日本リーダーパワー史(351)12/16総選挙ー大正デモクラシー、大正政治のリーダーシップから学ぶ。日本の政治は百年前から進歩したか』
日本リーダーパワー史(351)
<12/16総選挙で選びたいリーダーがいない日本の悲劇>
●『ちょうど100年前の大正デモクラシー、大正政治を変革したリーダーシップから学ぶ。日本の政治は100年前からどこまで進歩したのか』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
大正の政治を概括する.
「坂の上の雲」を実現した明治と比べれば、大正は「峠の時代」「内政の時代」(内に大正デモクラシ―と立憲主義、外には帝国主義)(松尾尊兌)といえる。
それが昭和に入ると軍国主義の動乱期に突入し「坂の下のドロ沼」に転落する、この明治と昭和の「明暗」を分ける端境期が大正であり、大正15年間で10代の内閣が誕生している。平均でほぼ1年半という短命内閣である。
大正は「大正政変」の第一次護憲運動で幕開く。
この結果、大正2年2月に第16代の第1次山本權兵衛内閣が誕生する。藩閥、軍閥内閣と批判されながら、軍閥政治のガンの軍部大臣現役武官制を廃止する英断をみせたが、同3年1月に海軍高官による汚職のシーメンス事件が発覚して、山本内閣は総辞職した。
次に大正3年4月に70歳の大隈重信にお鉢が回り、第2次大隈内閣が成立した。
維新元勲の一人で、自由民権の大隈もすでに70歳となっており、日本の舵取りに失敗する。ちょうど「戦争の世紀」といわれた20世紀の最初の第一次世界大戦が勃発した。
ヨーロッパでの対岸の火事視した大隈は、列強のいない間に中国に「対支21ヵ条の要求」を突きつける強硬外交を展開して、中国側の憤激を招いた。この日中外交の失敗が昭和の敗戦へと尾を引く結果となる。
この後、大正5年10月に登場するのが、朝鮮総督の功績が認められた寺内正毅陸軍元帥の超然内閣(ビリケン内閣)である。
日本が世界大戦による空前の景気変動に翻弄されていた1917年(大正6)3月、ロシアでは2月革命で史上初の社会主義革命に成功する。
この影響で、世界中に民衆革命、デモクラシーの大波が押し寄せた。同年7月、富山で米騒動が勃発、全国に飛火した。寺内内閣はこれを鎮圧してシベリア出兵までも強行したのに対して、反対運動が起こり、9月に総辞職に追い込まれた。
こうした護憲運動,大正デモクラシーの高揚によって、日本で初めての本格的な
政党内閣、平民宰相の原敬内閣が誕生する。
政党内閣、平民宰相の原敬内閣が誕生する。
政党政治を一貫して敵視していた藩閥・軍閥・官閥の総本山・山県有朋が日本の議会制政治の発展を阻害していた張本人だが、その山県を抑えて政権を奪取した原の政治力は傑出していた。明治以来の藩閥・軍閥政治にストップをかけた。
原は普通選挙法の制定を推進し、軍縮平和を唱え、国際連盟に加盟して国際協調主義をとった。本格政権としてこの間に、大正デモクラシーが花開き、労働運動が高揚し、ロシア革命に干渉するシベリア出兵も一時的に控え、対中外交も友好的ムードであった。
ところが、大正9年11月、突然、原首相は東京駅で暗殺される。原の在任期間は3年2ヵ月に及び、突出した政治力で立憲政友会を母体にした政党政治を進めていた矢先の斃死は日本のその後の長い議会政治漂流の原因となった。
この後は高橋是清内閣が原内閣を後継し(在任期間8ヵ月)、海軍大将・加藤友三郎(同1年2ヵ月) 第2次山本權兵衛(同5ヵ月)、山県の子分で枢密院議長の清浦奎吾(同5ヵ月)、護憲三派連立内閣の加藤高明(同1年7ヵ月)、若槻礼次郎の各内閣にジグザグに政治は迷走し、大戦後の世界的不況と、関東大震災(大正12年}による震災不況に苦しむことになる。
大正デモクラシーの推進者
大正は立憲政治が一挙に花開いた時代であり、憲政擁護運動から普通選挙法の実現、政党政治が上昇するはなやかな時代であった。
当時「第三維新」、「大正維新」という言葉がスローガンとなり、この大きな変革のうねりが「大正デモクラシー」という言葉に象徴されジャーナリズムをにぎわした。添田知道(演歌師)は「明治が大正に切りかわった途端にガラリと変わり、明るいムードと解放感に見舞われた」と語っている。
この大正デモクラシーを思想的に牽引したのが憲法論では天皇機関説の美濃部達吉、政治論では民本主義論の吉野作造らである。美濃部は「天皇王権説」に対する「国家法人」説を唱えて、法人としての国家が主権の主体であり、君主は国家の最高機関であるとした。天皇の絶対的神格性を否定し、衆議院の国家機関における優越性と、政党内閣制の権限を最大限拡大して、護憲運動の理論的な根拠となった。
これに第一次世界大戦のヨーロッパから帰国した新進気鋭の学者の東大助教授吉野作造と京大助教授河上肇が本場のデモクラシーを日本に輸入してカルチャショック(文化摩擦)を引き起こす。
当時、世論をリードしていた論壇誌「中央公論」『改造』『解放』や「朝日」「毎日」などの新聞で吉野は「民本主義」、河上は「社会主義」を次々に展開、大正デモクラシーのうねりを起こした。当然、この背景として急速な資本主義経済の発展による都市の富裕層、中間層、無産大衆階級が増大したことがある。
封建的束縛からの個人の自我の解放と市民的自由の要求、それが個人主義、自由主義、社会主義、労働運動、婦人解放運動にも連鎖反応的に広がり、政治、経済、社会、思想、文化、生活、娯楽のあらゆる分野が一大変革の波に洗われた。
大正デモクラシーは近代日本の民衆運動史の中では、196、70年の安保闘争、学生運動の盛り上がりと比肩するものだが、知識人、大衆が結びついて起こした点では同じである。
1918年(大正8)、民本主義の学者、思想家らが大同団結して言論団体「黎明会(れいめいかい)」を結成し、大正デモクラシー運動の母体となったが、麻生久、福田徳三、新渡戸稲造、穂積重遠、大庭柯公、大山郁夫、渡辺銕蔵、高橋誠一郎、姉崎正治ら当時の代表的な知識人、学者が集まった。
世界の新知識の普及と危険な頑迷思想の撲滅を掲げて毎月の講演活動などに取り組んだが、政府、体制側からのきびしい弾圧によって、2年間で解散に追い込まれた。
女性解放運動では平塚らいちょうの「青鞜」から『新しい女』の主張が大きくなり、普選運動と並行して「婦選運動」、男女平等の要求へと拡大していく。
労働運動では大正元年、鈴木文治による友愛会がそのトップを切ってできたが、労働者の組織化、ストライキ件数は大正6年から増加し、大正9年になると労働組合も激増し日本労働総同盟が誕生し、第一回メーデーが行われた。
大正デモクラシーのシンボルとして、大正の思想、文化を語る上で、忘れてならないのは新宿中村屋創業者の相馬愛蔵、相馬黒光夫妻による『文化サロン』で花開いた国際主義であり、ヒューマニズムある。多くの日本人芸術家、文化人ばかりでなく、インドの亡命革命家・ラス・ビハリ・ボースやロシアの亡命詩人・エロシェンコらを自宅にかくまいパトロンとなった稀有な精神こそ大正デモクラシーのシンボリックな華といえる。
原敬の最強のリーダーシップがテロに斃れたのが日本の運命を狂わせた。
① 原 敬 はらたかし1856~1921年( 安政3~大正10) 享年 65
1856年(安政3)2月、盛岡市で南部藩士・原直治の二男に生まれた。
もともと三百石の筆頭家老(士族)の家柄で、20歳で分家したため戸籍上は平民になった。司法省法学校(のち東大)や、中江兆民の仏学塾でフランス語を学んだ。「薩長藩閥以外は人にあらず」という時代風潮の中で、賊軍出身者は独力ではい上がるしかないと、記者から代議士、大臣を夢みて郵便報知新聞に入社(1879)した。
その後、外務省に入省、パリ公使館に2年間在任、大阪毎日新聞社社長となり、1900年(明治33)に伊藤博文が立憲政友会を結成すると,その剛腕で44歳で幹事長となった。
明治35年で、盛岡から衆議院議員に初当選。傑出した政治力を発揮して政友会の勢力を着実に拡大、逓信大臣、内務大臣を経て大正7年9月に62歳で衆議院議員・政党人として初めての首相となった。そのため平民宰相、わが国初の政党内閣と呼ばれた。
原はジャーナリスト、外交官、実業家、政治家と多彩な経歴から、藩閥政府、軍閥と戦いながら、政党政治を着実に進めた。明治の政治、陸軍を牛耳っていたのは山県有朋であり、政治の近代化を妨げる巨大なカベとなっていた。
原は山県閥と戦い、山県とひざ詰め談判を重ねながらその権力を骨抜きにしていった。
① 原は国民のための政治を行い、国民に情報を公開するオープンな姿勢があった。君主制、藩閥政治のガンは秘密主義だが、シーメンス事件では大臣、関係者の収入の公開を求め、社会主義政党の結党届にも寛容な態度を示し、大正天皇の病状も積極的に公開した。司法の公開するため陪審制度を導入した。
② 原は軍縮に取り組んだ。日本を滅ぼす原因の1つの軍部大臣現役武官制を廃止し、文官の軍部大臣を実現した。ワシントン軍縮会議を成功させた。軍部が統帥権をふりまわして、政治を壟断した時代に、軍部をしっかり抑えた。
③ 外交面では国際協調主義をとった。シベリヤ出兵には反対し、米国重視、中国への不干渉と通商貿易を重視した。パリ講和会議では人種差別撤廃法案を提案した。
④ 周囲の猛反対をおさえ、首相在任中に皇太子(昭和天皇)を1921年(大正10)に約半年間、ヨーロッパ旅行に旅立たせた。広く世界に目を開き、英国流の立憲君主制や王室のあり方を学ばせた。昭和天皇の思想形成に大きな影響を与えた。
⑤ 83冊にのぼる原敬日記(19歳からころされる1週間前65歳まで)を残した。首相在任中も、自らの権力の内幕を記録することで、正確な歴史を後世に残そうとした情報公開の信念、ジャーナリスト魂を持っていた。
大正10年11月4日、原敬は東京駅でテロに倒れた。65歳。ワシントンポスト紙は「世界平和のため努力を惜しまなかった政治家」と哀悼を表し、世界はその横死を惜しんだ。
略年表
西暦 年齢 主な出来事
1856年 1歳 盛岡市に生まれる
1876年 19歳 司法省法学校入校
1898年 42歳 大阪毎日新聞社長
1907年 51歳 内務大臣
1915年 59歳 政友会総裁
1918年 62歳 米騒動、シベリヤ出兵、
内閣総理大臣に就任
1920年 64歳 政友会が第1党に
1921年 65歳 ワシントン会議開催
1921年 65歳 暗殺される
② 尾崎行雄 おざきゆきお1858~1954年(安政5~昭和29)享年 95
第一回総選挙以来、連続当選25回、昭和28年まで63年間にわたって議員生活をおくり、日本の「議会政治の父」、「憲政の神様」と謳われた。
尾崎が華々しく活躍したのは、大正護憲運動で、「口を開けば忠君愛国をとなえるが、常に玉座の陰にかくれて政敵を狙撃する」と内閣弾劾演説を行い藩閥政治の象徴の桂太郎内閣を倒した。以後、犬養毅と並んで「憲政の2柱」とたたえられた。
「日米をかける友好の桜」として有名なワシントンのポトマック河畔の桜を贈ったのも尾崎。東京市長時代の1912年(明治45)に、タフト米国務長官夫人から要望され、3千本を送った。その2大政治姿勢は「ふせん」、「普選」(普通選挙運動)と「不戦」(軍縮・平和)。大正期では「普選」運動の先頭に立ち昭和に入っては軍部ファシズムと戦った。
昭和17年、東条英機首相の翼賛選挙を厳しく批判して不敬罪で起訴され、85歳で拘置された硬骨漢。1945(昭和20年)に予言通り日本は敗戦。戦後は一躍「憲政・護憲の神様」として復活した。
略年表
西暦 年齢
1858年 1歳 神奈川県相模原市生まれ
1882年 23歳 記者から立憲改進党へ
1890年 31歳 第一回総選挙で当選、
1903年45歳 東京市長になる
1913年55歳 桂内閣の弾劾演説をする
1920年 62歳 普通選挙運動の先頭に立っ
1942年84歳 不敬罪で起訴、懲役8ヶ月、
1945年 87歳 世界連邦建設決議案を提案
1950年 92歳 アメリカから招待される
1954年 95歳 逗子市で永眠する
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