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野口恒のインターネット江戸学『江戸から学ぶウェブ社会の活力②江戸は日本人が最も旅行した時代

   

日本再生への独創的視点<インターネット江戸学連続講義>
 
『江戸から学ぶウェブ社会の活力
 -町民社会を支える庶民のネットワ-ク-
 
野口 恒著

ロロ-グ  江戸は日本人がもっとも旅行した時代
 
江戸後期に起こった爆発的な旅行ブ-ム
 
 「最近、お伊勢参りがブ-ムですね」とよく言われる。確かに、世の中の不安の時代を反映し、心の癒しを求めてこのところお伊勢参りする人が急増している。先の遷宮(1993年)の年におよそ830万人の参詣者を記録した後、ずっと500万~600万人台あったのが、2008年には700万人を超え、2009年には800万人を超えるのではないかといわれる。
これはそれほど驚くことではない。江戸時代にはだいたい60年周期でお伊勢参りが盛んに行われ、その最盛期には春だけで500万人近くの人が訪れた大賑わいの旅行ブ-ムがあった。
 
 意外なことに、日本の歴史の中で庶民の間に旅行が大流行した旅行ブ-ムはたった2回しかない。1回は、江戸時代後期に人気紀行作家十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や、東海道名所図会・江戸名所図会・伊勢参宮名所図会・大和名所図会など、全国各地の名所図会などの旅行ガイドブックがヒットし、お伊勢参りや京・大坂の上方旅行など、庶民が盛んに旅をした江戸時代の旅行ブ-ムである。
2回目は、戦後日本が高度経済成長を経て生活に余裕ができたこともあり、1970年代以降新婚旅行・家族旅行・社員旅行・団体旅行・海外旅行など旅行が庶民の娯楽として人気を博し、大流行した昭和の旅行ブ-ムである。
 
 とくに、戦後の旅行ブ-ムは映画やテレビなどメディアの影響が非常に大きかった。森繁久弥主演の喜劇映画「駅前シリ-ズ」や「社長シリ-ズ」、渥美清主演の国民的な人気映画「男はつらいよシリ-ズ」は、人情味あふれた喜劇映画というだけでなく、各地をロケして地方の美しい風景や名所旧跡を紹介したことが、全国の多くの人たちに支持され、人気を博して長く続いた。
テレビ番組も「てなもんや三度笠」や「水戸黄門」は全国各地を回ったり、いや今も回って長く続いている長寿番組である。さらに、海外旅行を紹介したテレビ番組「兼高かおる世界の旅」は30年以上も続いた超長寿番組である。
これらの番組の人気が長く続いた秘密は、全国各地や世界の国々を紹介しながら、「家族でゆっくり旅行してみたい」「生涯に一度は世界旅行してみたい」とする庶民の旅行への強い憧れと気持ちを反映した情報番組であったからである。敗戦からやっと経済も回復し、生活に多少余裕が生まれた庶民にとって、国内旅行や海外旅行はまだまだ憧れの娯楽であった。
 
 江戸後期の旅行ブ-ムも、東海道中膝栗毛などの滑稽小説や名所図会などの旅行ガイダンス、葛飾北斎や歌川広重などの浮世絵の風景画など、出版メディアの影響がきわめて大きかった。東海道中膝栗毛は当初東海道だけであったが、大好評のため次々と続編が書かれ、以後金毘羅参詣、木曾街道・善光寺道・中仙道中を股にかけ、さらには奥州街道まで足を伸ばした。
 
主人公の弥次さん、喜多さんはなかなか江戸に帰れず全国各地を歩き回り、道中紀シリ-ズとして21年間の長きにわたって続いたのである。20年以上も続いたロングセラ-の秘密は、庶民にとって親しみやすい口語体でかかれたこと、おバカでユ-モアあふれる主人公2人のドタバタ喜劇の滑稽小説であったことと、庶民の旅行への憧れをうまく汲み取った旅に役立つ情報小説であったことだ。
 
「東海道膝栗毛」の読者層は、上は大名から下は文字さえ読めれば都鄙の庶民にまで拡大した。舞台は東海道でも、そこの旅の経験者は全国に多くいる。まして伊勢参りや金毘羅参り、京・大坂の上方見物となれば、かつてそこを旅した人たち、これからその地を旅したい人たちは、全国に無数にいる。当時、東海道膝栗毛のヒットに目をつけた西国の貸本屋の河口屋や東国の貸本屋の鶴屋は、抜け目なく五編以後その出版に参加したほどである。かくて、東海道膝栗毛はますます多くの読者に読まれることになり、江戸の旅行ブ-ムを後押しした。
 
 ところで、庶民の旅行といえば、お伊勢参り、金毘羅参り、熊野詣、大山参り、四国遍路めぐりなど信仰を口実とした物見遊山の旅が圧倒的に多かった。なかでもお伊勢参りは大人気で、寺社から比較的容易に通行手形が出たこともあって、文政13年(1830年)にはお伊勢参りの参拝者が約460万人に上った。
伊勢講に登録していたのはなんと日本の世帯のおよそ7割に上ったと記録されている。当時日本の人口が2600~3000万人程度と考えると、およそ6~7人に一人がお伊勢参りに行ったことになる。文字通り、江戸は日本中の人たちがもっとも旅行した時代であった。
 
 文政9年(1826年)にオランダ商館長の江戸参府に参加したドイツ医師のシ-ボルト(1796~1866)は、当時の江戸の旅行事情について著書「江戸参府紀行」の中で、
「おそらくアジアのどの国においても、旅行することが日本ほど一般化している国はない。自分の領地から江戸に行き来する大名の絶え間ない行列、活発な国内の商業活動、それらの貨物の集散地である大坂には全国のあるゆる地方から情報や物資が集まり、商人たち(買い手や売り手)が殺到し、盛んに売買が行われている。
また庶民の巡礼旅行も非常に盛んである。日本で旅行がしやすいのは、参勤交代の制度のため江戸を中心に街道や宿駅が整っていて、比較的に安全に旅行できるからである。これらすべてが、この孤立している島国の多忙な生活の原因になっている」と書いている。
 
日本人はもともと旅行好きの国民である。旅行は、庶民にとって日常生活のしがらみから開放される人生の喜びであり、最大の楽しみである。日本人は騎馬民族や遊牧民族と違って農耕定着民族だから、旅行することにあまり価値を見出さなかったと思われ勝ちだ。
しかし、決してそうではない。日本人の心の中には古くから旅行することに強い憧れがあった。封建時代は庶民が自分の村落から外に出るのは基本的に御法度であったが、唯一の例外は寺社参詣の信仰の旅であった。
 
本来は寺社に詣でることが目的だが、実際には信仰を口実に旅の途中で近隣の温泉で骨休めし、京都や大坂に出て
芝居見物をするなど、旅を通じて人生の喜びや楽しみを満喫する物見遊山の旅行が多かった。
 
江戸は、世界でも例のない男社会の都市であった
 江戸は、空前の旅行ブ-ムを見てもわかるように移動の激しい社会であった。その背景には、単身者や独身者の多かったことが大きな要因だ。単身者や独身者が多いとどうしても人や物の移動が激しくなる。
当時江戸は100万都市としていわれ、ロンドンやニュ-ヨ-クよりも人口が多く、世界最大の都市であった。その人口構成は大雑把にいえば、武士が約50万人、残りが町人であった。また男女比も、男性が約6割で、女性は4割しかいなかった。その意味で、江戸は武士を中心とした“男性社会”であったといえる。
 
 1635年3代将軍徳川家光の時代から始まった参勤交代により、毎年2000人以上の武士が地方から江戸に出てきた。故郷に妻子を残し、ほぼ1年間江戸に滞在した。武士50万人のうち半数は単身者ではないかといわれる。参勤交代の時期は、外様大名が4月、譜代大名は6月、8月と決められていた。
この時期に地方から大勢の武士が江戸に出て単身赴任した。単身者や独身者が多いのは何も武士だけでない、町人にも多かった。町人も大店の奉公人は店の主人に結婚を許されるまでずっと独身であった。上方の豪商たちは、江戸の大消費都市を当て込んで「江戸店」を開店したが、江戸店は例外なく一人の女性もおらず、男ばかりで営業していた。武士や商人だけでなく、職人たちも単身者の出稼ぎや臨時雇いの職人たちが多かった。江戸は、男社会を中心とした独特の人間模様が成立していたのである。
 
江戸の下町は雑多な人たちの寄り集まりであり、人口の流出入も激しかった。武士や商人だけでなく、浪人、町医者、易者、職人、お師匠、役者、遊民など、老人もいれば若い人もいるように、それこそ異なった世代や異なる職業の人たちが寄り集まり、隣り合って生活していたのである。彼ら庶民の食生活は、家内で食事をするよりも屋台や小料理屋などで食事をする外食が多かった。
そのため、江戸には庶民の胃袋を満たす屋台が発達し、さまざまな種類の屋台があった。人気なのは、蕎麦、甘酒、汁粉、大福、握りずし、焼きいかの屋台などで、なかには天ぷら、刺身、うなぎの蒲焼などの高級屋台まであった。
 
単身者の生活はどうしても個人単位の世界となる。そのため仲間同士の助け合いや連帯、交流を求めて、頼母子講や伊勢講など各種「講」の組織やネットワ-クが発達し、俳諧・連歌・川柳などの寄り合いである「連」などの集まりも盛んであった。
こうした組織やネットワ-クを通じて、人びとは日常的に仕事をしたり、助け合ったり、旅行したり、遊んだり、寄り集まったりして、活発に移動し交流したのである。当時の江戸は、世界的に見ても人びとの動きがもっとも激しい社会であった。
 
江戸の旅行ブ-ムの仕掛け人「御師」
 
 江戸後期には五街道(東海道・中山道・日光道・奥州道・甲州道)を中心に江戸と地方を結ぶ街道や宿場が整備され、庶民が宿泊する旅籠(はたご)や木賃宿が増えたこともあって、庶民の間で旅行が盛んに行われた。
 
江戸時代は基本的に封建社会だから、人びとが自分の村や町の境界から勝手に外に出ることは許されなかった。しかし旅行は例外的行為とみなされ、なかでも社寺参詣などの信仰の旅は認められていたのである。そのため、江戸後期には信仰を目的とする旅行や行楽が非常に盛んになった。
 
当時、庶民が歩いて東海道五十三次(江戸・日本橋から京・三条大橋まで約490キロメ-トル)を旅するには、片道平均して13泊14日~14泊15日の日数がかかった。旅費は、1800年当時宿代は1泊2食つきで100文から200文(現在で換算すると2000円~3000円位)、昼食代は30文から50文ぐらい(現在の600円~1000円位)、その他、籠代や酒代など諸経費を含めて、旅費は往復で給料の1カ月分ぐらい(現在の25万円~30万円位)かかったといわれる。そのため、庶民は、「講」という互助組織を作って旅行資金を積み立てたり、融通し合ったりしたのである。
 
江戸時代の旅は現在と違って強盗や追い剥ぎなど危険がいっぱいである。そこで、庶民が安全に旅ができるよう、道中の安全を祈願したり、参詣者の参拝の便宜、宿泊の手配、道中の案内を世話したりして、今日でいう旅行代理店のような役割を果たしたのが、旅行ブ-ムの仕掛け人である「御師」(おし)と呼ばれる人たち(下級神職)だ。
御師は全国あちこちの大きな寺社にいて、定期的に地方を回って旅行を勧誘した。なかでも伊勢神宮に属する御師は特別に「おんし」と呼ばれ、伊勢参拝を勧誘し、お伊勢さんの御祓い、伊勢暦、土産物などを配って初穂料をいただき、旅行の便宜を図ったのである。お伊勢参りの全盛時代には、伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)合わせて1000軒以上の御師がいたといわれる。
 
 お伊勢参りは、関東では主に講による「代参方法」(講で選ばれた代表者が参拝する方法)がとられたが、関西では男女を含めた講員全員で「総参り」する形態が多くみられた。伊勢神宮では20年ごとに式年遷宮の行事があり、その年に合わせて御師が地方を精力的に回って参詣・参拝を勧誘するため、庶民の間でお伊勢参りが爆発的に流行したようだ。
 
しかし、みんながみんな十分な旅支度や資金を準備して旅行したわけではない。伊勢まで旅行するには宿代、食事代、飲食代、土産代など相当のお金がかかる。簡単に出来ることではなく、資金を積み立てたり、借金したりして旅行費用を工面した。それでも、なかにはお金を持たず旅支度もせず、無一文で突然出かけてしまう者もいた。
これも「おかげ参り・抜け参り」として大目に認められていたようだが、女や子供まで勝手にお伊勢参りに出かけ、街道沿道の人たちに食べ物や路銭をいただき、助けられながら参拝したという。それほどまでに、庶民にとって旅行は一生に一度の大きな楽しみであり、喜びであった。
 
「東海道中膝栗毛」など、出版メディアの影響が大きかった
 
 江戸後期に東海道を始め旅行ブ-ムが流行した背景には、庶民に読まれた紀行物、浮世絵、旅行ガイドブックなどの出版物の果たした役割が非常に大きかった。享和2年(1802年)に十返舎一九の書いた「東海道中膝栗毛」が数万部もヒットして、庶民の間に爆発的な東海道ブ-ムが起こった。
この作品は、江戸から伊勢神宮、京と大坂を旅する珍道中紀である。弥次郎兵衛と喜多八というコンビが数々の失敗をしながらお伊勢参りに出かけ、京や大坂を旅する道中を、冗談や狂歌を交えておもしろおかしく描いた失敗談や滑稽話である。これが息苦しい日常生活から解放されたいとする庶民の人気を呼び、旅への憧れや願望を強く刺激して旅の面白さや楽しさを印象づけたのである。東海道中膝栗毛は江戸の読者だけでなく、地方の読者をもたくさん魅了した。
 
「或人間、弥治郎兵衛、喜多八は、原何者ぞや。答曰く何でもなし。弥治唯の親仁なり。喜多八これも駿州江尻の産、尻喰観音の地尻にて、生れたる因縁によりてか、旅役者、花水多羅四郎が弟子として、串童となる。されど尻癖わるく、其所に尻すはらず、尻の仕舞は尻に帆をかけて、弥治に随ひ出奔し、倶に戯気を尽す而巳。此書、両士が東都神田の八丁堀に、店借し居たりし中のことを著し、終に旅行の発起とする所以の、馬鹿よしきことを。作者が寝酒の飲料に、余計の著述をなすものならし」(十返舎一九著「東海道中膝栗毛発端・累解」小学館) 
 
 一人はぶくぶく太って色が黒く、あばた面の中年男。もう一人は背が低くてどんぐり眼に獅子鼻の風采の上がらぬ、役者の過去を持つ男。食い気と色気、そして金銭にもだらしなく、しみったれた欲望を道中至る所で発揮し、友人を裏切ることも平気でする。見栄坊のくせに恥知らずで、大物ぶるが根は小心者である。
悪人かというと、悪人になりきれるほど智恵が回らない。旅は行き当たりばったりで計画性にすこぶる欠けており、先の見通しもまったくない。こうしたおバカさん2人が、道中ユ-モアあふれる失敗やトラブルを次々と起こして旅する滑稽小説であるが、旅の失敗やトラブルは誰にも経験があり、多くの読者には2人の主人公がもはや他人とは思われず、まるで自分のことのように感じられたのである。
 
 弥治さん、喜多さんの2人は、江戸に来てもそこに根を下ろせなかった根無し草であった。田舎者の弥治さんは駿河の金持ちの家に生まれたくせに財産を放蕩し、江戸に逃げてきた。江戸で所帯を持ったが、江戸育ちの女房に絶えずコンプレックスを感じ、ついに結婚にも失敗する。一方、喜多さんは生来気儘な性格のため、律儀で厳しい商人の世界に馴染めなく、せっかく奉公した商家でも勤まらない。
 
彼らは世間から落伍した根無し草のような存在であったが、そんな2人が意気投合して、自分たちのうだつの上がらぬ身の上や暮らしから逃れるために、着の身着のまま旅をしようとする。この作品は単なる滑稽小説にとどまらず、主人公たちの人生の悲哀や寂しさを感じさせるものがある。当時の庶民は、飢饉などにより日常生活の貧しさや苦しさを経験しており、旅行をすることでそれらを一時でも発散し忘れたいとする気持ちが強かった。それが弥治さん、喜多さんへの強い共感となって人気を博したのである。
 
江戸時代には、慶安3年(1650年)、宝永2年(1750年)、文政3年(1830年)と、老いも若きも着の身着のままに伊勢神宮に参拝する「おかげ参り」が全国規模で流行した。とくに文政3年(1833年)のおかげ参りは東海道中膝栗毛の影響もあって、500万人近い人たちが伊勢神宮に参拝したといわれる。
そして、その3年後の天保4年(1833年)には歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」(宝永堂版)が出版された。東海道を描いた浮世絵の風景画は、旅の思い出を記録した写真のアルバムのようなもので、庶民は競ってこの浮世絵を買い求め、旅の思い出を語り合った。
 信仰を目的とした旅だといっても、江戸時代の旅は危険がいっぱいである。天災や病気、追い剥ぎや強盗などの危険があって、旅先の不安は大きい。とくに女性や子供連れの長旅は危険が多かった。
 
そこで、庶民に安全安心な旅をしてもらおうと旅の心得や用心を紹介するガイドブックが出版され、多くの人たちに広く読まれた。その代表的な出版物の1つに八隅蘆菴(やすみろあん)が文化7年(1810年)に出版した「旅行用心集」がある。そこには、旅の心得である「道中用心六十一カ条」が書かれている。まず第1に、草鞋が自分の足に馴染んでいるかを確かめ、道中は時々休んで足を痛めないよう注意すること。第2に懐中物は旅行に必要不可欠なものに限り、できる限り少なくすること。
 
第3に旅籠に着いたら、いざという時の用心に非常口を確かめておくこと。第4に馬や駕籠が必要ならば、前夜のうちに宿屋の主人に頼んでおくこと。第5に朝は気ぜわしいので、所持品は夜のうちに点検して荷造りしておくこと等である。その他に、旅籠や木賃宿の宿賃(宿泊料金)、大井川などの川越料金、人足費・馬の駄賃、名所旧跡の紹介、地方の名産品などの案内と共に、駕籠に酔わない方法、毒虫を避ける秘法、東海道や中山道などの宿場間の距離、道中の日記のつけ方、旅についての諺や参考になる格言など、旅に必要な心得や用心が事細かに書かれている。
 
 江戸後期には紀行作家による旅の道中記や案内書(ガイドブック)などの出版物がたくさん出版された。たとえば、「東海道名所記」「江戸道中記」「浮世絵道中膝栗毛」「大日本道中行程細見記大全」「東海道名所図会」「都名所図会」「安見道中記」「伊勢参宮名所図会」「五街道細見独案内」などがある。多くの庶民はこうした出版物を読んで参考にしながら、旅に出かけたのである。
 
江戸時代は、旅行や移動の盛んな非定住のノマド社会
 
江戸時代は農耕中心の封建社会であり、そのうえ二百六十年にもわたって鎖国政策をとり続けてきたので、人や物の移動がきわめて少ない停滞した閉鎖社会のように思われるかもしれない。しかし、現実は決してそうではない。商人・職人・芸人・海人・漁民・遊民といった武士や農民以外の非定住の町人たちが生活のために活発に移動して、地域間や都市間の交易や流通などの経済活動を行っていた。
百姓と言われる身分の人たちや農民さえも、土地に縛られて農業だけに従事していたのではない。彼らは商業や手工業など多様な生業に従事して広域的に移動し、経済活動していたのである。百姓や農民も土地に縛られた自給自足の生活だけをしていたのではなかった。土地を持たない水呑百姓でも決して貧しい農民ではなく、廻船業などを営んだりして全国を活発に移動していた。
 
町人だけでなく、武士や農民さえも旅行に対する憧れや願望は非常に強かった。お伊勢参りや金毘羅参りなどのような大旅行だけでなく、江戸近郊の寺社詣でで、江ノ島、鎌倉、大山詣で、秩父御獄、富士詣で、成田山、鹿島神社、など信仰や行楽の小旅行に出かける人の数もおびただしいものであった。江戸時代は、土地に縛られた閉鎖的な定住社会では決してなく、庶民が盛んに旅行し、往来した非定住の移動社会(ノマド社会)であった。
 
注目されるのは、これだけ多くの人たちが活発に移動に移動できたのも、それを支えるさまざまなネットワ-クが全国に網の目のように広がっていたからである。江戸を中心とした五街道や宿駅・旅籠など交通網、飛脚制度などに見られる情報通信網、菱垣廻船・樽廻船・北前船などの海のネットワ-ク、講・連など庶民の生活ネットワ-クなど、社会や生活の隅々にまで多種多様なネットワ-クが張り巡らされ、上は大名から下は庶民まで全国を活発に移動するノマド社会を支えていたのである

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