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日本リーダーパワー史(199)『100年前の日本―「ニューヨーク・タイムズ」が報道した大正天皇―神にして人間、神格化』(上)

   

日本リーダーパワー史(199)
 
100年前の日本―「ニューヨーク・タイムズ」が報道した大正天皇
日本の新しい支配者、神にして人間、即位に伴い神格化』(上)
 
        
『ニューヨーク・タイムズ』(191284日付)
 
『嘉仁、日本の新しい支配者.神にして人間』
即位に伴い神格化―皇太子時代は人間―臣民はその名を称えず
ー微妙な立場―その教育、日常生活、現代的な事柄への傾向
 
嘉仁は,先週,日本の現君主となったとき,地上のどの皇帝の地位とも似ていない地位に就いた。洋の東西をとわず,他の皇帝は人間に過ぎない。嘉仁は.被の臣民の目から見ると神なのだ。
 
 他の皇帝の血統はあいまいで断絶しているが,嘉仁の血統は完全で自立している。123代目の君主である彼は、皇位の血筋をたどると,キリストの時代よりも600年以上前のもうろうとした世界、実に日本の偉大な英雄時代までさかのぼる。この時代.どろどろした大気の島から陸地つくるため2柱の神が呼び出された。こうしてこの神々は日本をつくった。
 
 この神々の子孫であると,彼は主張する。そして最も高い教養があり科学的に思考する日本人でも,それには反駁しない。これは,どんな近代的知織も受け付けない信仰心だ。亡くなった睦仁は仲間の神々のもとで安らぎ,当代の嘉仁は彼の血を受けている。
 
 日本人がその支配者に対して畏敬に満ちた態度をとる理由や,この支配者を他の君主と区別する感情は,これによって部分的に説明される。これは,ほとんどの日本人が論じようとしない感情だ。
 ある人は筆者にこう言った。「これは日本人にとって分析不可脆な感情であり,もし分析できても外国人の心理には理解できないようなものだ」
 しかし,4半世紀の間、わが国に住んでいる日本人が分析を試みた。
 
 彼はこう言った。「これは,部分的には民族の強烈な理想主義から生じます。実は特殊な形の愛国心です。これは日本民族が自らに敬意を表しているようなものです。なぜなら.日本民族は.自らも神の子孫であり.皇帝の一族の出であると信じているからです。先祖を崇拝する民族にとって.皇帝は魂在の日本と,過ぎ去ったすべてのものとのつながりを表します。
 

たぶんこれは,物質界と精神界とをつなげるものです。彼は,神秘主義の要素であると同時に,物質的な国力の体現者でもあるのです。これはまるで」-ここで日本人紳士は息をついだ-「法王に対するローマカトリック教徒の感情と,偉大な国王に対する国民の敬愛を一緒にしたようなものです」
「現在の皇帝は,その父親に国民が寄せた感情をすっかり引き継いでいますか」と尋ねてみた。
 
 この日本人は肩をすくめた。「たぶんある程度はそうです。完全にではないでしょうが」と被は答えた。
 彼が独特の長畿を集めること臥私が線擁したこの民族固有の理由から確実だ。しかし.国民
の敬愛が.前の皇帝へ寄せられたのに来らず熱烈になるかどうかは疑わしい。
 
先君は,封建国家から世界的な国家へ成長する日本を鼓舞も支配した。偉大な諸侯、つまり大名が権力と領地を放棄したときから1889年の近代的で自発的な憲法の授与まで,彼は引き続く進歩をことごとく先導した。彼は国民が予想した以上のこと,確かに,かつてどの国家でも達成されたことがないほどのことを実行した。この業績は彼個人に属し,彼が個人として愛されていることの原因となっている。
 
われわれは新しい君主を尊敬し崇拝する。彼は皇帝であり,日本の精神の化身だ。しかし愛についてはどうか。たとえ皇帝でも,愛は自分で獲得しなければならないのだ。
 
 こうして日本の新しい皇帝嘉仁がその王国に登場する。西洋人の目から見て,彼が受ける日本人の尊敬には奇妙な特徴がある。なぜなら,睦仁に示された先例にこの民族が従うのなら,嘉仁の名前をどの国民も口にしないはずだからだ。「元首」,「皇帝」と彼は呼ばれるが,決して嘉仁とは呼ばれないだろう。嘉仁という名前を呼ぶのは冒涜だろう。それは神社が襲撃されるようなものだ。
 
しかもこれは,日本人が元首としての彼に寄せる尊敬のわずかなしるしに遇ぎない。彼の前で着席する男女はいない。しきたりが維持されるのなら,彼に直接話しかける者はいないだろう。皇室の一員を介してのみ日本の皇帝に語りかけるのが習わしになっているからだ。
彼の面前では.最も偉い者ですら地面に視線を落とす。ただ皇帝が壇に登っている場合にのみ,視線を上げることが許される。それすら.日本では新しい世界への妥協なのだ。
 亡くなった皇帝睦仁は人生の最初の16年間.外国人に姿を見られることなく,彼の一族に属する個人的な付人にしかその姿をせずに送った。彼に仕える最も偉い者と会話する際ですら,被は顔を見られることがなかった。
 
彼は.天蓋の中の低い玉壇の上に離れて座り,そこから命令を下していたからだ。16歳になるまで彼は歩いたことがなかった。歩行という技術は.彼にとって最後まで難しく苦し修練だった。
 
皇帝の姿を国民が認めると決まって行われる教知れぬ熱狂的な「万畿」の叫びもまた新しいことだった。これは週去15年間に日本に持ち込まれたものであり.進歩の一端に含まれる。それ以前は,完全な沈黙が国民の尊敬を物語っていた。完全な沈黙と低い視線と,通りの家の閉じた窓がそれを物語っていたのだ。
 
 しかし,日本の皇帝は,かつてその身を取り巻いていた薄暗い宗教的な光の中ではもはや生きていないとはいえ,現在の他のどの元首よりもはるかに隔離された生活を送っている。
その一員が人民と親しくなるべきだというのは,この王族の感情ではない。眉本の宮廷儀礼では.皇帝が人前に出るのは,まれであるべきだとされている。外交団ですら,新年の謁見、春秋の桜花と菊の園遊会の時にしか彼に会わない。
 
 亡き皇帝の先例こ倣うだけだとしても,彼はおそらく年に1.2度,閲兵のために青山の野原に馬車で出かけるだろう。亡き皇帝は,ここでは専ら,テントの中で座っているか、非常に従順で完全に飼い慣らされたオーストラリア産馬に乗り、ぎこちない軽歩で野原をめぐった。
 
しかしこの点では,嘉仁は父親よりも見栄えがするだろう。というのは.被の軍事訓練はほぼ幼年期に始まり,その馬術は睦仁をはるかにしのいでいるからだ。睦仁の乗馬は彼の歩行と同様に堅苦しく,ゆとりに欠けていた。
 
 まれな折には.まちがいなく宮廷義礼のため皇帝はめったにない公式晩餐会に出席するだろう。そこにはすべての指導的な政治家,外交官,将軍、提督が招かれる。その場での礼式は明らかに日本独特のものだ。
 
皇帝は,高壇上の別席に座り、一方,彼の前の長いテーブルには客が着席する。客の前に着かれた食物は皇帝が食事を済ませるまで手つかずで残される。彼はほんの短い時間しかいない。また,ほとんど食べ物を食べない。その後で客は食事を始める。
 
 
先祖の廟への参詣
日本の皇族が遇される厳格な儀礼に嘉仁は慣れているが、その儀礼は彼にも要求される。しかし.日本の皇帝として.そのわずらわしさは,増大した名誉によって簡単に相殺されるのだろう。
 
例えば,芝公園への参詣では.彼は現在のどの元首も匹敵できないやり方で儀礼の祭壇にささげられるだろう。なぜならここで彼は先祖-日本の以前の支配者たち-をしのぶが,その数は122という心地よいものだからだ。
ここ芝公園に彼は定期的に正装して出かけていき.彼の儀式委員会が入念に取り決めたやり方で.ふさわしい敬意をほぼ122回払うのだ。
 
 ここで彼は,廟の前に入念かつ正確に配置してある米と花を前にして祈りをささげる。廟の内部には彼の権力と義務を象激するものが納めてある。ここには鏡がある。
それは良心を表し.彼にその責任を思い起こさせる。ここにはまた水晶が置いてある。
それは.彼が施すべき正義の透明さを表している。ここには剣がある。それは彼の権力を表し.彼のものである権力と威厳を彼に思い起こさせる。
 
 しかし,このようなすべての儀式にもかかわらず,嘉仁は彼以前のどの皇帝よりも人間に近いと,彼の臣民から思われることは間違いないだろう。なぜなら彼の父親ですら,彼自身の神格化の事実上の囚人として統治を始めたからだ。
 
1868 年以前,彼は,何百年も続く彼の前任者と同様.栄光ある孤立状態にあったが,実際には将軍の囚人であり.真の統治権力は将軍が握っていた。また全車の最高司令官である将軍が,政府の行政機能も支配し一方,皇帝自身は輝かしい象微に過ぎず、あまりにも神聖なので「ことをする」という下賤な仕事に従事できなかった。
 
 今日でも人間離れした者への畏敬の名残は彼の名前にまつわりついている。今日でも,彼の何百万という臣民が皇帝という言葉を聞くと腰をかがめる。今日でも彼の写真は,学童の間に祈りの声を巻き起こし,彼へ敬意は彼の名前(と言うよりは彼の官職)を大文章で印刷して鼓舞される。彼を指す代名詞に至るまでそうなの
だ。
 しかし,繰り返して育ってもいいが,嘉仁の境遇は,近づくことができるような人間的なものになるだろうし,彼は国政においてまさに実在の人物になるだろう。被はドイツ皇帝と同じほど多くの実権を,間違いなくあれほど騒々しくなく握り、イギリスのスのジョージ国王よりは政務に関与するだろう。
 
すべての戦争命令は彼に提出されるだろうし.すべての行政報告も提出されるだろう一一彼が戒厳をもってそれを読むかどうかは分からないが。今日では彼は,公式行事において格別現代風な謁見の間に姿を現し,赤い敷物を敷いた台座に立ち,赤い覆いをして、金の縫取りを施した玉座に座り.優雅に象眼をあしらった床や精巧に鏡板をはめた壁や天上を見渡す。
 
 
 
 

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