「Z世代への遺言」「日本を救った奇跡の男ー鈴木貫太郎首相①』★『昭和天皇の「聖断』を阿吽の呼吸でくみ取り、『玄黙戦略」でわずか4ヵ月で国難突破力の終戦を実現』★『太平洋は平和の海で神がトレード(貿易)のためにおかれた。これを軍隊輸送に使ったならば、両国ともに天罰を受ける』
2024/08/20
1936年(昭和11)年2月25日夜。
親日派のジョセフ・グルー米国大使は斎藤実内大臣(前首相)と鈴木貫太郎侍従長夫妻を米大使館に招待して晩餐会を開いた。それまでトーキーを見たことがないという斉藤や鈴木のために、グルー大使は入念に準備して「海軍士官と家出したおてんば娘が恋に落ちるという米映画『『浮かれ姫君』(1時間(1935年制作)を上映した。
4人は目をまるくして熱中して見いった。いつもは午後8時ごろには帰宅する斎藤は、この日に限ってトーキー映画を十分堪能したのか、会話に花を咲かせ午後11時半ごろようやく家路についた。その寝入りばなの、翌11日午前4時ごろ陸軍反乱部隊に襲撃された2・26事件が発生した。
自邸のベッドの上で斎藤は反乱軍兵士から軽機関銃による47発の銃弾を浴びさらに日本刀によって惨殺された。岡田啓介首相の私邸も同時に襲撃され、義弟で秘書官の松尾伝蔵が身代わりで殺されたが、岡田首相は奇跡的に難を逃れ助かった。斎藤はグルー大使が一番尊敬していた友人で、グルー日記には「われわれはどれほど彼を愛し、彼を尊敬したことだったろう。彼の顔からは愛想のいい微笑が消えたことはない」と「グルー日記」に書いている。
翌朝、グルー大使は戒厳令をものともせず、敢然と斉藤実邸を弔問した。けがをした斎藤夫人が布をとった死顔を見て、グルーは昨夜の笑顔を思い浮かべて涙にくれた。グルー大使は鈴木邸宅をも相次いで見舞いに訪れ、救援に動く中で斉藤夫人、斎藤たか夫人たちの献身的な行動に武士の妻のサムライ魂と夫婦愛に深く感動し、より一層の日本理解を深めた。
同時刻に、鈴木貫太郎侍従長官邸も反乱軍部隊に襲われた。「兵隊が乱入して来ました」とのお手伝さんの悲鳴に、鈴木は納戸に日本刀を取りに入ったが、見つからない、探している内に兵隊の軍靴が近づいてきた。忠臣蔵で吉良上野介が納屋に隠れていて見つかり武士の恥辱を受けたことを思い出し、すぐさま八畳間の部屋に引きかえした。すると、2,30人の銃剣をつけた兵士たちがドヤドヤと入ってきて鈴木を取り囲んだ。鈴木は素手のまま先頭にいた反乱軍伍長と対峙した。
鈴木は「静かになさい。理由を話し給え」と三度聞いたが、返事がない。無言の対決が十数秒続いた。伍長が「時間がありませんから射ちます」とピストルを構えた。「それでは撃ちなさい」―鈴木が平然と答えると、四発の銃弾を発射した。血しぶきを上げて、横転した鈴木に対して「とどめを……」と兵士の一人が叫び銃口を頚部に押しあてた。
その瞬間、「それだけはやめて下さい!」―
4mほど離れて端坐し、一部始終を見ていた「たか夫人」が毅然と言った。指揮していた安藤輝三大尉はその一喝!に驚き、「もはや生き返るまい」と思ったのか中止を命令し、血だらけで横たわる鈴木に、「閣下に敬礼!」と全員で捧げ銃をして引上げた。部屋はかけつけた医師がすべって転ぶほどの血の海になり、鈴木の心臓、脈も一時的に止まっていたが、奇跡的に一命だけは取り留めた。夫人の一言で九死に一生を得たわけだが、この時、いくつもの偶然が重なっている。
もし、納屋で日本刀みつかり、鈴木が応戦しておれば斎藤実、渡辺 錠太郎(陸軍大将、教育総監)同様に機関銃で惨殺されていたことであろう。4発の銃弾はいずれも心臓を外れたこと。輸血協会の医師が脈の切れる寸前に車でかけつけてきた。さらに、赤坂見付の叛乱軍の前哨線でストップさせられたが、その歩哨が偶然にも医師の患者であったので、車を通してくれ、何とかぎりぎりで間に合ったのだ。しかも、輸血の青年の血液型も鈴木と同じO型で、奇跡の9連発で、まさに九死に一生を得たとはこのことです。
歴史に「if」は禁物ですが、もし、この時、鈴木が亡くなっておれば、昭和天皇の聖断による終戦はなかったでしょうし、まるで違った昭和戦後史になっていたことはだけは間違いありません。
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鈴木貫太郎首相(77歳)が登場、わずか4ヵ月で終戦を実現
1945年(昭和20)に入り日本の敗色はすでに決定的となってきた。3月10日には東京大空襲があり、罹災者は100万人を突破。沖縄戦は4月1日から米軍上陸作戦が展開され、戦死者は一般住民約9万4千人、日本軍9万4千人、米軍1万3千人の計約20万人が犠牲になった。
4月7日、沖縄戦に特攻中の戦艦大和が撃沈され乗組員死者約3千余人。4月7日には8ヵ月続いた小磯国昭内閣がつぶれた。「後継内閣」として東條英機内閣を倒した岡田啓介元首相は強力に鈴木貫太郎を推薦した。この大国難を突破できるのは「第2の西郷隆盛」「不死身の貫太郎」とうたわれた鈴木以外にはいないことを身をもって知っていたのです。
4月7日、鈴木貫太郎内閣が誕生した。
昭和天皇は信頼する鈴木枢密院議長を呼び、「総理就任を頼む、他にはいない。」というと、鈴木は「自分は一介の武人として、政界に何の交渉もなく、政見も持っておりません。政治に関与しないという明治天皇の勅諭を生涯守ってきました。どうか拝辞をお許しください」と固辞しました。
すると昭和天皇はニッコリ笑い、「そう申すであろうことは、わかっておった。しかしこの危急の時にあたって、今の世の中に他に人はいない。政治にうとくてもよい、耳が遠くてもよい。どうか曲げてでも承知してもらいたい」と異例の懇願をしたのです。77歳という高齢の鈴木は、国家存亡の危機に当たって天皇の真意(終戦)を「阿吽(あうん)の呼吸」のうちにくみ取り承諾します。日本憲政史上、最高齢の77歳で鈴木貫太郎内閣が誕生です。ちなみに、1938年(昭和7)の5・15事件で暗殺された犬養毅首相は76歳で首相になっている。
鈴木は「海戦の勇士」「不死身の貫太郎」
鈴木貫太郎(1868年(慶応3)1月― 1948年〈昭和23年〉4月)は大阪府堺市生。17歳で海軍兵学校に入学、卒業後の日清戦争では「水雷艇長」として大活躍し、その敢闘精神から「鬼の貫太郎(通称・鬼貫(おにかん)「不死身の貫太郎」の異名をとっていた。日露戦争の日本海海戦でも大活躍した歴戦の勇士です。
第一次世界大戦が勃発した1914年(大正3)に海軍次官に就任、大正4年6月、50歳の鈴木は足立たかと再婚した。たか夫人は、新渡戸稲造博士らと同学の農商務省技師の足立元太郎の令嬢で32歳。東京女子師範保拇科を卒業後、皇太子袷仁親王(13歳の昭和天皇)の保育係を務めていた。
1918年(大正7)3月,51歳の時、練習艦隊司令長官として2隻の練習艦を率いて米国への友好親善の遠洋航海に出かけた。当時の日米関係は「日米戦争勃発か!」と叫ばれるほどの危機的な状況にあった。日本人移民の排斥問題がカルフォルニア州で起きていた。1920年(大正9)当時、日本人移民は米国全土で約12万人、そのうちカルフォルニア州には7万人。日本人移民は白人労働者の賃金の何分の一でその何倍も熱心に働いて、白人労働者の職場や土地を奪っていた。
白人社会の宗教、文化のマナーを守らず、地域に溶け込まない、などの理由で白人労働者から排斥運動がおこり、1913(大正2)年8月に日本人との土地売買を禁じる「排日土地法」が成立、日系人は移民・帰化を完全に否定された。1924年にはこの法律が拡大され全米で「反日移民法」が成立した。
日本側から「人種差別だ!」と激しい反対運動が起こり、右翼らも「日米戦争近し!」、「米国を撃て!?」と叫び、両国の対立はエスカレートした。トランプ米大統領による「移民受け入れ拒否問題」の先駆的な事例です。
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太平洋は平和の海で神がトレード(貿易)のために置かれた、これを軍隊輸送(戦争)に使ったならば、両国ともに天罰を受けるだろう
そんな中、鈴木司令官一行はサンフランシスコやロスアンゼルスなどで米海軍、市民などの歓迎パーティーに招かれ、鈴木司令官は毅然として「日米非戦論」のスピーチを行なった。
「日米戦争について米日両国で盛んに議論されている。しかしこれはやってならぬ。いくら戦っても日本の艦隊は敗れたとしても日本人は降伏しない。また、米国にも米国魂があるから降伏はしない。兵力の消耗戦が続き両国に何の利益もない。
太平洋は平和の海で神がトレード(貿易)のために置かれたものであり、これを軍隊輸送(戦争)に使ったならば、両国ともに天罰を受けるだろう」と演説し、拍手喝さいを浴びました。
1924年(大正13)1月、鈴木は連合艦隊司令長官に就任、7月1日に30数隻の大艦隊を率いて大演習を実施した。途中、発達中の台風に遭遇し演習を急きょ中止し、母港の大分県佐伯湾に向かって引き返した。夜になると台風はますます激しく、大型化して、艦隊は木っ端のように大揺れ。全艦隊がバラバラとなり、沈没の危険性がでてきた。
鈴木司令官は一晩中,先頭艦の艦橋に立って強風で荒れ狂い、前方が全く見えない台風の情況を注意深く監視していたが、「夜が明けるまで直進して台風圏を突破せよ」と全艦隊に命令、翌朝やっと波もおさまり、が無事に帰港できた。
鈴木はこうした危機一髪の体験を何度かしている。誰も見ていない夜の荒海に艦上から誤って転落したこともある。普通なら絶対に流されて死んでしまうが、船尾のロープに幸運にもつかまって高さ10m近い艦上まではい上がり、奇跡的に助かったこともあった。
鈴木は「自伝」の中で「司令官は当直士官や参謀長の報告を聞いてからではなく、自分の眼で見て即座に命令を出さねばならない。日本海海戦で敵前大回転を命じた東郷平八郎は参謀らのシュミレーションを踏まえて、自分の目で敵との距離を測り、電光石火で決断したのを、私も追体験でした」と語っている。
ある時、その東郷平八郎に「司令官の心得とは何か」と聞くと「国際法の徹底遵守」と「率先垂範のリーダーシップ」と教えられた。鈴木はこの東郷の教えを心に刻み、自らの座右銘「奉公十則」の中の「言行一致、議論より実践」「易(やす)き事は人に譲り、難き事を行う」「常に心を静かに保ち、危急時にはなお沈着になるべし」を終生、実践してきた。
1929年(昭和4)に60歳で予備役編入され、天皇侍従長になり8年間にわたって昭和天皇にお仕えし、土壇場の昭和20年に総理大臣(第42代)にひっぱりだされた。一貫して海軍本流を歩み、山本権兵衛、東郷平八郎、斎藤実、岡田啓介らの良識派・国際派・親米派のグループに属しており「救国の宰相」となって、大日本帝国最後の総理大臣として登場したのです。
鈴木内閣が成立すると、陸軍若手将校らは無条件降伏を受け入れて降伏したイタリアの内閣に擬して「パドリオ終戦内閣か」と騒ぎ出した。
この時期、和平や終戦は一切タブーであり、鈴木は和平を深く胸中に秘めていた。態度には微塵も出さず「国民よ、わが屍を越えて往け」と訴え、陸軍をいかに抑えるかに全精力を集中した。
戦争を早期終結させる戦略をひそかに練り、長年、戦場で鍛え上げたその決断力(胆力、禅の精神)とリーダーシップ(指導力)、インテリジェンス(叡智)、で「長寿逆転突破力」を発揮していった。
①その秘訣は一体どこにあったのか。「玄黙」とは何か
終戦当時の記録は山ほどある。しかし、鈴木首相自身が当時の心境について書いたものはまったくない。わずかに、『木戸幸一日記』のなかに、鈴木自らの行動について釈明した部分があり、そこには「玄黙を守り、反対しなかつたために誤解を生んだ」と一行、書き加えている。
この「玄黙」こそが、鈴木の不動の信念であり、彼のリーダーシップの根本を示した言葉である。
「玄黙」とは彼が愛読した中国古典の兵術書『六韜』(りくとう)の一節で「事をおこせば必ず克つ」「用うるに玄黙より大なるはなし」「動は不意をつき、謀は他人に知らしめず」とある。終戦へと至る道は、鈴木の「自分の腹の内、手の内は一切見せず、また一切弁明しないのが、大事を成し遂げる統率術である」との信念の実践だった。
②もう1つの「座右銘」が老子の「治大国若烹小鮮」(老子の60章)
『大国を治むるは小鮮(しょうせん)を烹(に)るが若し』で、「小さな魚を煮るときに無理したり、急いだりすると形が壊れてしまう。ほどよい火加減でそっとしておいたほうがよい。これと同じく大国を治めるものは、さながら小魚を烹るようにしなければならない、という意味だ。
③「汐待ち」
さらに鈴木は、「僕は船乗りだが、霧などで行くべき方向がわからなくなった時は、いろいろ無理して手探りすることは禁物で、落着いて、止って霧などの晴れるのを待つのが舟乗りの常道である」と「汐待ち」の重要性を挙げていた。事態は刻一刻と変化する。鈴木首相の「玄黙」の真骨頂がここにある。
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