日本リーダーパワー史(615)世界が尊敬した日本人(85)関東大震災の復興、「横浜の恩人」の原三渓ー今も天下の名園・三渓園にその精神は生きている。
2022/09/26
日本リーダーパワー史(615)ー世界が尊敬した日本人(85)
関東大震災の復興、「横浜の恩人」の原三渓ー
今も天下の名園・三渓園にその精神は生きている。
前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)
原三渓といえば名園「三渓園」をつくり、美術、文化のパトロン、大茶人の実業家として名前が響いているが、関東大震災で壊滅した横浜を建て直し、経済再建、社会事業、慈善事業を一手に引き受けた横浜の大恩人であり、メセナやフィランソロフィー活動の先駆者でもある。
大正12年(1923)年9月1日、関東大震災が東京、横浜、関東一帯を襲った。
罷災人口は約340万、死傷者約28万という未曽有の大惨事となった。横浜の焼失家屋は5万戸、倒壊家屋2万戸の計7万戸にのぼり、いっきよに60年前の横浜の漁村に戻ってしまった。
当日、原三渓は箱根芦の湯の別荘に避暑に来ていた。縁側にいた三渓は庭に投げ出されるほどの激震に襲われた。「横浜壊滅か!」と直感した原はすぐ下山して自宅に向かった。道路はいたるところで寸断され、海岸部は津波にやられている。小田原、藤沢と東海道を3日、3晩歩き、あるいは舟に乗り継いでやっと三渓園のわが家に到着したのは9月4日午後だった。
横浜は当時のわが国の代表的な貿易、輸出品の絹、生糸製品の窓口である。そこが壊滅した。同7日には生糸貿易業者が約100人が集まり「生糸貿易の復活」を決議、横浜の経済界の中心だった原が担ぎ出され10日、横浜貿易復興会発足し三渓が会長になった。同時に横浜市の復興会会長になり、経済と市政の復興の大役を任されたのである。原は重大なる決意で臨み「わが横浜は生糸によって生まれ興隆発展してきた。生糸こそわが横浜の生命である」、「横浜市の本体とは市民の精神、市民の元気である。復興のためには協力一致して猛進しなければならぬ」と両会合であいさつした。
原三渓(本名・原富太郎)は慶応4年(1868)8月23日、岐阜市で生まれた。東京専門学校(現・早大)を卒業後、跡見学園の歴史教師をしていて、横浜の生糸業者の原善三郎の孫娘と結婚、入籍した。原善三郎は慶応元年(1865)には、横浜第一の生糸売込商となり、横浜蚕糸貿易商組合長、衆議院議員を歴任し、28年には横浜商業会議所の初代会頭になるなど横浜の経済界の第一人者。明治32年、善三郎は亡くなるが、その後を継いだ原三渓は生糸製品、工場をさらに高度化、発展させて文字通り、横浜を代表する実業家になっていた。
もともと横浜は東京、大阪、京都、名古屋、神戸等とは違って明治維新前には100戸にもみたない漁村で開港によって急激に発展。外国人の居留地ができて生糸を中心とした海外貿易の輸出港として短期に発展した。横浜壊滅の情報に神戸港が代替港に名乗りを上げて、商社も協力し、横浜で被災した外国商社やインド人商館も神戸へ引っ越しを検討していた。原は山本権兵衛内閣の山本首相や、井上準之助蔵相らと相談して、その動きに待ったをかけて横浜の復興、再生の先頭にたって走りまわった。すぐ問屋、輸出商、蚕糸商など合計100店舗の仮木造バラック立ての共同店舗を建設して、9月17日には初取引を開始、取引所も11月1日から立会いを再開するというスピード復興を陣頭指揮した。
1年後には被害家屋の大体80パーセントの応急措置が講じて、横浜市の人口も40万人に戻るなど急回復で、原のリーダーシップが発揮された。同時に被災民のための公共事業の援助や震災復興整理にも親身に努力した。
窮民の医療保護事業、社会救済を目的に公益法人と「恩賜財団済生会」の理事をつとめ「財団法人協調会」「財団法人神奈川県匡済会」「神奈川県乳児保護協会」の多くの社会事業に積極的に関与した。
また「共益不動産株式会社」「横浜市復興信用組合」「横浜衛生組合連合会」日本輸出絹物同業組合連合会・日本絹業協会」などの役員、トップを務めて震災復興整理の先頭に立って、押しも押されぬ「横浜の大御所」的な存在となった。
関東大震災では横浜港の港湾施設も大きな被害を受けたが、東京の復興が優先され横浜は後回しにされた。原は政治家に熱心に運動して震災2年後には横浜港の復旧を完了させた。鶴見川河口を埋め立てによる一大工業地帯の建設と鶴見川河口と本牧十二天を結ぶ防波堤工事にも着手させるなど、幅広く取り組んで、今日の横浜発展の礎を築いた。
三渓園といえば原三渓である。
その広さ5万8000坪、19万平方メートルで、園内には全国から17棟の日本的文化遺構を移築した。四季おりおりの美を競う屈指の名園は、善三郎が購入した土地を富太郎が築庭し、野毛山から邸宅を移し、明治39年(1906)からは、横浜市民のために一般開放していた。
また、原は益田孝(鈍翁)と並び称される日本の代表的な美術コレクターで仏画、茶道具などの、国宝級の古美術品を多数収集していた。明治40年から美術界へ積極的に協力し、日本美術院の横山大観、下村観山安田敏彦、前田整頓らをバックアップし、美術家への助成を行なった。
原は、鎌倉で禅の修業し、茶道にも深い造詣があった。益田孝、高橋箒庵、松永安左衛門ら多くの茶友が、三渓園での茶会に集まった。昭和24年(1949)8月、床の間に雪舟の山水の軸を掛けて観賞していた三渓園の自邸で70歳で亡くなった。
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