片野勧の衝撃レポート『太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑥』『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』郡山空襲と原発<中>
片野勧の衝撃レポート
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑥
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』
―郡山空襲と原発<中>―
片野 勧(フリージャーナリスト)
避難対策に活かせなかった「SPEEDI」
私は阿部さんに原発事故について聞いた。阿部さんの住まいは南相馬市原町区雫。福島第一原発から20キロ圏内だ。
「おかげさまで、津波被害はなかったのですが、一番の被害は原発事故です。政府の指示に従って避難したにもかかわらず、避難先は放射線量が高かったじゃないですか。政府を信じていたのに、これでは誰を信じていいか分かりません」
政府は漏れた放射性物質の量をコンピューターで地図に表示する「SPEEDI(スピーディ)」(緊急時迅速放射能影響予測システム)を装備していた。しかし、政府は大量の放射性物質が放出された3月15日、その多くが北西方面に流れるとの予測をつかみながら、実際の避難対策に活かせなかった。
そのデータを発表したのは原発事故から12日後だった。公開が遅れたのは、枝野幸男官房長官(当時)がしきりに言っていた「パニックを恐れたから」という。しかし、これは政府の欺瞞である。何の情報も開示しなかったのは自分たちの権威を維持するためではなかったのか。
戦時中も日本政府は「人心の動揺を抑えるために」詳細な情報を一切、知らせず、差し迫ってから突然、退避命令を出した。しかも、その命令も怒号で、力づくで。この情景は原発事故で見た情景とよく似ていないだろうか。
日本「帝国」と同じ体質
また、この非公開の国や東電の「SPEEDI」問題は、先の郡山空襲報道とそっくり。原発事故をめぐる政府対応は、依然として上意下達。「拠らしむべし、知らしむべからず」という体質だ。しかし、情報を封殺しても問題自体は解決できないのに、事実をもみ消すのは日本「帝国」と同じ体質である。
避難指示で故郷を追われ、いつ帰れるかも分からず、家族ばらばらの危機に直面しているというのに、なぜ、同じ過ちを繰り返すのか。最前線の現場は戦前の日本兵も今回の福島第一原発の作業員も文字通り、決死の覚悟で戦い続けた。
しかし、最前線が抱える問題の深刻さを日本の指導者が正しく認識できず、「上」からの権威を振り回していただけではないのか。それが責任を曖昧化しているのだ。結局、原発事故の真相を公開しなかったことが、原発事故による被曝者を増大させたのである。
原発事故から1年半が経過しても、いまだに避難者の数が福島だけでも15万人にのぼっているのは、リーダーの不在であり、日本の組織の病巣が昔も今も変わっていないからなのだろう。
動員女学生を引率した教師の証言
再び、郡山空襲について。
原町高等女学校3年生120名の動員生徒を引率した先生の一人、鈴木千代子さんも会報誌『九条はらまち』(No63)に書いている。当時、彼女は25歳。少し長いが要点を引用する。
――「昭和19年10月、原町高等女学校3年生に学徒動員の命令が下った。当時14歳、15歳の可憐な少女たち120名が、“大和なでしこ”の精神を胸に抱き、10月14日、郡山市の日東紡績富久山工場に出動した。
この工場に学徒動員されていたのは、他に磐城高等女学校と川俣工業高校の2校。私の任務は生徒たちの作業現場の巡視と一人一人の健康状態を見ることだった。生徒たちは悪臭や騒音に悩まされ、厳しい寒さに耐え、薬品で手は荒れていた。
最も私の胸を痛めたのは、耐火レンガやガラス繊維製造場だった。汚れた作業衣に防空頭巾を被り、一輪車に粘土を積んで運んだり、型に入れた粘土を窯に入れたりの重労働だった。
作業は午前8時から午後5時まで。成長盛りの生徒だったので、食事の時間になれば一目散に食堂の中へ。一膳の丼飯である。時には故郷から小包が届き、部屋中、大騒ぎになることも。恐らく、親や家族は自分たちの食を減らして子供たちのために送ったのだろう。生徒たちも仲良く分け合って食べていた。
ところが、終戦間近の昭和20年4月12日午前11時頃、アメリカ軍のB29の爆撃を受け、工場は壊滅。死者92人、負傷者27人。幸い、原町女学校生に死者はなく、本当に不幸中の幸い。命からがら逃げ、野宿で一夜明かして工場へ戻り、原町へ帰宅した」
九死に一生を得た彼女たちの忘れられないこの体験記録を読みながら、私はダイエー創業者の中内功氏の言葉を思い出した。
「大東亜戦争は明治生まれが始めて、大正生まれが苦労させられた」
中内氏は大正11年(1922)生まれでフィリピンの混成五八旅団に所属し、ルソン島の守備に就く。1945年8月投降後、マニラの捕虜収容所に入れられたが、奇跡的に生還した。
日高さんや阿部さんのような昭和生まれは学童疎開や勤労動員で働かされた。真珠湾攻撃を始めた時(1941年12月8日)、東条英機首相は57歳。木戸幸一内大臣は53歳。明治生まれの、この世代が大東亜戦争を始めたのである。
配給事情は悪化の一途
戦時中、他の都市と同じように郡山も戦局の緊迫化とともに食糧の配給事情が悪化の一途をたどった。衣料品も極度に不足。衣料切符は年間100点であったのが、50点に減らされ、手拭は3点、毛布は18点。日用品のマッチ、石鹸、チリ紙、タバコ、薪炭なども不足し、配給制度になった。タバコの配給量は1日6本だった。
3・11震災直後、ガソリンを求めてスタンドは長蛇の列。数時間、待ってようやく入れたとしても10リットルまで。まるで戦前の配給制度そのもののような様子を呈していた。
郡山の建物疎開は1943年ごろから始められ、敗戦の前日8月14日まで続けられた。第4期の建物疎開は昭和20(1945)年7月から始められ、郡山駅東部工場周辺1600戸が県の「譲渡命令書」によって買収され、警防団員や中学生などの手によって取り壊され、撤去された。
昭和17年、双葉郡の国民学校二年の担任・宮本喜代さんの証言。
「住んでいる処が建物疎開の指定になり、その指定にあたった家の子供たちは、両親の故郷や知人を頼って疎開をして行くようになった。人によっては第二次の強制疎開の指定区域にあたって再度引っ越すようになったりもした。…(中略)児童の集団疎開がはじまり、第一団は四年から六年までであったが、第二団から年齢を下げて三年生から連れて行くようになった」(「戦争と女教師」発刊委員会編『花だいこんの花咲けど』福島県婦人教師あけぼの会・発行)
強制疎開とは米軍の焼夷弾爆撃による家屋の類焼を少しでも食い止めるために、住民を強制的に立ち退かせ、空き家となった家屋を人力によって破壊したというもの。その強制疎開跡にはたくさんの瓦礫が残っていたが、それはまさに今回の津波の跡地と似ている。
ふくしま集団疎開裁判
原発事故によって引き起こされた放射線被曝。それによる健康被害を懸念して、郡山市の小・中学生14人とその保護者たちが集団疎開を求めて福島地裁郡山支部に裁判を起こした。いわゆる「ふくしま集団疎開裁判」と呼ばれるものだが、これは戦時中の児童の集団疎開と重なる。
原告の小・中学生14人が通う7つの学校の空間線量の積算値は3・11以来、1年間で12~24ミリシーベルトと推計されている。そこで児童たちと保護者たちは被曝から身を守れる環境で教育を受けられるよう郡山市に対し、緊急的に安全な地点に場所を移動させるべきだとして提訴したのである。
しかし、1審福島地裁郡山支部は2011年12月、年間100ミリシーベルトを主たる基準にして、それ以下なら避難させる必要はないと判断し、集団疎開の申し立てを却下した。さらに判決は、子どもたちの「生命身体に対する具体的に切迫した危険性があるとは認められない」とまで断定したのである。
戦時中の集団疎開と今回の「ふくしま集団疎開」――。一方は空襲から逃れるための強制疎開、もう一方は放射線被曝から逃れるための集団疎開。この二つを同列に論じることはできないかもしれない。しかし、生命を守るという意味では、その本質は同じ。
広島で被爆して以来67年間、6000人以上の被爆者を診てきた95歳の医師・肥田舜太郎さんは語っている。
「放射能の影響を受けやすい子どもたちは、汚染の少ない場所に避難させたり安全な食べ物を確保するなどして守られなければなりません」(『内部被曝』扶桑社新書)
肥田医師によると、放射線に敏感な子どもたちに初期の被曝症状が現れているという。下痢が続いたり、口内炎が出たり、のどが腫れて痛いなど……。これらは直接被曝ではなく、漏れ出た放射性物質による内部被曝である。
子供たちの身を守るためにも集団疎開は必要だろう。それも一刻も早くだ。広島・長崎の二の舞にならないうちに。
※太平洋戦争(東北地方の空襲、東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆、沖縄戦、引き揚げ等)と今回の
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片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
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