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野口恒のインターネット江戸学講義⑨>第4章 網の目のように広がった情報通信のネットワ-ク(上)ー垂直回路と水平回路

   

日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義
 
第4章 網の目のように広がった情報通信のネットワ-ク(上)
公的情報は上意下達の垂直回路、私的情報はヨコに
繋がる水平回路
 
野口恒著(経済評論家)
 
公的情報は上意下達の垂直回路、私的情報はヨコに繋がる水平回路
 
 江戸時代は、日本の歴史の中でも人びとの往来がもっとも激しい移動社会であった。
 
人びとが活発に移動するには、それを支える交通手段や情報ネットワ-クの整備が不可欠である。江戸時代は封建社会にも関わらず、人やモノの移動を支える情報・物流のネットワ-クが意外に発達していたのである。とくに情報ネットワ-クは公的情報・私的情報のものまで含めると、まるで網の目のように江戸の社会にきめ細かく張り巡らされていた。
 
 江戸の情報伝達を考える場合、幕府などが発信源である「公的情報」(公儀情報)と、庶民の間で交わされる「私的情報」では情報の伝達ル-ト(情報回路)が明確に違っていた。幕府から諸大名へ、諸大名(領主)から家臣へ、さらに幕府から庶民へといった公儀情報は「上意下達」の垂直回路を通じて伝達された。
 
幕府から諸大名への公儀情報の伝達は、幕府の老中を通じて書面(老中奉書など)で行われた。幕府は公儀情報を諸大名(諸藩)に周知徹底させるため、その伝達方法について武家諸法度できちんと定めている。たとえば、諸大名の参勤交代については、
 
「大名小名在江戸交代之義、毎年守所定時節可致参勤、従者之員数弥不可及繁多、以共相応可減少之、但公役者教令、可随分限事」(「武家諸法度・寛文令」)(「大名・小名の在所と江戸の交替は、毎年決めた時期を守り参勤する事。従者は多数にせず相応に減らす事。但し公役の時は財力に応じる」)
 
と定めている。そして、参勤交代の具体的な手続きは次のように行われる。まず参勤前は、諸大名は国許より使者を立て参勤伺いの書状を江戸留守居役が同行して老中に提出するのである。
 
すると、それを受け取った老中は奉書にて、いつまでに江戸に参上するよう参勤交代の具体的な日時を指示する。次に参勤後は、後日老中より登城を命ずる奉書が継飛脚によって届けられるのである。幕府と諸大名の情報のやりとりはすべて、幕府最高の公式文書である老中奉書を通じて行われるのである。
 
次に大名から家臣への情報伝達は城代・家老を通じて家臣に伝えられた。家臣以外のものには奉行・代官→町方(町年寄・名主)・村方(庄屋)の情報ル-トを通じて書面(触書等)で伝えられた。幕府が公儀情報を庶民に直接伝えるときは、人びとが多く集まるところに「高札」(こうさつ)を掲げて行われた。
 
幕府は、幕藩体制の支配を強化するため、諸大名の動向や諸藩の事情を常に監視し、情報収集に努めていた。諸大名の監視は当初大目付などが行っていたが、それも次第に形骸化したため、「公儀隠密」(お庭番・徒目付・小人目付・忍者など)を使って諸大名・諸藩の実情や動向を秘密裏に監察し、情報収集するようになった。
 
もし藩主や代官の行状について不穏な情報や悪い風聞があれば、これを探索して幕府に報告していた。隠密活動は何も大名・藩主、代官・役人に関する情報の収集だけではない。彼らは全国隈なく歩いて農村の荒廃状況、お米の作付状況、米価の動向、商人の商売事情、町人社会の動きや流行など、経済や社会に関するあらゆる情報を収集し、幕府に報告していたのである。
 
幕府は隠密活動と別に、代官・役人の不正・汚職、悪徳商人の評判、行政への不平・不満などの情報を直接収集する手段として「目安箱」を設置した。目安箱は享保6年(1721年)に将軍徳川吉宗が庶民の要求、不平不満などの投書を受けるために評定所の門前に置かせた直訴箱である。幕府は庶民の生の声(直訴情報)を下意上達の情報ル-トを通じて収集していたのである。
 
幕府などによる公的情報の伝達が主に上意下達の情報ル-ト(垂直回路)で行われたのに対して、武士や町人たちの個人的な私的情報の伝達は、人と人のつながりを介して網の目のようにヨコに広がっていく情報ル-ト(水平回路)を通じて行われた。もともと私的情報は家族や親戚の身内関係、友人や知人など交友関係の情報がほとんどあるから、関係のないものにとってはあまり価値のない場合が多い。
 
しかし、関係のある者にとっては非常に大事な情報となる。そこで、庶民は多種多様な情報ル-ト(情報回路)やネットワ-クを作り、そうした情報ル-トを通じて私的情報のやりとりやコミュニケ-ションを行なっていたのである。
 
たとえば、庶民のネットワ-ク組織である講や連は会員相互の助け合いや交友関係で成り立っているが、お互いの私的情報の伝達は講や連の世話役や連絡係を介して行われていた。
私的情報といっても関係者にとっては大事な情報であるから、それらの情報を伝達する世話役や連絡係に対して講員の信頼関係がなかったら成り立たない。公的情報の伝達が権威・権力の裏付けによって成り立っていたのに対して、私的情報の伝達はお互いの信頼関係に依存していたのである。
 
江戸のネットワ-ク社会は、幕府の公的情報をタテに伝達する情報ル-ト(垂直回路)だけでなく、庶民の私的情報をヨコにつなぐ情報ル-ト(水平回路)が無数に存在し、それらがネットワ-ク状に繋がっていたのが大きな特色である。
 
たとえば、江戸後期の生まれで武士(幕臣)出身の戯作者・大田南畝の交遊録には、狂歌・狂詩・狂文など同じ趣味や目的を持って集まった連のネットワ-クを通じて繋がった実に幅広い交友関係が記録されている。
しかも、それらの交友関係は江戸在住の人たちだけでなく、連と連のつながりを介して全国に広がっていた。太田南畝を中心とした武士や町人の身分を越えた交友関係は実に幅広く、主な人物を上げただけでも彼の多彩な交友関係の広がりがわかる。
 
マルチ文化人・太田南畝の恐るべき人脈ネットワ-クである。
 
〇浮世絵師
 鈴木春信、窪俊満、山東京伝、喜多川歌麿、鳥文斎栄之、葛飾北斎など
〇戯作者
 平賀源内、山東京伝、恋川春町、式亭三馬、朋誠堂喜三二など
〇狂言師
 唐衣橘洲、朱楽菅江、智恵内子、宿屋飯盛、元木網、平秩東作など
〇文人画家
 谷文晁、酒井抱一など
〇歌舞伎役者
 五代目市川団十郎など
 
連などの文化サロン活動を通じて江戸や全国の仲間から寄せられた情報はじつに多様で豊かである。狂歌・狂詩の歌会情報や仲間の近況情報だけでなく、政治経済の堅い情報から役人の評判や風聞、世相の動きやの流行、遊びや旅行、下世話な世間話の柔らかい情報まで、それこそありとあらゆる情報が集まっていた。
 
宝のようなこれらの情報は、幾つもの連ヤ文化サロンを組織して活躍していた大田南畝の知的活動を支えていたのである。
お互いの情報交換は、連や文化サロンの世話役や連絡係を介して行う場合もあれば、江戸市中において書状などを入れた箱を担いで配達する町飛脚を利用して、直接行う場合もあった。市中の町飛脚は、棒の先に風鈴をつけて、それを鳴らしながら町を走ったので、チリンチリンの町飛脚とも、また便り屋や町小使ともいわれ、庶民に親しまれた。
 
南畝自身幕府の下級役人であったから、幕府や幕臣たちが自分たちで独占している公的情報がいかに稀薄で、内容的に貧しいものかを知っていた。しかも、役人たちは自ら努力して価値ある情報を収集することもなく、また入手した情報を公開しないから本当に価値ある情報が集まってこなかった。南畝は、幕府権力を使って集めた公的情報よりも、全国の仲間から寄せられた私的情報の方が価値あることをよく知っていた。だからこそ、連の仲間たちとの交流や信頼関係を非常に大事にした。
 
五街道と飛脚制度を整備し、情報通信のネットワ-クを作る
 
 徳川家康は慶長5年(1600年)の関が原合戦で勝利すると、いち早く全国支配の基礎となる主要交通路の整備に取り掛かった。それは江戸を中心とする五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)である。
 
江戸時代の五街道は、東京を中心とした近代日本の交通体系の基礎となったものである。江戸と京を結ぶ東海道、江戸と高崎・下諏訪・大津を結ぶ中山道、江戸と宇都宮・日光を結ぶ日光道中、宇都宮と白河を結ぶ奥州道中、江戸と甲府・下諏訪を結ぶ甲州道中はとくに重要な街道であった。
 
慶長六年(1601年)には、江戸と京を結ぶ東海道を定め、主な宿場(宿次)には伝馬(逓送用の馬)を置き、伝馬制を敷いた。伝馬定書には、各宿には36頭の伝馬を置くこと、1頭の積荷は30貫目(113キロ)に制限すること、伝馬の利用には将軍の朱印や老中らの証文が必要であること等が書かれていた。東海道に続いて中山道にも出し、元和年間(1615~1624年)の約10年間で五街道の道筋を定め、交通路を整備した。
 
幕府が五街道を整備した最大の目的は幕藩体制の確立にある。ただ主要街道が整備されたことにより、人や物の移動が活発になり、旅行ブ-ムも起こり、飛脚制度など情報通信基盤が整ったのである。
 
 街道が整備されたのに伴って、慶長九年(1604年)から全国の主要街道に一里塚がつくられ、河川には渡船場や川越制度もつくられた。幕府は、一方で支配維持のために関所を設けて「入鉄砲・出女」を厳しく取り締まったが、他方では交通に欠かせない宿場の整備に力を入れた。宿場には休憩・宿泊施設として大名・役人用の本陣・脇本陣、一般の旅人が泊まる旅籠・木賃宿を置き、また旅に必要な人馬を供する人馬継立や荷物の重量を検査する貫目改所を問屋場に置いた。
 
旅行者が増えて宿場の用意した人馬が不足すると、近隣の町や村が不足分の要因や馬を提供する助郷制度も設けた。同時に、伝馬制を支える宿場の機能も整えられた。寛永年間までに、宿役人、物資輸送と休泊の一切の業務を取り仕切る問屋、それを補佐する年寄、荷物の差配をする人たちなどが宿場に置かれた。
 
街道を利用する人が増えれば、当然様々な商売をする商店がたくさんでき、宿場は賑わった。幕府は宿場の繁盛策として旅籠に飯盛女の名目で遊女を置くことまで認めた。その結果、主要な宿場には必ず遊郭があった。たとえば、東海道一の宿場町である品川宿の遊郭には明和元年(1764年)に500人以上の遊女がいて華やかな賑わいを支えた。
 
江戸時代の情報通信基盤として、五街道の整備と共に非常に重要なのが飛脚制度(飛脚ネットワ-ク)を整えたことである。飛脚とは通常、通信文書、金銭・為替、貨物などの物品を本人に代わって目的地にまで運ぶ者のことをいう。飛脚制度の前身の駅制度は律令制の平安時代から存在した(馬を使った駅制・駅使・飛駅使など。その他足で走った脚力があり、脚力が飛脚に発展した)。
 
飛脚が本格的に活動したのは鎌倉時代以後のことである。鎌倉飛脚・六波羅飛脚が作られ、彼らは京の六波羅から関東の鎌倉まで主に馬を使って最短72時間で駆け抜けたといわれる。騎馬飛脚の他に足で走った足飛脚もあったが、当時の主流は早馬の馬飛脚である。
戦国時代に入ると、各地の戦国大名が領国ごとに関所(関銭・通行税)を設けたため、領国を超えて自由に通行できなくなり、飛脚制度はいったん廃れた。しかし、江戸時代になると江戸を中心とする五街道など交通路が整備されたことにより、情報通信手段の中核となる飛脚制度は復活した。
とくに世の中が安定し、商業が盛んになると、商人や町人を中心に民間でも手紙や文書のやりとりが盛んになり、庶民の手紙や文書を運ぶ町飛脚が急速に発展した。
 
江戸時代の飛脚は、馬を用いた鎌倉飛脚と違ってもっぱら人間の足で街道を走った。飛脚の種類には「継飛脚」(つぎびきゃく)「大名飛脚」「町飛脚」の3種類があった。
 
継飛脚とは幕府の公儀文書や荷物を運ぶ飛脚を指す。公儀文書を入れた「御状箱」(黒色の漆塗りの文箱)をかつぎ、「御用」と書かれた札を持った二人一組の飛脚が宿場ごとに引き継ぎながら運んだ。継飛脚を利用できるのは、老中・京都所司代・大坂城代・駿府城代・勘定奉行・京都町奉行・道中奉行などに限られていた。
 
利用に際しては、老中の証文などそれぞれ宿継証文が必要となった。継飛脚の仕事は各宿場の問屋場(といやば)が行い、昼夜兼行の24時間体制で支えていた。継飛脚を取り扱う部署を「御状箱御継所」と呼ばれ、幕府の重要な公儀文書の継ぎ立ては昼夜の区別なく行われ、そのために必要な要員がいつでも出発できるように待機していた。
 
継飛脚は何よりも「速さが命」である。継飛脚は2人1組でチ-ムを組んで走る。夜間でも1人が高張提灯をつけて先導しながら走り続けた。継飛脚には夜間でも関所を通過する特権が与えられていた。御状箱には老中から各宿場あての証文が付いていて、「何日までに確実に届けよ」といった指示が書かれていた。
 
継飛脚の速さは、江戸から京まで約500キロを普通便で5日、中急御用で4日、急御用で66~68時間、無刻と呼ばれる超特急便で56~60時間であった。継飛脚の平均走行速度(時速)は7.6キロ/時で、人の並足の2倍以上というスピ-ドであった。今日でいえば、箱根駅伝の選手ぐらいの速さで何十キロも走り続けるのである。
 
・ケンペルの「江戸参府日記」で飛脚制度に驚嘆
 
 
当時日本に滞在したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルは、元禄4年(1691年)に京から江戸まで東海道中を旅行し、その時の模様を「江戸参府日記」に書き記している。その中で、ケンペルは継飛脚についても驚嘆をもって書いている。旅の費用はすべて東インド会社が負担し、その額は12000両に上ったといわれる。
 
「将軍や大名の手紙を運ぶためには、昼も夜もそれを持って走って行く男(飛脚)が待機している。この飛脚は、少しの遅れもなく休まずに走り続け、次の宿場まで手紙を持ってゆく。飛脚は手紙を差出人の定紋のついた黒漆塗りの文箱に入れ、それを棒にしっかりと結びつけ、肩に担いで運んでゆく。
万一、一人の身に何かが起これば、もう一人がその役目を引継ぎ、文箱を担いで次の宿場まで急いでゆくことができるようになっている。彼が将軍の書状を運んでいるのであれば、誰でも、もちろん大名行列でさえ、彼が走るのを妨げないように道を空けてやらねばならない。だから彼は、いつも鈴を鳴らして遠くから走っていることを知らせるのである」(エンゲルベルト・ケンペル著「江戸参府旅行日記」東洋文庫)
 
大名飛脚は、各藩が国許と江戸藩邸や大坂蔵屋敷との連絡のため、また領国内の役所の連絡に街道を走らせた飛脚である。飛脚はその藩の足軽や中間(武家の奉公人で雑役に従事)から選ばれることが多かったようで、紀州藩・尾張藩の「七里飛脚」や加賀藩の「江戸三度」が知られている。七里飛脚は街道の七里(約28キロ)ごとに引き継ぎをする小屋(継所)を置いたため、この名前が付けられた。
 
たとえば、紀州藩の七里飛脚は、武州・神奈川を起点として、大和田菱沼・小田原・箱根・沼津・油比・丸子・金谷・見附・新居・御油(ごゆ)・大浜茶屋村・熱田・佐屋に継所を置き、熱田からは船で桑名に渡り伊勢路に入った。伊勢からは紀州藩の宿駅制が敷かれていたので、それを使って紀州・和歌山まで行った。
 
その間、およそ20カ所の継所をリレ-しながら、書状等を運んだのである。その間、速ければ3日18時間で江戸と和歌山を結んだ。しかし、江戸時代の農政家・田中丘偶の「民間省要」によれば、七里飛脚は御三家の権威を笠に着て横暴な行動が多く、街道の民衆を苦しめ、評判がよくなかった。また継所に要員や馬を常時配置しておかねばならず、そのため莫大な費用がかかり、たびたび運営が停止された。
 
町飛脚は、幕府や大名が利用した継飛脚や大名飛脚と違って、一般の武士や町人など庶民が利用した民間の飛脚をいう。全国各地に民営の飛脚問屋が設けられて、定期的に町飛脚を走らせた。
 
江戸では「定飛脚」、京では「順番飛脚」、大坂では「三度飛脚」(一ケ月に三度、江戸・大坂・京を往復するから、この名前が付けられた)と呼ばれた。町飛脚には文書類を運ぶだけでなく、現在の現金書留のような金銭を運ぶ金飛脚、商品を運ぶ縮緬飛脚、米の相場を伝える米飛脚があった。
町飛脚をもっとも利用したのは全国各地の米穀商人たちである。商都・大坂からもたらされる米相場や商品相場など最新の経済情報を得て、商売に生かすためである。
 
町飛脚の取次地は、東海道では藤沢・小田原・箱根・三島・沼津・吉原・岩淵・興津・江尻・府中・藤枝・島田・金谷・掛川・見附・浜松・新居・吉田・岡崎・池鯉鮒(ちりゅう)・一宮・桑名・四日市・関・土山(つちやま)・水口(みなぐち)・草津・大津の28か所に置かれた。中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中にもそれぞれ取次地が置かれていて、飛脚の全国ネットワ-クが形成されていた。
 
同じくドイツ人医師で博物学者のフィリップ・シ-ボルトが、文政2年(1826年)に京から江戸に旅した記録を書き記した「江戸参府紀行」にも、町飛脚の様子が書かれている。
 
「郵便網は全国に張り巡らされ、ことに首都である江戸と京都、外国人の貿易都市長崎へ送られ、その制度(飛脚制度)は日本商業の中心地大坂ではとくによく整っている。ここでは、郵送の日が決まっていて、日本の月で毎月7・17・27は長崎へ、8・18・28は京都や江戸までとなっている。
この定期便は大坂から下関を経て長崎まで7日でゆく。その上、下関までは舟足の速い、たくさん漕ぎ手を乗せた小さな帆船で行く。そこから郵便物は陸路を進む。
 
一定の宿駅が置かれていて、荷物を棒につくりつけ、走り手が先に運ぶ。その運び手は次の駅まで急いで走り、荷物を引き渡すと、すぐにまた先へと運ばれて行く。私はたびたびこういう飛脚を見た。この定期便のほかにいつでも海上を下関へ、陸路を他の地方へ手紙を出すことができ、送料は50ないしは100グルデン、状況によってはもっと高くかかることもある」(フィリップ・シ-ボルト著「江戸参府紀行」 雄松堂出版)
 
江戸、京、大坂などの大都市では、それぞれの狭い町内に限って文書や物品をきめ細かく運ぶ市中の町飛脚もあった。担ぎ棒(手紙や文書を入れた箱を担ぐ棒)に鈴をつけて町内を駆け回ったから「チリンチリンの町飛脚」といわれた。
江戸では、浅草・日本橋・神田・京橋・吉原・芝・品川・本所・下谷・深川・四谷・新宿・三田・高輪・湯島などに町飛脚を営む店があった。
 
市中の町飛脚は現在でいう町の郵便屋や宅配便に近いものである。料金はだいたい20~30文ぐらい、遠い所で50~100文ぐらいであった。面白いところでは、江戸の吉原や品川の遊郭では通常の町飛脚とは異なり、遊女の手紙を秘密厳守で専門に取り扱う「文使い屋」がいた。とくに吉原には江戸中どこでも手紙の配達を請け負う「ともへや五兵衛」という有名な文使い屋がいた。
 
 
 
 
 

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