨終』平成 7 年 2 月号掲載>

 - 人物研究, 健康長寿, 戦争報道

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