前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本興亡学入門⑧ 『西武王国と武田家の滅亡』(創業は易く、守成は難し、2代目、3代目が潰していく)

      2017/01/11

                                  2009年6月1日
日本興亡学入門⑧
西武王国と武田家の滅亡
                                   前坂 俊之
                           (静岡県立大学国際関係学部前教授)
 
次の一文は1985年にある経済雑誌に書いたエッセーです。
 
「一代で〝西武コンツェルン″を築き上げた堤康次郎は一九六四年(昭和三十九)三月に七十歳で亡くなった。死期を悟った康次郎は息子の義明を呼び、「十年間はこのままで行け。自分の考えを出すのは十年たってからだ」と遺言を残した。
 
 この時 、義明は三十歳。義明がリーダーとしての資質に十分恵まれていることを認めながら、三十代はじっくり内部を固めきり、四十代になって飛躍すればよいとの教えであった。康次郎の脳裏に武田信玄と勝頼のことが強くあったことは間違いない。
 義明はこの遺言を忠実に守り、康次郎から受け継いだ〝西武王国″をさらに何十倍も巨大にして、磐石の体制を築き上げた。
 
 英雄は二代続かない、という。大きな成功をおさめた者ほど、その遺産をいかに継承させていくかに腐心する。いつの世にあっても成功者の二代目がそれ以上に成功するのは至難である。信長、秀吉も一代で滅んだ。家康だけが、幕府を永続できたのは、そのためのマネージメントとシステム作りを心得ていたからである。
 
 信長が終生、最も恐れていた男・武田信玄が亡くなって、わずか十年であの強力な〝武田軍団″も滅亡した。そのため、勝頼は世の不評を一手に引き受けた感じだが、勝頼は決して無能な二代目ではなかった。文字通りのダメな二代目であれば、父信玄の遺言を忠実に守り、生き延びたかもしれない。
 
 逆に、積極果敢な性格で、父の遺志を継いで上洛の野望を捨てなかったことがわざわいし、命取りになってしまったのである。信玄は死に臨んで勝頼に今後の生き方を諭した。
 「自分の亡き後、信長に対抗できるものは謙信(上杉)しかいまい。若いお前が頼っていけば、謙信は信義を重んずる人物だからおろそかにはしまい。謙信と和を結べ」
 
 宿敵の信長、家康に対しては、「国境の備えを固くして、攻撃されたならば持久戦に持ち込み、時をかせぎ、信長、家康に年齢をとらせて、果報を待つのじゃ。軽々しく兵を動かすでないぞ」
 
 前方の信長、家康連合軍に対しては専守防衛、後方の上杉とは和睦によって、甲斐を固めよという〝遺訓″であった。
 
「三年間は死を固く隠せ」との遺言を残して信玄が五十三歳で亡くなったのは天正元年(一五七三)四月のことである。
 
 勝頼はこの時、二十七歳。わずか一年でこの遺言を破った勝頼は大軍を動かし、家康方の城を落とし、一度に自信を深めた。信玄の忠実な家臣はそんな勝頼の行動を危惧する。
 
 勝利の祝宴の際、武田二十四将の一人、高坂弾正は満座の席で、「これこそ武田家滅亡の盃なり」と大声で諌言した。
 
 「信長、家康に無理な戦(いくさ)を仕掛けて武田家の滅亡は必至である。この際、両者と和議を結び、北条に向かえば武田家の安泰は間違いない」
 
しかし、勝頼は全く耳を傾けなかった。信玄が亡くなる直前に行われた三方ケ原の合戦で家康と信長の援軍に圧勝したホットな記憶から、勝頼には信長、家康何するものぞの思いが強かった。ことごとく、偉大な信玄と比較され諌言され、守勢へ転ずるように諭されることに勝頼は我慢がならなかったのであろう。
それ以上に、父信玄の果たせなかった上洛の夢を自らの手で果たしたい野望に燃えていた。
 
天正三年(一五七五)五月、長篠の戦で、戦国最強とうたわれた武田騎馬隊も信長の三段装填法の足軽鉄砲隊の前に壊滅してしまう。
その後も謙信と結べば、武田家の余命は保つことができたが、勝頼は拒否し、一挙に破局に向かう。天正十年三月、信長によって、勝頼は滅ぼされてしまった。信玄の〝遺言〃の通り、武田家滅亡のわずか三ヵ月後に今度は信長も本能寺で倒れた。
(以上)
―――――――――――――――――――――――――――――
 
日本の狂った土地バブルの絶頂期、1987年に堤義明は有力経済誌『フォーブス』で世界一の富豪に輝き、資産総額は、210億ドル(日本円で31,500億円・当時)に上った。
 
当時、私はよく鎌倉霊園横を車で通ったものだが、堤康次郎の墓所がここにあり、命日などには数日前からピカピカに磨き上げられた、墓地の一角に大西武王国の家の子郎党、グループ幹部がズラリと平伏し、そこに義明総帥がヘリコプターで空からあらわれ、あたりを睥睨している尊大なビデオを見て、おやおや、とんでもない光景だなと思った記憶がある。
 
世界一の絶頂から、西武王国、堤王国が崩壊したのはそれから10年もかからなかった。
 

 - 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

日本リーダーパワー史(654) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(47) 「川上操六のインテリジェンスー 日清戦争後、野党の河野盤州領袖を説得して、 陸軍6個師団増強に協力させた驚異の説得力」

日本リーダーパワー史(654) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(47)   …

no image
  日本リーダーパワー史(774)『金正男暗殺事件を追う』―『金正男暗殺で動いた、東南アジアに潜伏する工作員たちの日常 』●『金正男暗殺事件の毒薬はVXガス マレーシア警察が発表』★『金正男暗殺に中国激怒、政府系メディアに「統一容認」論』●『  金正恩は金正男暗殺事件の波紋に驚いた? 「国際的注目を浴びるはずない」と考えた可能性も』

  日本リーダーパワー史(774)『金正男暗殺事件を追う』   金正男 …

no image
 ★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日英同盟はなぜ結ばれたのか」⑤ 1902(明治35)年2月16日『露ジュルナル・ド・サン・ベテルスプール』- 『英日条約』に対抗『清国、朝鮮の独立と保全. その他のロシアの利益は大シベリア横断鉄道の 完成によって十分保証されている』●『2月19日『ノース・チヤイナ・ヘラルド』   日英同盟の成立ー『日本は地理的位置の問題を除けば,完全に西洋の国家である。』

 ★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日英同盟はなぜ結ばれたのか」⑤   …

『元団塊記者/山チャンの海外カメラ紀行③』★『オーストラリア・シドニー編②」★『シティ地区の19世紀末のビザンチン様式「クイーン・ヴィクトリア・ビルディング」(QVB)』はゴージャスな雰囲気、ショッピングを楽しむ』

「2017年12月20日の美しきシドニー旅行記」③ シドニー市内へ移動は電車を利 …

no image
速報(72)『日本のメルトダウン』★原発最新情報10本★『ウランいらず「トリウム原発」の可能性』ほか

速報(72)『日本のメルトダウン』   ★原発最新情報10本★『ウラン …

no image
  片野 勧の衝撃レポート③「戦争と平和」の戦後史(1945~1949)➁『占領下の言論弾圧ー① ■検閲されていた日本の新聞、放送、出版、広告』★『業務停止を命じられた同盟通信』

   片野 勧の衝撃レポート③ 「戦争と平和」の戦後史(1945~1946)③ …

no image
日本リーダーパワー史(635)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(28) 『川上操六の日清戦争インテリジェンス①「英国の文明評論家H・G・ウェルズは明治日本は『世界史の奇跡』 と評価」。そのインテリジェンス・スターは川上操六である。

日本リーダーパワー史(635) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(28)   …

no image
日本リーダーパワー史(802)ー『明治裏面史』★ 『「日清、日露戦争に勝利』した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、インテリジェンス⑱『10年以上続く北朝鮮核開発疑惑の無軌道行動に、国連安保理は手を焼いているが、100年前のロシアの極東への侵攻経緯,日露戦争の原因となった満州撤兵の約束無視と朝鮮への侵攻とダブって見える』★『『ロシアの恫喝外交』対『日本の交渉下手、我慢我慢外交』のすれ違いから、ついに堪忍袋を緒をきって、先制攻撃するパターンが日本の戦争のやり方』

 日本リーダーパワー史(802)ー『明治裏面史』★ 『「日清、日露戦争に勝利』し …

no image
小倉志郎の原発レポート(3)「原発は事故を起さなくても危険きわまりない」(10/05)

 小倉志郎の原発レポート(3)   「原発は事故を起さなくて …

no image
(昭和史事件発掘> 『愛のコリーダ』阿部定事件(昭和11年)とは一体何だったのか

『愛のコリーダ』阿部定事件とは一体何だったのか                前 …