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★『明治裏面史』/『日清、日露戦争に勝利した明治人のリーダーパワー,リスク管理 ,インテリジェンス㊿『川上操六が育てた陸軍参謀本部の俊英・明石元二郎と宇都宮太郎のコンビが日英同盟締結、日露戦争勝利の情報・謀略戦に裏で活躍した①』

   

 ★『明治裏面史』/

『日清、日露戦争に勝利した明治人のリーダーパワー,

リスク管理 ,インテリジェンス㊿

宇都宮徳馬の父が太郎である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BE%B3%E9%A6%AC

1001-04

 以下は宇都宮徳馬『暴民損民」徳間書店(1984年)より

明治維新とはイギリス、フランスなど列強の植民地主義の圧力に、開明派が目覚めて、鎌倉以来の幕府を倒して武家政治の終焉を告げ、近代化の幕を開いたものである。別の言葉で言えば、日本の政治が600年ほど失っていたシビリアン・コントロールを回復したことであり、そこに明治維新の意義があった。

私の父の宇都宮太郎は生涯、この長州軍閥に抗し続けた少数派の軍人

明治十八年に、父は少尉に任官している。明治二十二年に大日本富憲法が発布され、翌二十三年に第一回帝国議会が召集されていることから推して、私の父は明治もごく初期の軍人であり、近代陸軍への成長発展とともに歩んだ軍人だった。

当時すでに陸軍は山県有朋、寺内正毅らの長州閥で固められ、長州以外の者はいかに有能でも中枢の地位にはつけなかった。

佐賀出身の父は長州閥の横暴にもがき、あえぎ、怒りながら過ごしたらしいが、そうした中でも、若い頃から大アジア主義を唱え、中国の孫文、黄興ら国民革命派に深い共感を抱き、朝鮮民族の立場に理解を持っていた。

私が昭和二十七年の選挙で衆議院議員に初当選して以来、日中国交回復、朝鮮問題に取り組んできたのも、いわば父親ゆずり″なのである。

 平凡社の『大人名辞典』に次のように記述されている。

 宇都宮太郎(1861-1922)陸軍大将。文久元年三月十八日、佐賀鍋島藩士亀川貞一の四男に生る。のちに宇都宮家を嗣いだ。明治二十三年、陸軍大学を卒へて参謀本部に入り、大正八年、大将に累進す。その間英国公使館付武官、参謀本部第二部長、東宮御用掛を経て第七及び第四各師団長、朝鮮軍司令官、軍事参議官等に歴補す。桂太郎、仙波太郎の両大将と並んで『陸軍の三太郎』と呼ばれ、その才幹を嘱望されていた。大正十一年二月十五日没、年62

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E9%83%8E

 私の祖父は亀川新八(貞一)と言い、

http://oldbook.hatenablog.com/entry/2016/08/07/213316

この名前は、勝海舟が書いた『海軍歴史』の中に、安政二年(1855)にはじまる長崎海軍伝習所の第一回生として見えている。徳川幕府は1この日本最初の海軍兵学校を幕府の子弟ばかりでなく、門戸を開放して全国から百六十六名におよぶ人材を集めた。

第二からは幕府の子弟に限られたが、この第一回生の中には、勝海舟をはじめ、中島三郎助、五代友厚、佐野常民、中牟田倉之助など歴史的なそうそうたる人物が名を連ねている。祖父の亀川新八は佐賀藩の蘭学生の中から選ばれたもので、当時は二十歳そこそこだった。

『鍋島直正(閑里)公信』の中にも、祖父亀川新八の名が「艮工」と特記されている。当時としてはウルトラモダンな人だったようで、自製の自転車を乗り回していたことが伝えられている。わが家にはまた、祖父がみずから製作したガラス器が、家宝として残されている。

 

 ところが、この祖父が明治二年に佐野常民の陥罪におち、身は切腹、御家は断絶の悲劇的な最期を遂げるのである。そういう言い伝えがある。

父(太郎)は亀川の姓を名乗ることができなかった。縁辺、宇都宮泰源の養子となり、宇都宮太郎となったのである。

当然、悲惨な運命が一家を襲った。祖母は気丈なしっかりした婦人だったが、非常な苦労をしたらしい。その苦労は、父が明治十八年に少尉に任官、若干の給与を貰うようになって酬いられた。

長州軍閥の清朝保護政策と対立

 父の尉官時代の極東情勢は、清国の分割に列強が強い関心を示し、それぞれの思惑から相互に反目しあっていた。明治二十七、八年の日清戦争後はとくに、日本に割譲することになった遼東半島の領有権放棄を勧告してきた三国干渉の中心であるニコライ二世治下のロシアが、露骨に清国に対する領土的野望を示していた。

優柔不断のニコライ二世は、皇后をとりまく陰謀政治家ベゾプラゾフ

http://syuun.way-nifty.com/blog/2009/12/post-5e41.html

らに乗せられて、旅順、大連に軍隊を進駐せしめた。

清国の領土保全を建て前とする三国干渉の直後だけに、この侵略は日清のみならず、世界の自由主義的与論を憤激せしめた。ベゾプラゾフの魔手は傍若無人にも朝鮮半島にのび、これがやがて日露戦争の発端となるのである。

 こうした情勢に対応して、父が日清英同盟論を書き、のちの陸軍参謀総長川上操六に提出したのは中尉のときであった。

日清英同盟は、清朝の腐敗が甚だしく同盟の対象にはついにならなかったが、

日英同盟

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F

はその後、明治三十五年に成立し、これには父もロンドン駐在武官として尽力することになる。

父が陸軍大学を卒えて参謀本部に入ったのは明治二十三年のことだが、その前年には、ヨーロッパ留学から帰国した川上操六

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%93%8D%E5%85%AD

が参謀本部次長に就任して、陸軍の整備と近代化をすすめていた。

父は、この国際派の川上操六に親近感を抱き、共感するところも多かったようである。日清戦争のときもともに広島の大本営入りをしているが、父はこの明治二十七年に、時の広島県知事だった鍋島幹男爵の娘を嫁に貰いうけている。

太郎・寿満子なるカップルができたわけだが、これはまさに奇しき縁につながるものであった。切腹、御家断絶の悲運に泣いた祖父亀川新八も、息子が旧藩主の親族から嫁をめとったということで、いささか怨念を晴らしたのではあるまいか。

川上操六に提出した日清英同盟論がどう評価されたものか、日清戦争後、中佐に昇進した父は、駐英武官としてロンドンに赴き、林董公使

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%91%A3

とともに日英同盟を締結に導いた。日英同盟を戦略の基礎においていた父としては男子の本懐であったに違いない。

 ところが、先に述べたように、この頃からロシアは極東において強硬政策に転じ、中国および朝鮮半島を窺う姿勢が露骨を極め、ここにロシアとの開戦が国民的な課題になってきた。

 日露戦争については、朝鮮半島の中立をめざす日本と、滴洲からさらに南下をはかる帝制ロシアの対決という見方もあるが、その背後に、ロシアのエネルギーをアジアに向けさせようというドイツの陰謀があったことは存外知られていない。

当時、ツァーのロシアとカイザーのドイツは、東欧、バルカンを中心に覇を競っていた。ドイツのウィルヘルム二世は3B(ベルリン、ビザンチン、バグダッド)政策を強力に推し進めていたが、ビザンチンは東ローマ帝国の首都だったところであり、ギリシャ正教を信奉するロシアのツァーとしては、むろん、ドイツの3B政策は黙認できるわけがない。ツァー、カイザーによる双方の激突は必至であった。

 ここで、ウィルヘルム二世

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A02%E4%B8%96_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%B8%9D)

の大陰謀が極秘に、かつ大胆に胎動していた。

ツァー周辺でベゾブラゾフが暗躍し、ドイツ系の皇后も日露戦争の仕掛け人の一人であった。旅順にいた極東総督アレキシェーフのごときは、まったくベゾブラゾフの傀儡だったのである。

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