前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

「オンライン・日本史決定的瞬間講座➄」★「日本史最大の国難をわずか4ヵ月で解決した救国のスーパートップリーダー・鈴木貫太郎首相(78歳)を支援して、終戦を実現させた昭和傑僧、山本玄峰(95歳)とは一体何者か?(下)』 ★「禅坊主の死に方を見せてやる」(遷化(せんげ)」★『遺書には「正法(しょうぼう)興るときは国栄え、正法廃るときは国滅ぶ」』

   

 

1890年(明治23)に25歳で出家

 

玄峰は郷里へ帰り養家の長男となっていたので、家督を整理し、妻とも離婚しすべてを捨てて出家した。1890年(明治23)、25歳の時のことです。

それ以来、修行僧の厳しい生活が始まる。起床は午前3時、すぐに読経が始まり、午前4時には粥座(しゅくざ、朝食)、昼の食事は斎座(さいざ)夜の食事は薬石(やくせき)で、いずれもつけものとみそ汁程度の粗食、精進料理。その典座(てんぞ、飯炊き、食事当番)となった。これができると、雲水として托鉢(たくはつ、出家者の修行の1つで、信者の家々を回り生活に必要な最低限の食糧などを乞うこと)に出る。一心不乱に修行を積んだのでした。

33歳の時には、美濃(岐阜)の虎渓寺など厳しいことで知られる僧堂で約11年間修行を続けた。明治36年、38歳の時、太玄和尚が遷化したため臨済宗妙心寺派の雪蹊寺を継いだ。1915(大正4)年、50歳の時、三島・龍沢寺(白隠禅師の菩提寺)に入山。住職となり、当時廃寺寸前だった寺を復興しています。

 

1920(大正10)年、56歳の時、東京の小石川白山の竜雲院白山道場に、正道会を初めて開き、政財界に多くの帰依者を生んだ。その中には岡田啓介(首相)、鈴木貫太郎(首相)、米内光政(海相、首相)、吉田茂(首相)、安倍能成(学習院院長)、迫永久常(内閣書記官長)、岩波茂雄(岩波書店主)ら軍部に批判的な人物が多くいた。このネットワークを通じて政財界の相談役となって、終戦工作にかかわることになるのです。

1922年(大正12)、58歳で、外遊の途ついて米国では大統領ハーディングに会見。イギリス、ドイツに巡遊。ドイツで関東大震災の報を聞き帰朝し大正14年には、インドに外遊、仏跡を巡拝している。こうした海外体験でグローバルな視点で禪の奥儀を究めていった。

この間のエピソードは数多い。

「あるとき、寺へ、日本刀を持った暴漢が乱入して老師を殺すぞと脅した。『わしは死に味を知らぬ。殺すのは勝手やが、いっそ、竹のノコギリで首をひいて、じわりじわりと死なしてもらいたい。じっくりと、死に味を味おうてみたいわ』とゴロリと横になった。度肝をぬかれた暴漢はあっさりと退散した」

「老師は、旅へ出る時、留守中への御指示に、「たとえ乞食(こじき)のような人がたずねて来ても、立ってものをいうようなことのないように、お腹のすいた人が見えたら、何はなくとも、お客様に差し上げると同じようにして、出して上げて下され。一人分くらいの食事は、いつでも用意して置くように、心がけて下され。
わしの若い時、行脚をして、何日も食べずに歩いた時に、一椀(わん)の飯を恵まれた時のありがたさを、生涯忘れることが出来ない。」と、話していた」。ある時、「わしのとこへは、馬鹿と貧乏の集まるところじゃ。智慧者や金持は、寄りつくと損をするぞ」と笑っていた」(3)

 

「龍沢寺で修行していた若い僧が夜中に、本堂の前を草履履いて行ったり来たりする音がするので、見に行くと、老師が便所から肥(こえ)くん本堂の前を通って、小さい畑の肥溜めへ入れていた。老師にたずねると、あんた方も将来人の上に立つことがあるだろう。その時には一番上に立った者が一番嫌がることをするべきじゃ」と話された」

「老師が重視したのは「磨いたら 磨いただけの光あり 性根玉(しょうねだま)でも何の玉でも」という。

「性根玉」とは、根本的な心の持ち方。心構えの元のこと」「本心」で、禅では、「見性(けんしょう)」という。自分の心とは何か。心の中の先入観や偏見を磨きに磨いてくもりを取り払い、心の原点に立ち返る。座禅を組み身体を落ち着け、心を集中統一していくことで実践されると説いた。決定的な瞬間に、老師はその「性根玉」によって肚が据わっていたのです。」

 

山本玄峰と田中清玄の子弟関係

 

玄峰師は右も左も思想、信条を超えて、「来るものは拒まず」で救済している。1935年(昭和10)ごろは暗殺、テロの横行時代。1931年(昭和6)9月に満州事変勃発、1932年(昭和7)には血盟団事件が起きた。国家革新主義者である日蓮宗僧侶・井上日召が主宰する団体「血盟団」が「昭和維新」を実現するために一人一殺主義を唱えた。このグループにより井上準之助前蔵相、団琢磨三井合名会社理事長のほか、犬養毅首相も5・15事件で暗殺された。

玄峰はこの5・15事件の裁判で井上日召の特別弁護人をつとめ、1934(昭和9)9月15日、法廷で次のように証言している。

 「日召の犯した動機は、心から日本の将来を思ってやったということ。仏教にも一殺多生ということがある。一つを殺して多くを生かすということだ。もちろん、殺人は法の禁ずるところだが、日召の意図したところは、もっと大きく、日本を救うという精神からでているもので、ただの殺人ではない」(4)

朝日新聞(9月15日付)で「井上日召の魂の父今日法廷に立つ。わしだけが判る、あれの心境 玄峰老師きのう入京」の見出しが大きく報道された。結局、日召は死刑判決ではなく無期懲役が下った。

玄峰老師は小菅刑務所の教戒師も務めており、入獄していた血盟団のメンバー(四元義隆ら)や戦前、武装共産党のリーダー田中清玄(昭和5年、治安維持法で逮捕、服役、戦後は、日本の黒幕とも呼ばれる)も老師に帰依するようになる。「獄中で転向」した田中清玄は、1941年(昭和16)4月,11年10ヶ月の刑期を終えて同刑務所を出獄し、その足で田中は老師の龍沢寺を訪ね、夫婦ともに弟子入りした。この年12月8日に、太平洋戦争が始まった。

ある日、玄峰老師が典座(てんぞ)修行中の田中に「お前は何のために修行するのか」と問うた。

「世のため、人のためです」と答えると「フーン」。また、しばらくたって同じ質問があり、同じ答えをすると、「ばか者、わしは自分のために修行をしとる。人のためではない」と大喝した。

山本は戦争中の軍の跳ね上がりを苦々しく思っていた。真珠湾攻撃についても、老師、田中、当時の重臣たちのいずれも予想だにしなかった。まさか、そこまで馬鹿だとは思ってもみなかった」のです。(5)

力をもって立つものは、力によって亡ぶ

太平洋戦争中のこと、老師は田中に忠告した。「軍は狂気じゃ。日本軍は今、刃物をもって振り回している。歯向かっていったら殺されるぞ。そのうちに疲れて刀を投げ出す。それを奪い取ればいい。お前は時局に関して、何も言っちゃいかん。修行専門だぞ」

戦時中も老師の寺は先客万来だった。「ワシの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんもくれば乞食も来る。大臣もくれば共産党もやってくる」と笑い、分け隔てなく誰とでも接していた。あるとき、近衛文麿(前首相)から軽井沢の別荘を使って戴きたいといってきた。「ワシは乞食坊主じゃから、汽車賃がなくて行けません」と断った。東条内閣末期のころ、迫永久常を通して東條首相が会いたいと申し込んできたが、これも断った。だが、鈴木貫太郎、米内光政、山梨勝之進(海軍大将)、富田健治(近衛内閣書記官長)、迫水久常らとは龍沢寺でよく座禅を組んで玄峰の話を聞いていた、という。

 

◎「禅坊主の死に方を見せてやる」遷化(せんげ)の言葉

ー90歳の最晩年になっても全国の寺、霊場への伝法の旅を続けていたが、疲れが出たのか1961年(昭和36)の亡くなる半年ほど前に病に伏せた。病床で、断食、断水を始めて、弟子に「禅坊主の死に方を見せてやる」と別れを告げた。「生きてください」と田中らが言うと、病人とは思えない力で、田中を殴りつけた。驚いた弟子たちが「正月早々、死なれては困ります」と必死で止めると「迷惑するというんなら、もう少し生きて、暑からず寒からぬ時を選んで、人間狂言の幕を閉じよう」と断食を解いた。

1961年(昭和36)5月28日に、会いにきた田中に「今日、往生する。師匠の命日じゃ」と言った。6月3日午前1時、当番で看病していた者にワインを頼んで、おいしそうに飲み干し、「旅に出る、着物を用意しろ」と言って15分後に果てた。

遺書には「正法(しょうぼう)興るとき国栄え、正法廃るとき国滅ぶ」「葬儀は絶対に行なわざること」とあった。

田中清玄への遺訓は「人間は早く出世することを考えてはならん。40よりも50、50よりも60と、齢を取るようにしたがって人に慕われ、人を教えていくような人間にならなければならん。60よりは70、70よりは80、80よりは90、90よりは100、そして100よりは死んでからだ…」

 

 

 

 

 

 

 - 人物研究, 健康長寿, 戦争報道, 現代史研究 , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
『100年目となったブラジル日系移民の歴史』

新橋演舞場上演          2007,11月       「ナツひとり」パ …

日本リーダーパワー史(654) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(47) 「川上操六のインテリジェンスー 日清戦争後、野党の河野盤州領袖を説得して、 陸軍6個師団増強に協力させた驚異の説得力」

日本リーダーパワー史(654) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(47)   …

no image
日本リーダーパワー史(575)明治維新革命児・高杉晋作の「平生はむろん、死地に入り難局に処しても、困ったという一言だけは断じていうなかれ」①

 日本リーダーパワー史(575) 明治維新に火をつけたのは吉田松陰であり、230 …

no image
ブッシュ大統領は就任当初からイラク攻撃を指示 オニール氏が暴露本

1 <イラク戦争1年>                              …

no image
『ガラパゴス国家・日本敗戦史』➁『近衛文麿、東條英機の手先をつとめたのは誰か』➁水谷長三郎(日本社会党)の国会演説

  1年間連載開始―『ガラパゴス国家・日本敗戦史』➁   なぜ、米軍B …

no image
クイズ『坂の上の雲』>「秋山真之」を超えた『忘れられた海軍大佐の戦略家』水野広徳とは何者じゃ

 日米戦争の敗北を予言した反軍大佐・水野広徳  前坂 俊之   (静岡県立大学名 …

鎌倉ウインドサーフィンチャンネル(23年4月29日)五月晴れの下、風に吹かれて乱れ飛ぶサーファーたち

鎌倉ウインドサーフィンチャンネル(23年4月29日)五月晴れの下、風に吹かれて乱 …

no image
『オンラインGoTo トラベルで熊本県に行こう』★『阿蘇山周辺をドライブして、コロナ撲滅を天に祈り、世界中のコロナ鬱を噴煙とともに吹き飛ばそうよ、スカッとするぜ!』(202/10/18)

   To Travelで日本一雄大な阿蘇山周辺をドライブし …

F国際ビジネスマンのワールド・ウオッチ㊻』余りにスローモーで、真実にたいする不誠実な態度こそ「死に至る日本病」

    2014/03/21  記事再録 …

no image
日本メルトダウン(1010)ー1月9日付日経朝刊『どうする2025年のその先―現実を直視せぬこの国』(芹川洋一論説主幹)「2025年、日本では3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という人類史上かつて経験したことのない超超高齢社会を迎える。

 日本メルトダウン(1010)   今からちょうど20年前の日経新聞の1997年 …