前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(90)名将・川上操六⑬田中義一のペテルスブルグでの活躍(下)<ダンスとギリシャ正教に入信>

      2015/02/16

日本リーダーパワー史(90)
名将・川上操六⑬田中義一のペテルスブルグでの活躍(下)
 

  <ダンスを習いギリシャ正教に入信して情報収集>

                  前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
明治31年8月にペテルスブルグに赴任
 欧洲各地を歴訪して、田中大尉がロシアの都に到着したのは、明治31年8月6日である。
 時の我が公使は、林董(次で小村寿太郎、珍田捨巳)で、公使館附武官は、伊東主一少佐で、伊東少佐病死の後は村田淳大佐であった。なお藤室少佐(後の陸軍少将藤室松次郎)広瀬大尉(後の海軍中佐広瀬武夫)等の先達者もいたので、いろいろと指導を受けると共に、藤室少佐の紹介で先ずロシア語の研究を始めた。
 
 大尉の任務とする研究は、ロシア陸軍の実情、その作戦、動員、編制、教育及び兵器材料等、直接軍隊に関する事が主ではあったが、当時世界第一の強大を誇るロシアの国情、その社会組織を通じて軍隊と国民との関係、ロシアの裏表一切を調査研究するに在った。直接的に陸軍を研究するためには、内山駐仏公使館附武官の注意もあったので、部隊附になろうと希望したが、日本武官の隊附勤務は前例が無いという理由で、容易に実現しなかった。
もし強いて事を急げば時が時であるからあらぬ疑惑を招いて、鉄のカーテンをいよいよ堅くさせるばかりになりそうなので、努々語学も不十分であったのでしばらく機会を待つことにし、それまではロシア及びロシア人を徹底的に研究して見ようと決心した。
社交場に出入して、ロシア名を名乗る
そこで社交場に出入して上層階級と親しく交際をするにも、下層階級に飛び込んで行くにも、生活様式をロシア人同様にして、彼等の風俗習慣に同化することが先決問題であると考えた大尉は、先ず自分の姓名をロシア式に変更し、名と姓との間に父称を入れて『ギイチ・ノブスケウィッチ、タナカ』と名乗り、名刺もこの通りに作った。この露国人になりきろうとする態度は、人情の機微に触れて、生れつきの人の善さと相まって、いたる所でたちまち旧知のような深い交際を結ぶことが出来た。
藤室少将は次の如く語っている。
 「当時私は少佐で、田中さんは大尉であったが、ロシアに来られたのは・私よりも半年ばかり後であった。先ず最初の二年間は、語学の研究で田中大尉も他の者と同じように、婦人の教師について勉強した。婦人を教師に選ぶのは、発音が正しいからである。その女教師と初対面の時『信仰は何宗教か』と、尋ねられたので私は『仏教だ』と答えたが、田中大尉は『無宗教』と云ったので、教師は非常にビックリしたようであった。
それほど宗教の盛んな国であったからロシア人と親しくするためには無宗教と答えた田中大尉も、間もなく教会に行くようになったばかりでなく、ロシア人との社交上必要なので、ダンスの稽古もやったが、流石の田中大尉も、ダンスは物にならなかったようだ。
当時の公使館員も武官も何か問題の起った時は忙しいけれども、平常は暇にまかせて、遊びも盛であった。私共も誘われるままに、あるいは芝居見物に往くとか花札を引くなど盛にやったものである。
 また人情の機微を心得ていて、思い切ったことをされたもので、これもその一つだが、ロシア人に限らず欧洲人は一般に、日本の柿を非常に珍重するので、大尉は日本から柿をとり寄せて、彼等を喜ばせたこともあるし、又焼豆腐を取寄せたこともある。

私は荷物の着いた時のことを覚えているが、豆腐をブリキカンに入れて、氷をつめた大変な荷造りであった。公使館で一同舌鼓を打って賞味した。この柿にせよ、焼豆腐にせよ、要するにロシア要路の人物に接近して親密になる手段ではあったろうが、田中きんがやられると如何にも板についていて手段だなどと思う者はなかった。
しかしその苦心と努力とは容易ならぬものであった。又、ロシア研究の歩度が進んで真剣味を加えて来ると、その活躍も相当なものである時のごときは重要書類と図画とを入手され、これを公使館の奥で厳重に包装して、ドイツとの国境まで持って行って参謀本部に密送したこともある。それはロシア軍の戦時集中計画を書いた貴重な資料であったから、日露戦争に役立ったことは、云うまでも無かろう。
 私は、二年余り田中大尉と一処に、ペテルスブルグに駐在したが、たまたま御来遊の開院宮殿下に随行した大島中佐(後の陸軍中将大島健一)が病気になったので、私が代って供奉の命を受け、殿下に随行帰朝した。シベリア経由の御予定であったが、北清事変のため、モスコーから引返して、仏国マルセーユから海路御帰朝になった
。田中大尉は私の帰国する直前からロシア軍の隊附となって、一層深くその内画を調査研究したようで、後の戦役を考えると田中のロシア研究と日露戦争とは、離すことの出来ない関係である。」
ダンスとギリシャ正教の入信について田中自身は後年、回想する。
 「露国の貴族と交際するためにほダンスを知らねばならぬので、当時海軍から留学していた広瀬(武夫)と一緒に、露国の帝室付ダンサーであった女優を師匠として稽古をした。初めの間は大きな鏡の前で両手を腰に当てて腰の振り方を稽古するのであるが、広瀬の腰付がうまくゆかないので、竹の鞭で叩いて矯正されるけれども、柔道で鍛えた広瀬の腰は女優の鞭位では容易に直るはずはなく、流石の広瀬も大いに困り、気の毒に堪えなかったこともあった。」
が、御当人のダンスも前述の如くものにはならなかったようであるが、自分の腰つきには、述懐はふれていない。ただ国のためと思いつつ、軍神と讃えられた広瀬中佐と総理大臣になった田中大将とが、女優上りのダンサーに鞭で叩かれながらダンスを踊った光景は一種の微苦笑を催おさせるものがあるではないか。
 ロシア人に成り切る努力の第三はギリシア正教への入信であった。帝政時代のロシアは十六世紀頃からギリシア正教を国教とし、しばしば起った君主独裁の政治的危機も、民族精神を統一する国教によって救われたことさえあった程、信仰は殆んど衣食住に先行する程に狭く民族に根を下ろしていたのである。従って十七、八、九の三世紀にわたる絶間ない外国との戦争はその殆んどが異教徒を征服せんとする宗教戦であったから、民族的結束は益々強力に展開されたのである。
そのユダヤ人に対する圧制、あるいはポーラソドの亡国と、その再建を巡る執拗な独立騒ぎも、異教徒であるというのが主たる理由である。
 従って上流と下流とを問わず、兵隊も娼婦も国教の熱烈なる信者で、一週二回の説教と祈祷とを怠る者がなかったのは、我々がロシア文学でよく知るところである。
田中大尉も、語学教師が「無宗教」に驚ろいたのに自覚し、先ずロシア人と信仰とを研究して、正教に入信せねば殆んど人間扱いを受け得られないことを知ったので、直ちに入信の手続をとり、敬慶なる信者として下宿の老人と共に祈祷に参列し、説教を聴聞したのである。云うまでもなくこの入信がロシア人の信用を一挙に獲得したことは当然であった。後に掲げる大尉の日記によれば、或は長時間ひざまずいて祷り、あるいは聖水を頭に受け、亦聖像に接吻するなど其の信仰振りはまことに堂に入ったものであった。
「田中義一伝」(上)原書房 1981年(1958年刊行の復刻版)
 

 - 人物研究 , , , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本の「戦略思想不在の歴史⑯」―『元寇の役のヨーロッパ史での類似性』●『元寇の役では西国だけでなく東国からも武士たちが加わって、日本全体が一致協力して戦い、初めて国家意識が生れた』

 日本の「戦略思想不在の歴史⑯」 元寇の役(1254年)では2度にわたり、元軍の …

世界/日本リーダーパワー史(896)-『明治150年、日本興亡史を勉強する』★『明治裏面史―明治30年代までは「西郷兄弟時代」が続いた。』★『その藩閥政権の縁の下の力持ちが西郷従道で明治大発展の要石となった』★『器が小さいと、とかく批判される安倍首相は小西郷の底抜けの大度量を見よ』

   明治裏面史―明治30年代までは「西郷兄弟時代」   『明治藩閥政権の縁の下 …

『Z世代のための昭和史・日本最大のクーデター2・26事件(1936年/昭和11年)の研究』★『戦争の足音迫る阿部定事件当時の社会農村の飢餓の惨状』★『東北大凶作が1931年(昭和6)ー34年(同9)と連続し、約100万人が食糧難・飢餓に苦しみ、2・26事件の引き金となった』(谷川健一(民俗学者))』★『娘売る山形の寒村を行く』

   2020/10/24 2・26事件の原因について谷川健 …

「Z世代のための日中外交敗戦10年史の研究(下)」★『明治リーダーの必勝法は決断し、命令し、誓約させ、断固実行させる」★「川上の戦訓「上司の機嫌にとらわれず、勝者にその範をとれ」★『 リーダーは長期に担当させよ、川上参謀総長は軍令を十四年間、桂太郎首相は軍政を通算十五年間も担った』

『リーダーなき日本の迷走と没落、いまこそ明治のリーダシップに学べ』 ②&nbsp …

『F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(151)』★『わがメモアールーイスラエルとの出会い、Wailing Wall , Western Wall 』(嘆きの壁)レポート(1)

なぎさ橋通信(24年8月10日am700)   2016/02/15 …

「国家情報局、来年7月設置調整ー国家情報局の歴史研究」★『空前絶後の名将・川上操六の日本の軍人トップリーダー養成はなぜ失敗したか<陸軍大学校の失敗例>★『東条英機の父・東條英教のケーススタディー』

 逗子なぎさ橋珈琲テラスより「日本戦略講座」   /2011 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(97)記事再録/ 『中国/朝鮮行動学のルーツ⑥』『中国紙『申報』 からみた「中国が行っている冊封の儀と 属国の国力強化について」(1884(明治17) 年2月9日付)★『中国流のダブルスタンダード、言行不一致の典型で、南沙諸島での軍事基地の建設増設と同じパターン』

    2016/03/18 &nbsp …

『オンライン入門講座/シルバーYou tuber(前坂俊之チャンネル)になる方法』★『ネット動画の時代に乗り遅れる既存メディアー 情報をあまねく広げる「個人」の出現で社会が変わる』(2012年でのインタビュー)記事全文再録)

取材場所:日本記者クラブ (インタビューの聞き手:沖中幸太郎氏)   …

no image
エピソードにみる明治のリーダーの面影

1 03,8月 前 坂 俊 之 (静岡県立大学国際関係学部教授) 1・福沢諭吉  …

no image
軍閥研究―『陸軍工兵の父と言われる』-上原勇作陸軍大臣の誕生と上原閥の形成について

軍閥研究―上原勇作陸軍大臣の誕生と上原閥の形成             …